Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play
Download on the App Store ANDROID APP ON Google Play

『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』はなぜオーソドックスな内容になったのか?

リアルサウンド

20/4/7(火) 8:00

 90年代の『バットマン』アニメーションシリーズに、宿敵ジョーカーに恋をするヴィラン(悪役)として初登場したキャラクター、ハーレイ・クイン。近年のアメコミ実写映画ブームのなかで、ストリート風のカラフル&ポップ、もしくはパンクロック風の衣装を身につけたマーゴット・ロビーに演じられることで、その存在は映画のキャラクターとして人気を博すと同時に、作品の枠を飛び越えた一つのファッションアイコンにさえなった。

参考:“手を組む”距離感が絶妙! 『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒』アンサンブルとしての面白さ

 ハーレイのキャラクターに手応えを感じたマーゴット・ロビーは、ハーレイの単独映画を企画し、彼女と共闘する女性ヒーローたちも登場する、女性たちを主人公としたアクション映画を提案したという。それが実現したのが、本作『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』である。

 だが、奇抜なファッションのハーレイ・クインの映画としては、わりとオーソドックスな内容だと感じられる観客も多かったのではないだろうか。しかし、そこには現代ならでは、本作ならではの画期的な部分も複数用意されている。ここでは、本作が描き、達成したものが何であったかを、できるだけ深く読み解いていきたい。

 マーゴット・ロビーによるハーレイが初登場した『スーサイド・スクワッド』(2016年)では、化学薬品工場のタンクの薬液へダイブするシーンが示すように、“プリンちゃん(彼女が呼ぶジョーカーの愛称)命”を体現していたハーレイだったが、本作の冒頭ではあっさりとジョーカーに捨てられ、彼女にとっては、この世の終わりのような悪夢的な展開が描かれる。ハーレイは、ジョーカーあってこそ彼女でいられたのだ。

 しかし、それこそが本作にとって重要なプロセスだったことは間違いない。ここまで観客に愛されるハーレイが、ジョーカーにひざまずくだけの存在でいいのか。実際、『スーサイド・スクワッド』は、ジャレッド・レト演じるジョーカー役に不満を持つ観客が少なくなかったのに対し、ハーレイの方はほぼ絶賛一色だったのだ。

 ハーレイ単独の映画を作るとすれば、やはりいままでの“プリンちゃん命”のハーレイ像では厳しいはずだ。恋愛相手の言うことを聞いてばかりの主体性のない主人公では、内面的魅力に欠けるからである。その意味では、少なくとも『スーサイド・スクワッド』のハーレイは、あくまで外見的な魅力が主だったといえよう。本作は、そんなイメージを脱し、ハーレイが一人立ちし、文字通り“覚醒”していくのである。それは一つに、ヒーロー映画のなかで強いキャラクターを確立させようと意図した試みであるといえよう。

 本作は、そこに女性全体の自立をうながし励ましていく意味も持ち込んでいく。自立するハーレイと共闘するのが、ワシやタカなどの「猛禽類」を意味する、“BIRDS OF PREY(バーズ・オブ・プレイ)”の名を持つ、女性のヒーローチーム。彼女たちはみな、ハーレイと同様に、餌をもらって生きる、かごの中の小鳥ではなく、自分で食料を確保する存在へと成長していく女性たちによって構成されるチームである。

 さらに象徴的なのは、ユアン・マクレガーが演じる本作の悪役だ。『バットマン』のコミックにも登場する“ブラックマスク”は、ここでは女性をまるで“物”であるかのように、自分の意のままに扱うことでプライドを維持する、歪んだ権力欲を持った人物として描かれる。女性たちが協力して彼を倒すという行為は、そのような女性にとっての有害な価値観を打倒し、自由な生き方を手にすることを意味するのだ。

 バーズ・オブ・プレイとハーレイは、ヒーローとヴィランの関係であり、本来は考え方を異にしている同士だ。しかし、ブラックマスクという保守的な男性像を相手にすることで、彼女たちの利害はひとときだけの一致を見せ、そこでともに戦う意味を見いだす。それは、かつてアメリカのアフリカ系アメリカ人たちが連帯し、また、ウーマン・リブや、近年の“#MeToo”運動によって、様々な考えの人々が同じ目的を共有し、力を合わせた行為そのものである。

 ハーレイと女たちが、男たちと乱戦を繰り広げるシーンには、グルグルと回る渦巻きに代表される、60年代風のサイケデリックなイメージが重ね合わされている。これは、その頃に始まった『バットマン』TVシリーズのコミカルなアクションシーンへの回帰であると同時に、ウーマン・リブが盛り上がり、女性たちが強く声をあげた象徴的な時代へのリスペクトが感じられる表現だといえよう。

 60年代のヒッピー文化が花盛りだった頃、映画においては、ある意味でハーレイ・クインのような、強いアウトローの女性たちの戦いが描かれた作品も現れていた。映画監督のラス・メイヤーによる『ファスター・プシィキャット!キル!キル!』(1965年)に代表されるような、扇情的な俗っぽい要素を持つ“エクスプロイテーション”映画である。その後、パム・グリアが主演した『コフィー』(1973年)などアフリカ系アメリカ人を中心に楽しませるものも作られ、さらにTVドラマ『チャーリーズ・エンジェル』のヒットへとつながっていく。

 それらはさらに90年代以降、クエンティン・タランティーノ監督によって、個性的な映画の要素ともなっている。本作『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』にも、時系列の組み換えなどの構造で『パルプ・フィクション』を参考にしていると監督が発言しているが、タランティーノ監督との作風のつながりは、さらに根本的な部分にも存在しているように感じられるのだ。

 日本においても、『女囚さそり』シリーズや『女番長(スケバン)』シリーズなど、不良女たちが、国家権力やヤクザの男たちとバトルを繰り広げる内容の作品群が、ちょうどアメリカのエクスプロイテーション作品と同じようなかたちで作られていた時期があった。

 鈴木則文監督の『女番長』(1973年)のラストシーンには、スケバンたちが、女性を苦しめるヤクザたちを風俗店ごと爆殺し、車を奪ってみんなで逃げるシーンがある。「どこ行くんだい?」「日本列島、万引き旅行さ!」と、小気味よく去って行く結末は、まるで本作『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』のようではないか。日本にも本作と同じようなメッセージを放つ作品があったのだ。それは、『トラック野郎』シリーズでも労働者の弱い立場を描いてきた、鈴木則文監督の社会観が生み出す表現でもあった。

 とはいえ、エクスプロイテーションには、バイオレンスとともに、セックスの要素が強くあったことは否定できない。女性の解放を描きながら、女性の身体をある意味で商品として見せるという、一種の矛盾がそこに存在しているのも確かなのだ。

 本作『ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PREY』は、過去のエクスプロイテーションを思い起こさせる内容だが、そこに欠けているのが、セックスの要素である。つまり本作は、アウトローの女性が活躍する犯罪映画の定型をなぞりながら、女性の性を搾取することなしに、最初から最後まで人間として描いているのだ。彼女たちのファッションも、奇抜で印象的ではあるものの、決してセクシャルな視線を集めようとはしていないように感じられる。

 過激な描写を貫くことだけが“先進性”ではないだろう。ここでは、登場する女性の人格を守り、セクシャルな意味での過激さを存在させないことで、女性にとって、より楽しめる先進性を獲得しているのである。これが画期的なことでなくて何であろうか。

 同じDC映画の『ワンダーウーマン』(2017年)、マーベル・スタジオ映画の『キャプテン・マーベル』(2019年)は、ともに本作のキャシー・ヤン監督同様に、女性の監督によって撮られた作品である。そしてまた、これらの作品は、意外なほどヒーロー映画としてオーソドックスな展開に感じられる作品でもある。

 裏を返せば、それはいままで女性がヒーローとなる作品において、その存在がいかに変則的に扱われていたか、また、搾取される存在であったのかを示しているように思える。つまり、女性ヒーローをいま最も先進的に描くには、かつての男性ヒーロー映画と同じように、あえてオーソドックスな内容にするべきなのだ。アメリカのヒーロー映画は、現在そういうフェーズにあるといえよう。(小野寺系)

新着エッセイ

新着クリエイター人生

水先案内

アプリで読む