山本益博の ずばり、この落語!
第九回「橘家圓蔵」 平成の落語家ライブ、昭和の落語家アーカイブ
毎月連載
第9回
第一回『月の家円鏡独演会』プログラム(1979年1月29日(月) 渋谷・東邦生命ホール/主催:円鏡の会) (写真:横井洋司)
橘家圓蔵というより、やはり月の家円鏡の名前の方が彼には似合っていた。
昭和53年(1978年)秋、立川談志師匠から、師匠の銀座の行きつけのバー「美弥」に呼び出された。「月の家円鏡の独演会のお手伝い、つまり面倒を見てくれないか?」という師匠からの頼み事だった。テレビ、ラジオで売れっ子だった円鏡師匠を、本業の落語で本気にさせようという企みだった。
そのことを、後日、談志師匠は『談志百選』(講談社刊)に次のように書いている。月の家円鏡の本名は、大山武雄。
「タケちゃんは『兄さんには随分世話ンなった』というが、この際いっておく。家元タケちゃんには随分迷惑はかけたが、世話をした覚えはない。タケちゃんの実力で売れたのだ。
一度だけ、
『オイ、タケちゃん独演会をやんなよ』
『でも、、、、、』
『きめてきたよ会場を、プロデューサーに山本益博というのを連れてきたから奴にまかせな、大丈夫だから、、、、』
で独演会を益博プロデューサーで続けたことがあった。
いつだったか、『兄さん、俺ネ、若い頃ネ、売れてる芸人より売れない芸人を観察(みて)たんだ。“何でこの人は売れないのか”ってネ、これでどうすればいいのか判ったんだ』
彼とやったニッポン放送の『談志・円鏡歌謡合戦』はDJの大傑作である。私の落語観、人間論の根底はアレである」
『月の家円鏡独演会』の第1回は、1979年1月29日、渋谷の東邦生命ホールで開かれた。第2回は4月23日と年4回ペースで、その後、橘家圓蔵を襲名後も続き、1983年11月1日の第5回『橘家圓蔵独演会』で完結した。満5年、円鏡から圓蔵と名を変えて、通算20回を数える独演会だった。
円鏡師匠は、この『独演会』で、数多くのネタを仕込んだ。『火焔太鼓』『寝床』『船徳』などはその代表と言ってよい。
それまでの円鏡と言えば『道具屋』『猫と金魚』『反対車』『浮世床』など軽い噺を十八番とした落語家だった。
円鏡の持ち味は、スピードとナンセンスギャグ。言葉が速射砲のように飛び出す。そのなかに、突然、即興のギャグが入る。
『猫と金魚』で、大事な金魚が金魚鉢からいなくなったのを見て、旦那が番頭に言う。「オイ、金魚がいなくなったよ」すると番頭が答える。「いえ、私食べません」
『反対車』では、韋駄天の車夫が唾を飛ばしながらしゃべりまくると、乗っていた客が「オイ、口にワイパーつけたらどうだい」
『寝床』で、旦那の素人義太夫を聴く会を町内の店子が断る理由に、昨日は腹を壊し、何べんもはばかりにいかなくてはならず、「つくづく、回数券が欲しくなった」と。
すぐに思い出すだけでもいくつも浮かび、もったいないくらいに1回限りのギャグ(くすぐり)が山ほどあった。
その天才ぶりに陰りが見え始めたのが、「橘家圓蔵」襲名後である。円鏡はどうしても自分の師匠の「橘家圓蔵」を継ぎたかった。大名跡であるがゆえに、その名前の大きさに異能の天才がつぶされてしまったのではなかろうか。
どっしりとおさまった「橘家圓蔵」より、いつまでも軽口をたたいて周りを笑わせた「月の家円鏡」の方が断然似合っていた。一代で大きくした「月の家円鏡」の名前ならば、その異端の芸は忘れ去られることはなかったと思う。
円鏡師匠はことあるごとに言っていた。「志ん朝さんは巧い芸、談志兄さんは達者な芸、だから、私は面白い芸でいく」と。