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コロナ禍の今こそ映画で旅へ 『エル・スール』『立ち去った女』など独自の感性極まる4作を紹介

リアルサウンド

20/12/29(火) 18:00

 新型コロナ禍では旅ができない。同じ景色ばかりを目にしながら、人生の貴重な日々を潰さねばならぬ灰色の閉塞感――。こんなご時世だからこそ、改めて、時空間を自在に旅する装置としての映画の有り難みが身に染みる。

 特に年末年始、どうせなら思いっきり贅沢に、極上の映画旅行に出かけようではないか。今回ご案内する旅先は、スペイン、フィリピン、ハンガリー。詩的な映像感覚と精緻なクラフトマンシップが光る至高の4作品だ。いずれも各々独自の風土や歴史に深く根差しつつ、「その先」の場所にも飛ばしてくれる。

 現実のコードを超えた領域にまで踏み込めるのが映画的マジカル・ミステリー・ツアーの醍醐味だ。では、さっそく出発!

『ミツバチのささやき』『エル・スール』

ザ・シネマメンバーズで『ミツバチのささやき』を観る

 まずはスペインから、ヴィクトル・エリセ監督。1940年生まれの彼は現在80歳になるが、寡作で知られる映画作家で、1992年の『マルメロの陽光』を最後に長編映画は3本しか撮っていない。最初の2作、1973年の『ミツバチのささやき』と1983年の『エル・スール』は、日本ではシネ・ヴィヴァン六本木(1983年開館~1999年閉館)で1985年に初公開。『ミツバチのささやき』は同館で記録的な動員数となり(1998年公開の『CUBE』に抜かれるまではトップの成績だった)、当時のミニシアター・ブームを象徴する一本としても記憶される。

 スペイン映画といえばペドロ・アルモドバルに代表されるような濃厚でカラフルな世界をイメージする人が多いかもしれないが、ヴィクトル・エリセはむしろ真逆に極めて静謐で寡黙。淡色の内省的なトーンで、ぎりぎりまで説明を削ぎ落としたミニマムな作風が特徴だ。

 「むかしむかし……」との語り出しで始まる『ミツバチのささやき』の時代設定は、まさしくエリセが生まれた1940年頃。スペイン内戦が右派反乱軍の勝利となり、フランコの独裁政権が敷かれた頃、カスティーリャ高地の小さな村に一台のトラックがやってくる。それは映画の移動巡回車で、公民館で『フランケンシュタイン』(1931年/監督:ジェイムズ・ホエール)を上映してくれるのだ。養蜂家の娘である6歳の少女アナ(アナ・トレント)はこの映画に強烈な印象を受けた。

 あの怪物は、なぜ仲良くしていた少女メアリーを殺してしまったのか? ショックが腑に落ちないアナの問いに、9歳の姉イサベルは「本当はあの子も殺されてないの。映画は全部ウソだから。あの怪物の正体は精霊よ。この村のはずれの一軒家に隠れているの。だって私見たもの。お友だちになれば、いつでもお話できるのよ」と寝室で悪戯っぽく告げる。その話を信じ込んだアナは、それから精霊を見つけるため、あらゆるものに目を凝らし、敏感に耳を澄ます――。

 イザベルとともにアナが線路に耳をつけるところの素晴らしさなど、かつてシネフィルの間で語り草になった名シーンはたくさんあるが、この映画を物語の枠組みや整合性で「理解」しようとすることは、おそらく何の意味もない。精霊の話に導かれて世界を自分なりにキャッチしようとする幼いアナのように、我々も全身全霊で「感受」するしかないのだ。そのぶん解釈は観る者個々に、広く多様に開かれている。

 筆者がとりわけ印象に残っている本作の解釈は、『淵に立つ』(2016年)や『よこがお』(2019年)などの監督、深田晃司の弁だ。彼は中学3年生の時、『ミツバチのささやき』に出会って、どんな同時代の映画よりも圧倒的に「リアル」な衝撃を受けたという。

「僕が当時感じていたニヒリズムと合致したんです。あの映画では主人公のお父さんが養蜂家で、人生の意味云々とは無縁にただ生きている蜂の生態が描かれている。一方で主人公たちの家の窓が蜂の巣の形をしているんです。つまり蜂と人間の営みがイコールとして提示されていて、それでも少女は人生に神秘を感じ、やがて喪失していく。これは極めて現代的な世界観や人間把握だと思いました」(『SWITCH』2016年10月号:特集「映画監督のメソッド」、筆者によるインタビューより)。

 エリセの第2作『エル・スール』もやはり(もしくは、さらに繊細な)「感受」が求められる珠玉の逸品だ。原作はエリセ夫人であるアデライダ・ガルシア=モラレスの同名短編小説で、映画公開後の1985年5月にスペインで出版された。

 起点は1957年の秋の朝――15歳の少女エストレリャが回想する形で、姿を消してしまった父親アグスティン(オメロ・アントヌッティ)の想い出が語られていく。少女が7歳から8歳になる頃、県立病院の医師の職が決まった父親に連れられ、一家は北部バスク地方の郊外に居を構えた。その一軒家は「かもめの家」と呼ばれ、屋根の風見のかもめは、いつも南(エル・スール)を指していた。

 いつも優しい父親だったが、やがてエストレリャは、彼が内戦の頃に別れた、かつての恋人を今も愛していることを知る――。

ザ・シネマメンバーズで『エル・スール』を観る

 行定勲監督が島本理生の同名小説を映画化した『ナラタージュ』(2017年)では、『エル・スール』へのオマージュが込められている。妻がいる高校教師と、その教え子として出会った女性の恋愛が、アグスティンの苦悩や葛藤に重ね合わせているのだろう(『ナラタージュ』は原作小説も含めて、ヴィクトル・エリセへの言及が多い作品として注目してほしい)。

 またアグスティンの心の傷の背景になっているのはスペイン内戦の影である。彼は「南」の出身だが、対立する王党派らしき父親(つまりエストレリャの祖父)と大げんかして、故郷を捨て「北」のバスクにやってきた。また母親フリアはかつて教師だったが、内戦後に思想的な問題で教職を追われた。フリアも、またかつての恋人ラウラも内戦時代の記憶を拒んでいるが、アグスティンは諦念や喪失感に苛まれながら、まだ過去にこだわっている。

 さらに言えば、『ミツバチのささやき』で養蜂を営むアナの両親も、スペイン内戦で挫折を経験した左派であったことが、そっと示唆されている。政治的主題も決して声高に主張せず、日常の営みの風景に慎ましく忍ばせるのがエリセの流儀なのだ。

『立ち去った女』

ザ・シネマメンバーズで『立ち去った女』を観る

 続いて東南アジアへ。フィリピンから、現代映画の最尖鋭に立つ鬼才ラヴ・ディアス監督の代表作『立ち去った女』をご紹介。モノクロームで綴られた圧巻の3時間48分――ただしこの尺はワン・ビンと並ぶ「長尺監督」として知られる彼としては短い方なのだ! ディアスは今世紀初頭から映画祭を中心に評価を高め、本作で第73回(2016年)ヴェネチア国際映画祭の金獅子賞を獲得(フィリピン映画としてこの受賞は初)。日本でも初のロードショー公開を果たした。

 ヴィクトル・エリセの映画を味わうために必要なのが「感受」だとしたら、ディアスの場合は映画全体を丸ごと受け止めるような「体験」あるいは「体感」の姿勢で臨むべきだろう。徹底したワンシーン・ワンカット、長回しとロングショットで人間の業をじっくりあぶり出す。独特のリズムを湛えた究極のスローシネマであり、その中毒性は『サタンタンゴ』(1994年)や『ニーチェの馬』(2011年)などで知られるハンガリーのタル・ベーラなどに近いかもしれない。

 内容はトルストイが1872年に発表した短編小説『God Sees the Truth, But Waits(原題)』にインスパイアされたもの。実はこれは大人気のハリウッド映画『ショーシャンクの空に』(1994年/監督:フランク・ダラボン)の原作――スティーヴン・キングの中編小説『刑務所のリタ・ヘイワース』の着想源としても知られ、一様に無実の罪で投獄された主人公の話である。

 時代設定は1997年。香港の中国返還の影響を受け、不況や治安の悪化に揺れるフィリピンの混乱を背景にした、殺人の冤罪で30年も投獄されてしまった女の復讐劇だ。

 ヒロインは元小学校教師のホラシア(チャロ・サントス・コンシオ)。同じ受刑者であった親友ペドラの衝撃の告白により、突然無実が証明されて釈放となる。その事件の黒幕は、なんとホラシアのかつての恋人ロドリゴだった。彼女はレナータやレティシアといった偽名を使い分け、自分を陥れた男の行方を執拗に追うが、ホラシアの前には謎めいた人々が次々と現われる……。

 追われる男ロドリゴは現在富を得ているが、同時に欺瞞だらけの人生を生きてきた不安に苛まれてもおり、彼の肖像にはドストエフスキーの影響なども強く感じさせる。ディアスが織り成す人間群像は派生的かつ多層的であり、また激動のフィリピンの現代史を重厚に盛り込みつつも、語りにはどこか軽みがある。それが長尺でも多くの観る者を魅了する大きな理由だろう。

 ちなみに1958年生まれのディアスは映画作家のみならず、詩人やロックミュージシャンとしても活動する異能の人。2018年の第31回東京国際映画祭で上映された新作『悪魔の季節』(尺はやはり約4時間)は、1970年代後半のマルコス独裁政権下を舞台にした、アカペラ歌唱のロック・オペラという超異色ミュージカル映画だった! 2020年も新作『チンパンジー属』(第77回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門で監督賞受賞。第33回東京国際映画祭でも上映)を発表しており、精力的な活動を続けている。

『私の20世紀』

ザ・シネマメンバーズで『私の20世紀』を観る

 先ほどタル・ベーラにちらっと言及したが、彼の国――東欧ハンガリーが今度の旅先。コミュニケーションが苦手な女性と男性の恋愛を不思議なタッチで描いた『心と体と』で、第67回(2017年)ベルリン国際映画祭の金熊賞を獲得したイルディコー・エニェディ監督(彼女も寡作の作家だ)の、1989年の長編デビュー作『私の20世紀』。当時、第42回カンヌ国際映画祭でカメラドール(最優秀新人監督賞)を受賞し、ニューヨークタイムズの年間映画ベスト10に選出されるなど高い評価を得たが、これはむしろ今の時代の方が刺さるのではないか。「早すぎた傑作」の貌も備える必見の一本だ。

 映像は『立ち去った女』と同じく全編モノクローム。だがこちらはカットが華麗に切り替わり、103分のマジカルで狂騒的な物語――ファンタジックな歴史絵巻が目まぐるしく展開していく。

 お話は1880年、米ニュージャージー州メンローパークから始まる。かのトーマス・エジソンが白熱電球を発明した頃、遙か遠いハンガリーのブダペストでは、リリとドーラという双子の姉妹が誕生した。やがて孤児となり、路地でマッチ売りの少女となった姉妹だが、クリスマスイブの夜、ふたりは別々の紳士のところにもらわれていった。

 やがて1900年。別々の人生を歩んだ姉妹は、オリエント急行に偶然乗り合わせる。リリは気弱な革命家として、ドーラは狡猾な詐欺師として……。そっくりな双子、リリとドーラ(さらに彼女たちの母親)を、ドロタ・セグダがひとりで演じる。19世紀の終わりから20世紀の始まりまで、映画(キネトスコープ/シネマトグラフ)の発明も含めて、本作は歴史の重要な端境期を旅する。テクノロジーの端緒であるエジソンの発明の数々。人類は巨大な進歩と引き換えに、何を失ったか? 新しい万能時代到来の光と影をスラップスティック(ドタバタ)喜劇のノリで批評的に見つめていく。またそれ以上に重要なのは、男性優位主義への痛烈なまなざしがあることだ。

 もっとも印象に残るのは「ハンガリー女性解放論者の会」主宰の講演のシーンだろう。教壇に立っているのは『性と性格』の著者である哲学者、オットー・ヴァイニンガー(1880年生~1903年没)。参政権など女性の社会的権利への加担を説きながら、すぐに「男は論理、女は非論理」といった雑な偏見に流れていく。フェミニズムを装いながらも露呈する性差別の意識。この映画で描かれるヴァイニンガーの姿は、まだまだ2020年の世界にも残る男性一般の戯画ではないか。

 「男性優位主義は滅びるの」と劇中で宣言される『私の20世紀』は、21世紀において先駆的なシスターフッド映画として読み直されるのかもしれない。オルタナティヴな場所から放たれる知見や価値観に触れ、歴史と今の接続点を発見することも「旅」の大きな歓びであるはずだ。

■森直人(もり・なおと)
映画評論家、ライター。1971年和歌山生まれ。著書に『シネマ・ガレージ~廃墟のなかの子供たち~』(フィルムアート社)、編著に『21世紀/シネマX』『日本発 映画ゼロ世代』(フィルムアート社)『ゼロ年代+の映画』(河出書房新社)ほか。「朝日新聞」「キネマ旬報」「TV Bros.」「週刊文春」「メンズノンノ」「映画秘宝」などで定期的に執筆中。

■配信情報
『ミツバチのささやき』『エル・スール』『立ち去った女』『私の20世紀』
ザ・シネマメンバーズにて、2021年1月より順次配信
ほか多数作品、ザ・シネマメンバーズにて配信中
ザ・シネマメンバーズ公式サイト:https://members.thecinema.jp/

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