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中川右介のきのうのエンタメ、あしたの古典

市川崑『東京オリンピック』とリーフェンシュタール『オリンピア』~2つの五輪記録映画をめぐって~

毎月連載

第26回

20/8/12(水)

『東京オリンピック<4KリマスターBlu-ray>』/Blu-ray発売中 4,700円+税/発売・販売元:東宝 (C)公益財団法人 日本オリンピック委員会

いまごろはオリンピックも終わり、その余韻に浸っているはずだった。1年延期となったものの、どうなるかはっきり分からない。

オリンピックが終わると、1年後にはその記録映画が公開される。

2020年の東京オリンピックの記録映画は河瀬直美が監督することになっていて、制作中止になったとも監督を降板したとも聞かないから、2021年に開催されれば、制作されるだろう。

あまり知られていないが、オリンピックでは大会ごとに公式記録映画が作られている。日本で有名なのは、市川崑総監督の1964年の東京大会を描いた『東京オリンピック』(1965)で、この映画は日本映画で最も多い観客動員を達成した映画でもある。

オリンピックが終わって半年後の1965年3月に公開されると、映画館でチケットを買って観た人だけで750万人、学校ごとに動員されて観た人が1600万人、合計2350万人が観たとされる。

この記録は2001年に宮崎駿の『千と千尋の神隠し』までやぶられることはなかった。逆に言えば、宮崎アニメはオリンピックに匹敵する社会的存在なのである。

映画『東京オリンピック』が日本で多くの観客を得たのは当然だが、世界的にはどの程度知られているのだろう。

日本で、他の国で開催されたオリンピックの記録映画がほとんど観られていないのだから、外国でも『東京オリンピック』は、いくら名匠・市川崑が作ったとはいえ、あまり知られていないのではないか。

では、世界的に最も有名なオリンピック映画は何かというと、1936年のベルリン大会を描いたレニ・リーフェンシュタール監督の『オリンピア(「民族の祭典」「美の祭典」)』(1938)だ。

その前にも、オリンピックを撮った記録映像はあったらしいが、映画作品として作られて広く公開されたのは、『オリンピア』が最初となる。

ベルリン五輪を記録したリーフェンシュタールの『オリンピア』

1936年のベルリン・オリンピックは、別名「ヒトラーのオリンピック」である。

ナチスが政権を取ったのは1933年1月で、ベルリンでオリンピックが開催されるのは、その前に決まっていた。

政権獲得直後のヒトラーはオリンピックへの関心は薄かった。だが、「偉大なるドイツ」と、その「偉大なるドイツの偉大なる指導者ヒトラー」を全世界に知らせるのに役に立つと知ると、熱心になる。

アドルフ・ヒトラー(左)とレニ・リーフェンシュタール(右) (写真:アフロ)

レニ・リーフェンシュタール(1902~2003)は、ダンサーから女優になった人で、ヒトラーに心酔しており、ファンレターを書くと、ヒトラーが会いたいと行ってきて、親しくなった。

ヒトラーの愛人説もあるが、たしかな証拠はない。

リーフェンシュタールは政権獲得後に開催された1933年のナチスの党大会を描いたドキュメンタリー映画『信念の勝利』を作り、34年の党大会も撮って『意志の勝利』(公開は35年)として公開すると、ヒトラーにますます気に入られ、オリンピック映画の監督という大役を射止めた。

党大会映画とオリンピック映画でリーフェンシュタールが見せた、構図や編集技法を含めた演出は、劇映画を含めて多くの映画作家に影響を与えた。

リーフェンシュタールの映像センスの才能は疑いようがない。また何百人もの撮影スタッフを統率したリーダーシップでも傑出していた。

だが、ナチスにあまりにも近すぎたので、彼女は戦後、映画作家としては不遇となる。

ナチスに協力した芸術家の多くは、戦後も復権して活躍できたが、リーフェンシュタールが干されたのは、女だったからという説もある。そういう面もあるだろう。

リーフェンシュタールの『オリンピア』は、日本では1938年に公開された。当時は『民族の祭典』というタイトルだった。

『オリンピア』を観た黒澤明監督とスター女優たち

高峰秀子(1924~2010)の自伝『わたしの渡世日記』には、この映画を観たという話が出てくる。

当時の高峰は14歳だが、すでに大スターだった。

山本嘉次郎監督が3年かけて撮った『馬』(1941)に出演中で、盛岡にロケへ行ったときに、観たという。一緒に行ったのは、『馬』の助監督だった黒澤明(1910~98)で、これが2人の唯一のデートだった。

1938年の高峰は14歳、黒澤は28歳だ。高峰は『わたしの渡世日記』にこう書いている。

〈将来の大演出家を夢みる青年黒澤明にとって、この大記録映画は強いショックだったのか、街の映画館から宿への帰り、ただ黙々として自分の足もとに目をおとし、私の存在など気にもとめてくれなかった。〉

そのせいなのか、2人の関係は進展しなかったが、『馬』が完成した後の1941年、撮影所で再会すると、言葉を交わすようになる。

それが噂になり新聞が勝手に「婚約した」と流した。

だが、それを察した高峰の母と東宝の関係者が、新聞に出る前夜に、高峰が黒澤の部屋にいたところに踏み込んで、彼女を連れ去り軟禁してしまう。

2人は互いに好意は持っていただろうが、それだけの話だった。黒澤の部屋に行ったのも、それが最初で、15分ほどたったところに、踏み込まれたという。

つまり、「何もなかった」。

この後、黒澤は監督に昇進し、高峰もスターであり続ける。だが、黒澤映画に高峰が出演することはなかった。

リーフェンシュタールの『オリンピア』は日本でもヒットし、女優・田中絹代も観た。

田中は「女性監督」が撮ったことに興味を抱いた。そしていつか自分も映画を監督したいと思う。

日本初の女性映画監督は、溝口健二の助手だった坂根田鶴子(1904~75)で、1936年(昭和11年)に『初姿』で監督デビューした。

田中絹代が溝口の映画に初めて起用されたのは、その4年後の1940年の『浪花女』で、坂根は助監督に戻っていた。

坂根は第一作が作品的にも興行的にも失敗したので、監督としての仕事がなく、溝口との関係もこじれて、1942年に満州へ渡り、満映で活躍した。

戦争が終わった。

戦後も、高峰秀子は東宝の、田中絹代は松竹の看板女優だった。

だが田中は1949年に親善大使としてアメリカへ行き、帰国後、その服装や投げキッスをしたことが「アメリカかぶれ」と批判され、人気を喪った。

松竹から新東宝へ移るが、作品に恵まれない。

1952年、やはりスランプに陥っていたた溝口監督による『西鶴一代女』に主演し、2人とも復権した。53年には『雨月物語』を撮り、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。

女優として再び頂点に達した1953年、田中絹代は丹羽文雄原作の『恋文』で念願の監督デビューを果たした。

坂根田鶴子のデビューから17年ぶりの2人目の女性監督だった。

『恋文』を含め、田中は監督として6作撮るが、映画史に残るような作品はない。

黒澤が降板し、市川が代役を務め賛否両論を巻き起こした『東京オリンピック』

1964年に東京オリンピックが開催されることになると、その記録映画の監督に黒澤明が起用された。

黒澤としては、リーフェンシュタールの『オリンピア』を超えるものをとの意欲があったろう。

リーフェンシュタールはヒトラーから全権を与えられていたので、俯瞰撮影のために競技場に高い塔を作らせたり、走者と同じ高さで同じスピードでカメラが移動できるようなレールを作らせたり、仰ぎ撮影のために深い穴を掘らせるなど、やりたいほうだいだった。予算も無尽蔵に使えた。

『オリンピア』は、卓越した映像作家が、全体主義国家の独裁者のお気に入りとなったことで、全権を掌握したことで実現した奇跡的な映画である。

黒澤は、高峰秀子が隣りにいるのを忘れるほど感銘を受けたリーフェンシュタールの映画を、意識していたはずだ。

リーフェンシュタールを超えなければ、自分が作る意味がない──芸術家であれば、そう思って当然だ。

黒澤は具体的な撮影計画も作り、演出のアイデアも練っていた。しかし、日本は民主主義国家であり、オリンピック映画の予算は限られていた。黒澤がいくら「天皇」と呼ばれていても、それはニックネームに過ぎず、何の権力も権限もない。

自分の望む規模の撮影は無理だ、それならやる意味がない──そんな思いもあってか、黒澤は監督を降板した。

黒澤が降板すると、市川崑が代役を引き受けた。

市川崑の『東京オリンピック』が完成すると、毀誉褒貶、賛否両論となった。競技記録よりも人間ドラマを重視する、かつてない記録映画だったからだ。

オリンピック担当大臣の河野一郎は、試写を観て、「芸術性を強調するあまり、正しく記録されているとは思われない。オリンピック担当大臣としては、これを記録映画として残すことは適当ではない」と発言し、問題になった。

そのとき、市川崑を擁護したのが高峰秀子だった。

「東京新聞」に〈わたしはアタマにきた 映画『東京オリンピック』をめぐって〉と投書したのだ(『高峰秀子の反骨』河出書房新社刊に収録)。

高峰秀子著『高峰秀子の反骨』(河出書房新社刊)

この投書がきっかけで、高峰秀子は河野一郎と週刊誌で対談すると、直談判して、『東京オリンピック』が市川崑が作ったまま公開されるのに一役買った。

2020年の東京オリンピックは、招致段階から反対論もあり、国立競技場やエンブレムでも問題が起き、さらには延期と、トラブル続きだ。

その記録映画の監督に、女性が起用された。田中絹代や高峰秀子は生きていたら、どう思うだろう。

来年、開催されたとしても、その記録映画をめぐり、またひと騒動あるかもしれない。そのとき、大臣に物申せる俳優がいるだろうか。

※リーフェンシュタールとベルリン五輪については拙著『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』(毎日新聞出版刊)に書いたので、興味のある方はお読みいただきたい。

中川右介著『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』(毎日新聞出版刊)

データ

『東京オリンピック<4KリマスターBlu-ray>』

Blu-ray発売中
発売日:2020年6月17日
価格:4,700円+税
販売・発売元:東宝
監督・脚本:市川崑
ナレーター:三国一郎

『オリンピア(「民族の祭典」「美の祭典」)』(1938年・独)

監督:レニ・リーフェンシュタール

『高峰秀子の反骨』

発売日:2020年4月24日
著者:高峰秀子
河出書房新社刊

『オリンピアと嘆きの天使 ヒトラーと映画女優たち』

発売日:2015年12月12日
著者:中川右介
毎日新聞出版刊

プロフィール

中川右介(なかがわ・ゆうすけ)

1960年東京生まれ。早稲田大学第二文学部卒業後、出版社アルファベータを創立。クラシック、映画、文学者の評伝を出版。現在は文筆業。映画、歌舞伎、ポップスに関する著書多数。近著に『手塚治虫とトキワ荘』(集英社)など。

『手塚治虫とトキワ荘』
発売日:2019年5月24日
著者:中川右介
集英社刊

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