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もし、幸福になれる花があったとしたら? 映画『リトル・ジョー』が投げかける“問い”

ぴあ

20/7/15(水) 12:00

ジェシカ・ハウスナー監督 (C) COOP99 FILMPRODUKTION GMBH / LITTLE JOE PRODUCTIONS LTD / ESSENTIAL FILMPRODUKTION GMBH / BRITISH BROADCASTING CORPORATION / THE BRITISH FILM INSTITUTE 2019

カンヌ映画祭で主演のエミリー・ビーチャムが女優賞に輝いた映画『リトル・ジョー』が17日(金)から公開になる。本作は、人を幸福にする新種の植物の登場によって人々が変化していく様を描いているが、脚本と監督を手がけたジェシカ・ハウスナーはこう語る。「もし、私たち全員が何かに乗っ取られてしまったとしたら、実は最も平和になるのかもしれませんよ」。この映画が描くのは観客への挑発か? 真摯な問題提起か? それとも? 監督に話を聞いた。

本作の主人公アリスは、バイオ企業で働く研究員。離婚し、息子のジョーと暮らしながら仕事優先の生活を送っており、現在は“人間を幸せにする”効果のある新種の花の開発に力を注いでいる。アリスは完成した花を会社にだまって自宅に持ち帰り、息子に渡したところ、息子はその花を“リトル・ジョー”と名付けて世話をし始める。

しかしある日、アリスは息子の様子が以前とは少し違うことに気づく。さらに研究所の同僚にも変化が訪れていた。そこでアリスは、この花の花粉を吸い込んだ人間に何らかの変化がおとずれたのではないかと推測する。次々と変化していく周囲の人々、成長して真紅の花を咲かせる新種の植物。アリスの中にある違和感はさらに大きくなっていく。

植物は生存のために周囲の環境や動植物を利用するように進化することがある。蜜に誘われた虫が花粉を運び、風が種子をつけた綿毛を遠くまで運んでいく。もし、植物が生存のために“人間”を利用することがあるとしたら? 本作はそんなSF的な設定の物語が描かれるが、その中心になっているのは植物ではなく人間のドラマだ。植物の存在によって“幸福”を手にする人間、いつしか変化してしまった相手に対する違和感……。ハウスナー監督は「この映画の最初のインスピレーションは『ボディ・スナッチャー』の存在だった」と振り返る。

「私は以前からSFやホラーが好きでした。それに私は何よりも『ボディ・スナッチャー』が描く哲学に魅了されていたんです」

ジャック・フィニイの小説『盗まれた街(ザ・ボディ・スナッチャー)』は1956年、1978年、そして2007年に映画化されており、いずれも未知の生命体によって人間が乗っ取られる恐怖を描いている。ある日、見知った人が変化している気がする。どこかおかしい。違和感を感じる。そして、その恐怖はどんどん広がっていく。

「あの作品は、私たちは自分が知っていると思っている人のことを、本当に知っていると言えるのだろうか? ということを描いていました。それは自分自身にもあてはまります。私たちはどこまで自分のことを理解して、自分は自分自身なのだと認識できるだろうか? そんなことに私は魅了されたんです。というのも、人生の中では予想外のことが起きて、自分の新たな一面を発見して驚いたりすることがあるからです。

それに、この映画には病気のためにある薬を服用している人が出てくるのですが、ある種の薬は服用することで性格などに変化が見られることがあります。そんな時、私たちは違和感を感じるわけです。それはジェスチャーとか声とかのちょっとした変化なんですけど、私たちは“あれ?何かが違う”とザワザワしたものを感じます。私たちは誰しもが自分は本物の自分であるとは言い切れない。こうして取材を受けている時の私と、帰宅して子どもと話す時の私も違うだろうし……では本物の私は一体、誰なのか? ということですよね」

人間は誰しも変化する。成長するし、身体の細胞は入れ替わるし、状況によってキャラクターや言葉づかいを変える。しかし、それを上回る大きな変化が外部からもたらされたとしたら? この映画はそんな状況を描きながら、そこで起こる変化を必ずしも“侵略”や“恐怖”として描いていない。何せ、新種の花は人間を幸福する花だ。この物語では、変化した人間は結果的に明るく幸福になり、変化した方が良かったのでは? と思わせる余地を含んでいる。

「そのことは意識して描いています。もし、『ボディ・スナッチャー』を新たに映画化するなら、全員が乗っ取られるハッピーエンドのバージョンを提案したいですね(笑)。もし、私たち全員が何かに乗っ取られてしまったとしたら、戦争も起きないし、温暖化もなくなるのかもしれない。実は最も平和になるのかもしれませんよ」

ハウスナー監督はそう語る一方で、映画の中に登場するキャラクターが劇中で何らかの“罪悪感”を抱いている様を描いている。主人公のアリスは仕事に熱中するあまり、息子の面倒をちゃんと見ることができていない罪悪感を抱いている。本当は息子と一緒にいたい。でも仕事のことを考えると息子との時間は短くなっていく。つまり、新種の花の周囲の人々は“変わりたいと思っていないのに変わってしまう”存在で、アリスは“変わりたいのに変われない”存在だ。

「この物語ではアリスは息子に対して罪悪感を感じていて、同時に新種の花を生み出したのも彼女です。通常、自分の行動が周囲に何かしらネガティブな反応を引き出した場合に罪悪感が生まれると思うのですが、この物語で描かれるアリスの罪悪感はすべて彼女の“頭の中”で起こることなんです」

ハウスナー監督が語る通り、本作は物語が進み、周囲の人が変化していっても、花粉と変化の関係は明確には描かれない。そしてその変化が本当に“幸福”なのかも。

「もしかしたら、罪悪感というものはそもそも不要なものなのかもしれないですよね。もし、罪悪感を完全に捨て去って解放されたとしたら、みんながハッピーになれるかもしれない」

あなたは幸福になることができる花があるとして、それを手にするだろうか? みんなが誰かに乗っ取られて得られる平穏を平和と呼べるだろうか? 罪悪感を捨て去ることが幸福だと思えるだろうか? 映画『リトル・ジョー』はスリリングなドラマで観る者を物語に引き込みながら、最後の最後まで観客を挑発し、問いを投げかけ続ける。

『リトル・ジョー』
7月17日(金) 全国順次ロードショー

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