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キューブリック版『シャイニング』のパロディのよう? 『ドクター・スリープ』の違和感を考察

リアルサウンド

19/12/6(金) 10:00

 スタンリー・キューブリック監督の『シャイニング』(1980年)は、最も親しまれ評価されてきた、ホラー映画の金字塔といえる作品である。その原作者であるスティーヴン・キングが2013年に発表した続編小説を、『ジェラルドのゲーム』(2017年)で、すでにキング作品の映画化を手がけているマイク・フラナガンが監督を務め、新たに作り上げたのが、映画『ドクター・スリープ』だ。

参考:『シャイニング』の続編をどう受け止めたのか? 『ドクター・スリープ』キャスト&スタッフが語る

 本作『ドクター・スリープ』は、キング原作の物語に沿いながら、キューブリック版でおなじみの演出やビジュアルが再登場する。それをもって、「確執のあったキングとキューブリックを和解させた作品」だと評価する人もいる。というのも原作者キングは、あのキューブリック版『シャイニング』に対して、かなり辛辣な批判をしているのである。しかし、本当に本作は“和解”になり得るような作品になっているのだろうか。ここでは、本作やキューブリック版『シャイニング』を比較し、ふたつの作品に対するキングの反応の意味を考えながら、ここで感じた違和感について考察していきたい。

 「美しいがエンジンの入っていない車」……。キングはキューブリック版のことを、このように例えている。つまり、「魂が入っていない」という主張である。その理由は、大きく分けてふたつあるという。ひとつは原作の重要な要素である超能力“シャイニング”の存在が希薄になっていること、もうひとつは、家族への愛情と狂気が入り混じる複雑なキャラクターである父親像が崩され、彼(ジャック)を演じたジャック・ニコルソンの演技が、ただ狂気にさいなまれているだけに見えてしまっているという部分だった。キングは、その箇所で人間の葛藤を描き、重要なメッセージを込めている。

 だが、その指摘とは裏腹に、時とともにキューブリックの『シャイニング』は神格化していき、もはや原作よりも認知される作品になっていったといっていいだろう。キングはそんな風潮に対抗するように、1997年に自らが脚本を書き、製作総指揮を務めた、TVドラマ版『シャイニング』を発表したが、内容の面でキューブリックの映画版の完成度に遠く及ぶことはなかった。

 さて、果たしてキューブリック版は、本当に魂のこもっていない作品なのだろうか。たしかにキングの言うとおり、小説にある父親の心理的葛藤という、文学的な部分は無視されているし、展望ホテルのおそろしさばかりが描かれているのは確かだ。しかし、その上でキューブリック版からは、キングの評価とは逆に、原作以上の奥行きが感じられるのだ。

 キングは、徐々に狂っていくはずのジャックが、登場時からすでにまともには見えないことを問題視していた。だが、キューブリック版をしっかりと見ると、謎めいた描写が多いなか、そのことにも意味があるように思えてくる。

 劇中に登場する、家族を惨殺し、猟銃で自分の頭を撃ち抜いたという、展望ホテルの元管理人だったはずの亡霊は、ホテルの給仕の姿でジャックの前に現れる。そして、新たな管理人であるジャックに対して、「あなたこそ昔からこのホテルの管理人です」と述べる。ホールでアメリカが隆盛をきわめた1920年代の人々が集まったパーティーが開かれるように、本作は、現在の時間と過去の時間、そしてもっと過去の時間が同時に存在していることを表現する。

 『シャイニング』のラストカットで、ジャックは最後に映し出される、20年代にホテルで開かれた舞踏会の記念写真の、一番目立つ位置にちゃっかりと写りこんでいる。小説家志望でなかなか作品を書くことができず焦っていたジャックは、展望ホテルのなかの死の世界と出会うことで、家族を捨てて、自ら時間のない世界に吸い込まれてしまった。そこに人間味は存在しない。だがこれもまた、人間の持つ残酷な一面なのではないだろうか。

 このような人物像は、ゴシック小説を書いてホラーにおける草分け的な存在となった、アメリカを代表する作家エドガー・アラン・ポーの作品を連想させる。彼の代表作のひとつ『黒猫』は、飲酒や暴力衝動が抑えられない主人公が、殺害した猫に復讐されるという内容だが、この作品で真におそろしいのは、猫ではなく主人公の心理である。彼は亡霊に導かれるわけでもなく、自分自身で残忍な行動を繰り返してしまう。だがそれは、程度の差こそあれ誰にでも備わっている感情かもしれない。そこに、この小説の普遍的なおそろしさがある。

 同様に、キューブリック版のジャックもまた、はじめから狂っており、はじめから決まっていた運命にしたがってホテルの一部となり、ジャック自身を待ちわびていたのではないか。このような、美しくすら感じられるおそろしい物語に、“魂”が入ってないといえるだろうか。

 キューブリックは、キングの書いた設定を材料として借りながら、意図的に違う物語へと解釈し直したに過ぎない。このように映画化にともなって内容を変更した例というのは、枚挙にいとまがない。もともと、小説と映画は得意とするところが異なるということを考えると、こういった試みは、むしろ積極的に行うべきことなのではないだろうか。キングは、このような当たり前のことに対して、なぜ激しい怒りを見せたのだろうか。

 キングは、自身の小説の映画化作品を語るときに、小説の表現は映画の上に位置するということを述べている。つまり、彼のなかでは、あくまで映画は小説の二次的な存在だということだ。筆者はもちろんその考えを共有してはいないが、個人的には、ひとりの小説家が、自分の表現こそ至高だとする意気は、素晴らしいとすら思う。だが、そんな人物が、自分の小説を超えるような文学性を発揮する作品を目の当たりにしたらどうなるだろうか。

 『シャイニング』を鑑賞したとき、キングは初めて創作者としての敗北感を味わったのではないのか。映画という媒体で、自分の作品をベースに、より高度なものを作り上げられてしまったとすれば、そんな事態を考えてもいなかったキングとしては、キューブリックの偉業を否定することでしか、自分を支えられなかったのではないか。そして、その頑なな姿勢が、キューブリック版を神格化していく世間の評判によって、より硬化してしまったのかもしれない。

 しかし、原作小説がなければ、映画版が存在しなかったのも確かなことだ。優れた設定があり、それを見事に解釈し直したことで、映画『シャイニング』という素晴らしい作品が生まれた。だから、映画『シャイニング』は、結果的にキングとキューブリックの合作と呼べるところもあるはずだ。キングがそのポジションをよく思わなかったにしても。

 映画『ドクター・スリープ』の内容を、キングは絶賛している。それはそうだろう。もともと『ドクター・スリープ』の原作小説は、キューブリック版『シャイニング』へのキングの違和感をぶつけた部分が随所に見られる作品だった。そして、それを映画化した本作は、キューブリックの演出をそのままとり入れながら、それらの映像をキングの望む方向に再解釈している。つまり、原作小説を好き勝手に変更したキューブリック版に対して、今度はキューブリックの演出を、キングの物語に従属させるのである。マイク・フラナガン監督の意図がどうあれ、本作は、和解どころかキングの意趣返しのようなものに、結果的に同調してしまっているように見えてしまう。

 だが問題は、映画の出来である。キューブリック版『シャイニング』がそうであったように、どんなやり方であれ、最終的に素晴らしい作品にしてしまえば、あとはどうにでもなるはずである。

 本作『ドクター・スリープ』は、キングの小説に従って、幽霊などの恐怖描写よりも、“超能力”の要素の方が強い存在感を発揮している。主人公ダニーを演じるのは、ユアン・マクレガー。あの惨劇を生き残り、父親のようにアルコールに溺れる、40代の大人になっていた。彼は同様に超能力を持ったアブラと知り合い、殺人を繰り返す謎の集団の凶行を止めるべく、共闘するようになる。

 終盤にかけて繰り返されるサイキックバトルは、キューブリック版『シャイニング』とは似ても似つかない内容だが、かなり楽しめることは確かだ。カメラを引いた、いわゆる“ロングショット”で撮ったことで、キングから人間に寄り添わない映画だと批判されていたキューブリックとは違い、演技をする出演者たちの表情に近寄って、ときには悪役でさえも身近に感じられるフラナガンの演出は、情緒的でキング作品のイメージに合っている。

 特徴的で面白いと思った演出もある。ダニーとアブラが会話するシーンでは、それぞれを映したカットが何度も繰り返される。カメラのレンズが写しとった彼らの背景には、“玉ボケ”と呼ばれる、光の玉のような、現実には存在しない物体が存在しているように見える場合がある。年をとって超能力が衰えたダニーの背景にはいくらかの光の玉が、そして全盛期のアブラの背景には、より多い輝くような光の玉が見える。どこまで狙ったかは分からないが、このような“映像的”な表現を、作品のなかでなし得たのは素晴らしい。

 とはいえ、本作にはキューブリック版の圧倒的な美しさや緊張感に代わるほどの魅力までは出せていないように感じられる。それはやはり、キングの意図を捻じ曲げてまで、自分のやりたいものを追求するという姿勢に欠けているからだろう。キングが絶賛していることからも分かるように、本作はキングの想定のなかに収まる程度に“面白い”。しかしキューブリック版のように、それを超えて、観る者の感覚や、ややもすると今後の人生まで狂わせてしまうほどの魔力を持っているとは思えない。そもそも、フラナガン監督ははじめから、そのような大それたものを本作で作り上げる気はないのだろう。

 問題は、展望ホテルが舞台になる終盤部分である。ここでは、まるでパロディのように、キューブリック版『シャイニング』に登場した展望ホテルの住人にそっくりな役者が、次々に登場する。だが彼らは、まるで往年のお笑い芸人が、むかし流行った一発ギャグを披露するように、同じ行動、同じセリフを繰り返すだけだ。しかも、謎に包まれていた彼らの行動原理が何だったのかを、あっさりと明確に描いてしまう。キューブリックが生み出した謎めいた世界や、その住人たちは、ここでとてつもなく陳腐化してしまっているように感じられる。あの凄まじい、血の降りてくるエレベーターの映像ですら、一笑に付されて片付けられるのだ。

 キューブリックが原作と違う表現を目指したのは、原作への当てつけだったり、原作の表現を失墜させようと意図したものではないだろう、仮にそのような悪意が混じっていたとしても、自分がより良い作品を作ろうとするために、映画ならではの演出に行き着いたはずである。

 それに比べると、本作のキューブリックの演出の解釈は、あまりにも表面的で安っぽいものになっていて、尊敬に欠けている。こんなことでキューブリック版の価値にまで傷がつくわけではないだろうが、『シャイニング』の原作小説とキューブリックの映画の両方に感動した筆者としては、今回、キューブリックの側にだけ泥を塗られたような感覚がぬぐえない。(小野寺系)

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