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Netflix『もう終わりにしよう。』が本当に終わらせたかったこと 話題を呼んだ謎の数々を読み解く

リアルサウンド

20/10/21(水) 12:00

 もう終わりにしよう。

 例えば夜更かし、次の日に二日酔いになるような深酒、食事制限のみの万年ダイエッター、うまくいかないとわかっている惰性の関係。私たちは常に何か新しいことを始めたいと考えたとき、悪しき習慣や状況を終わらせようとする。その終わらせ方は人それぞれだ。何か始めることもなく、ただ終わらせたい時だってある。問題は何を、どのように終わらせるかだ。

 恋人に別れを切り出す方法を一つとっても、何通りあって、どれが正解なのかわからない。もうこれ以上関係が発展しない、彼を愛していない。そんな自分の気持ちに薄々気付きながら彼の実家に向かい、両親とディナーをともにすることも選択肢の一つだ。私は正直ごめんだね。いや、こんなの誰もが嫌だろう。しかし、ノーと断れない主人公ルーシーは道中に自分の気持ちや彼氏のジェイクを洞察しながら思考を整理する。延々と紡がれる彼女の言葉と『マルコヴィッチの穴』で知られる鬼才チャーリー・カウフマンによる映像表現で描かれた作品が、Netflixオリジナル『もう終わりにしよう。』だ。

 本作は一見難解そうで実はとてもシンプルな作品だ。そして、物語の解釈は観た人それぞれで違うし、全てが正解だと原作者イアン・リードは語る。大学生がカルトによるフェスティバルに参加して悲惨な死を遂げていくホラー『ミッドサマー』が、実は最初から最後までカップルの別れのプロセスを描いた作品だということはもう周知のことだが、『もう終わりにしよう。』はこれに非常に似た雰囲気がある。しかしこの映画は、ルーシーがジェイクとの関係を終わりにしようとした物語に見えて、実は全く違うものを終わらせる物語だったのだ。では、何を“誰が”終わらせる話なのか。映画を一度観ただけでは咀嚼しきれないであろう本作の仕組みを一つの視点を持って書きたいと思う。

※ここから先は『もう終わりにしよう。』の結末に関わるネタバレを含みます。

ルーシーはジェイクである

 映画を観て、原作本を読んで、もう一度映画を観ると、カウフマンの仕掛けや様々な場面に散りばめられた、説明ができそうでできない違和感を吹っ切ることができる。なぜ、ルーシーが作ったはずの「骨の家」の詩がジェイクの子供部屋にあったのか、なぜ幼少期の彼女の写真が実家に飾られていて、それがジェイクの写真とされていたのか。なぜ彼女の描いた絵が地下室にあり、絵のサインはジェイクのものだったのか。

 答えは簡潔で、ルーシーとはジェイクなのだ。つまり、ルーシーとはジェイクの想像したキャラクターで実在しない。いや、厳密に言うとジェイクがバーで出会って、“本当は番号を交換したかった”女の子である。二人は一人。その視点で作品を観直すと数々の違和感が一気に解決する。まさに『ファイト・クラブ』だ! そして彼の両親も、彼の想像の産物。はっきり言うと、この映画の大部分が学校で清掃業務をする年老いたジェイクの空想なのだ。

 この映画は孤独な男ジェイクが「もう終わりにしよう」と考えながら、過去に出会った女性と“もし付き合っていたら……”と妄想して半生を振り返る物語である。そして彼が本当に終わりにしようと思っていたことは勿論、恋人との関係性ではない。

自分の人生を終わらせようとする老人ジェイクの物語

 そう、本作は最初から最後まで「死ぬこと」を描いた作品なのだ! それを踏まえながら、シーンを整理していこう。

 まず物語の冒頭。ルーシーがジェイクとの終わりについて考えていると、話している最中に映し出される家の様子はジェイクの実家のものであり、彼女が出発時に見上げていた窓辺の男は老人のジェイクである。そこから、終わりを決意したルーシーを乗せて車は実家へと向かっていく。これは終わりを決意した老人ジェイクが、人生を振り返る旅に出たことを意味しているシーンだ。

 その後、彼が車を走らせ学校に向かい、清掃業務をこなすシーンが断片的に登場する。このシーンが全て現実パート。昔、バーで素敵だと思った彼女にあの時声をかけていれば、孤独な生涯を送ることも、それ故に終えたいと思うこともなかっただろう。そう感じた彼は彼女と付き合えていたら、という妄想をしながら自分の人生を振り返る。

ルーシーとジェイクの会話

 つまり車中で永遠に繰り広げられる議論やジェイクに対するルーシーの見解は、ジェイク本人が自分に対して感じることだ。なんたるセルフエスティームの低さ! しかし、ルーシーは彼のことを時折「素晴らしい人だ」「優しいし」と言って肯定し、いい部分を見ようとする。これは彼自身の自己肯定感の表れでもある。

 そして彼らの車中の会話、「時間」や「自爆する人、死にたいヤツもいる」という話や豚小屋での「ウジの湧いた豚」の話も全てが生きること、そして死ぬことについてであるのも興味深い。そしてついにたどり着いた、実家。彼は「すぐに中に入りたくない」と言って、ルーシーに家畜小屋を案内する。これは、彼には両親の記憶を振り返る心の準備が必要だったことを意味している。

実家のシーンから見える彼の生涯

 実家パートでは、ジェイクのその終わらせたい人生がどんなものだったのか垣間見える。主に両親の様子や言葉から家族の関係性を探っていくのが面白いシークエンスだ。

 彼は幼少期から家庭に対して悩みを持っていた。彼の母親はジェイクを愛していたが、精神が病んでいた。原作本ではあの地下室の入り口は“内側”から鍵がかけられるような仕組みになっていて、表のドア部分には複数の引っ掻き傷があった。映画ではジェイクがこれを「犬のせい」と言っているが、明らかに高さが犬の所業ではない。恐らく、病んだ母親が落ち着くまで、ジェイクは時折地下に逃げ込んでいたのではないだろうか。彼はルーシーに「僕は地下室が嫌いだ」とはっきり言っている。彼にとって、トラウマの空間なのだ。

 ルーシーはそこで彼の描いた絵を見つける。彼は詩や絵、写真を愛する勤勉な青年だった。極めて内向的でアート寄りだからこそ、スポーツ好きでアートに興味・理解のない農業民の父とソリが合わなかったのだろう。母親はそんな父の肩を持つが、二人とも口論が絶えず、彼は壁越しにそれを聞いていた。特に「ジェイクが中一になって以降、話についていけなくなった」と話していることから、ジェイクが最も多感な青年期からすでに孤独だったことがわかる。母が友達や彼女が遊びに来たことがあまりない、と喜んだこともそうだ。彼は人が苦手だった。

 そんな母は年老いて介護が必要になり、元々仲のよくなかった父は認知症に。周りに誰もいない彼は一人で二人の世話をし、看取った。そして現実のパートで、年老いた彼が実家から車を走らせて職場に向かう様子から、彼はその後もずっと実家に一人で暮らしている。

学校のシーンから見える彼の感情

 現実では年老いたジェイクが演劇部の練習を見たり、(この時妄想パートでは車内でルーシーにミュージカルが好きだと話している)、休憩中にロバート・ゼメキス監督作のラブコメ(これ、実在しない嘘映画です)を熱心に観ていたりと、その後の彼がどんな人か垣間見える。そこから伺えるのは、本当はもっと堂々として表に立ちたい、恋に焦がれる初老のパッションだ。それに、自己を表現したくてたまらない。彼が本当につけたかったゲームチームの名前は「イプセイティ」で、それは自己性や個体性を意味する。つまり彼は誰よりも、そういう情熱だの愛だのに憧れているのだ。そしてだからこそ、それらのない人生に絶望している。

 この映画に相当心打たれたのか、その後の妄想パートでルーシーとジェイクの出会い方が「ゲーム大会」から「彼女がウェートレスをしているダイナーで」に変わっていて、もろにラブコメの影響を受けているのも面白い。

何度もかかってくる電話

 ところで、本作にはルーシーに何度も“ルーシー”から電話がかかってくる。ちなみに名前が時々変わるのは、老いからくる記憶力の問題かもしれない。本ではこの電話について、より深堀りされているのだが、要は自分の番号から自分の携帯に着信があるというのだ。そして時折、以下のようなボイスメッセージを残す。

「答えを出すべき問いは、ただひとつ。私は怖い。気が少しおかしくなってきた。私は正気じゃない。思っていたことはあたっている。不安がふくらんでくるのがわかる。答えを出す時がきた、問いはただひとつ。答えを出すべき問いは、ただひとつ」

 死ぬことについて彼自身は迷いを抱えている。しかし、迷うたびにもう一人の電話越しの自分が「終わりにするべきか、しないか」の問いの答えを催促する。「思っていたこと」とは、これ以上生きていても孤独から抜け出すことができないのでは、という不安なのではないだろうか。そして彼は決断を避けるように、この電話を何度も出ないように無視する。しかし、電話がかかってくるのは映画の前半で終わり。後半ではかかってこなくなる。つまり、かかってこなくなった時点で彼から迷いが消え、出した答えの決意が固まったのだ。

映画のラスト、ジェイクの最期

 原作小説では、章の合間に誰かの会話文が挿入される。なんらかの事件が起こり、死人が出た。その当事者を知る者たちによる会話なのだが、これが一層理解を深める材料となっている。最後まで読むと、ルーシーが何者かに学校で追いかけられてロッカーに逃げ込み、曲げたハンガーで自分の首を何度も刺して自殺する描写があり、つまりそのようにして老人ジェイクが終わりにしたことがわかる。映画では少しこれが変わっていた。

 実家という名の“過去”を離れたジェイク一行は、職場の“学校”という現在に向かって進んでいく。そこで、ルーシーと老いたジェイクが出会う。最初怯えていたのに、会話中ルーシーが突然強気の態度で饒舌に話すのも、彼女が彼自身であることを裏付けている。そして会話の内容も、自身との対話と考えて聞くとわりとくるものがある。「さよなら」と別れを告げた時の老人ジェイクの顔が泣きかけるような悲しい顔で、ルーシーが泣きながら笑っているのも、力強い。

 それから、映画はほぼノンバーバルな映像で展開されていく。一見突飛なシークエンスだが、ジェイクが本当はしたかったこと、やり遂げたかったこと、という見方をすると観やすい。もっと風貌のいい男になって、かわいい子を暴漢(本来の自分の姿)から守って、賞を受賞して拍手喝采のスタンディングオベーションを受けて。そこには、自分を信じて愛してくれる妻と家族がいて……。

 一方、本当の彼は車の中にいる。外は極寒で、車内もエンジンをかけてヒーターをつけなければ凍死する寒さだ。しかしそこで彼は服を脱いでいく。そんな彼にアニメーションで描かれる豚の迎えがやってきて、彼は真っ裸で雪の中を歩き、それについて行った。話す豚という非現実的なものが登場した時点でやはりそれは非現実的で、現実では朝、雪が積もったトラックの中で凍死しているジェイクが発見されるのだろう。エンドロール間際に映し出されるその車が、ルーシーたちが乗ってきた車ではなく老人ジェイクの車であることも見逃せないポイントになっている。

 これは「別れたいけど気に入っている部分もあって、もう少しいいところを見つけようと頑張ってみたけど、やっぱ無理、マジで別れよう」という女心を描いた映画ではないにしろ、そんな見方をしても観られる。むしろ、一度でも似たような状況を経験した人からすると、どこか彼女の独り言に共感できる部分もあってそれを気にいるかもしれない。絶対的な何かの「終わり」を感じさせる、そんな映画だ。

 いずれにしても、『ヘレディタリー/継承』といい、もうトニ・コレットが母親役の食卓には絶対につきたくない。

■アナイス(ANAIS)
映画ライター。幼少期はQueenを聞きながら化石掘りをして過ごした、恐竜とポップカルチャーをこよなく愛するナードハーフ。レビューやコラム、インタビュー記事を執筆。InstagramTwitter

■配信情報
『もう終わりにしよう。』
Netflixにて独占配信中
Mary Cybulski/NETFLIX (c)2020

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