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「剣心はいたよ、本当に。実在した」大友啓史監督が語る映画『るろうに剣心 最終章』

ぴあ

大友啓史監督と佐藤健 (C)和月伸宏/集英社 (C)2020 映画「るろうに剣心 最終章 The Final/The Beginning」製作委員会

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2011年にスタートした映画『るろうに剣心』シリーズがついに『るろうに剣心 最終章 The Final』と『るろうに剣心 最終章 The Beginning』で完結する。本作は明治の日本を舞台に、“不殺(ころさず)の誓い”を立てた緋村剣心の物語を壮大なスケールの物語とアクロバティックなアクションの連続で描いてきたが、全作品を手がけた大友啓史監督はシリーズを通じて本作に登場する者たちが実在し、現実の社会の中で生きている人物として描くことにこだわったという。

人気漫画を原作にしながら、映画として圧倒的な評価を集めた本シリーズの根幹にあるものは一体、何なのか? 大友監督に話を聞いた。(以下、一部、『るろうに剣心 最終章 The Final』の内容に触れている箇所があります)

和月伸宏の漫画『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』は、アニメーション化され、後に舞台にもなるなど様々な分野で描かれている。幕末に“人斬り抜刀斎”と呼ばれた男・緋村剣心は、新時代・明治の訪れと共に“不殺の誓い”を立て、江戸の街にある神谷道場で暮らしながら、様々な戦いに身を投じる。映画第一作を製作するにあたり、大友監督は漫画に描かれているキャラクターを“現実に存在する人間”として捉えるところから創作を始めたという。

「漫画というのはすでに視覚化されたものですからね、まずはそのヴィジュアルの中からどの要素を映画にするのか考え、実写映画にするうえで不可欠な部分を集めていくことから準備を始めました。ひとつの基準は、僕自身が、この作品の登場人物たちが“実在する”と思えること、そして彼ら彼女らに共感できることが、何より大切だと思ったんですね。

明治維新後、侍たちは廃刀令で刀を奪われ、マゲを切られ、その職業的な技術は不要となり、生きていく術を失ってしまった。そんな中で、剣の心を失った侍たちは新時代をどうやって生きていこうとしたのか? まずは自分がこれまでに蓄えてきた知識や経験を総動員して、原作になった漫画と現実にあった歴史上の背景や事実とを擦り合わせ、その人物たちの感情のリアリティを追求していったんです。

幕末の動乱を乗り越えて訪れた明治時代、剣心にできることは何か? 廃刀令の時代ですから、もう刀は持って歩けない。でも、剣心は、一見真剣にしか見えない逆刃刀を持って白昼堂々と歩いている。今の時代で言えば、モデルガンを持って歩いているようなものでしょうか。幕末、散々人を斬ってきた剣心の思いとしては、侍という身分は廃れたけれど、自分が培ってきた剣技をつかって、この“不殺の誓い”を込めた逆刃刀で自分の目にうつる人々を助けていくことはできるだろうと。そんな剣心の感情は、当時の侍たちの置かれた立場に思いを馳せると、とてもリアリティがあるように思えました。

剣心だけではなく、他の人物などに対してもそういう過程を経ることで、漫画の中で描かれていたフィクションが自分の中で立体化し始める。ひとつひとつ自分のフィールドに落とし込んでいくことで、様々な情報を自分なりの解釈で紐解けるようになってくる。巨大な人気コミックですから、そういう作業を手掛かりに、映画をつくる上での自由を少しでも得たいなと思ったんですね」

ふたりの壮絶な感情のバトルを描く

さらに大友監督は、過去に手がけてきた映画と同様に、すべての登場人物を“社会に生きるもの”として描いた。人間は“キャラクター設定”だけで存在しているわけではない。その時々の社会のルールや状況、倫理観、経済状況に大きく影響を受ける。大友監督はすべての作品で、登場人物と社会の関係をしっかりと描き、その上で社会のルールや倫理から逸脱せざるを得ない状況、意図的に逸脱する場面を描いてきた。

「どんな人間も時代と切り結びながら生きているんですよね。剣心はあの時代に『新しい時代のためなら人を斬れます』と答えて人斬りになっていくんですけど、理念で引き受けることと、それを現実で実践していくことの間には大きな差があると思うんです。そこで生まれた矛盾を押し殺していける人間は悪に陥ったり、もしくは平然とした顔で新政府の一員になって出世していくんだろうけど、剣心はそうではなかった」

大友監督は「人間を動かしているのは、とてもプライベートな体験や感情」だという。「どの人にとってもプライベートな体験というのは、すべてが望んで引き受けたものではないと思うんです。そう考えると、どんな人間であろうと、いかに腹立たしい相手であろうと、同情の余地や、すべてをその人の責めだと言えない部分がある。どの作品であっても、そんな気持ちをすべての登場人物に感じたいという想いはいつもあります。

人間はお金や欲望や悪に取り憑かれて、ギリギリの判断を迫られた時に“生(なま)”の感情や顔が見えてくる。言葉にしてしまうと安っぽくなってしまうんですけど、自分がいつも心を動かされるのは、社会的な動物であるはずの人間が、その社会性を剥がされてしまった瞬間に見せる“生の感情”なのかもしれません」

最新作でも大友監督は、これまでのシリーズで得た知見を総動員しつつも、いたずらに規模を拡大するのではなく、シリーズの根幹にある“すべての人物が実在していること”と“人間の生の感情が現れる瞬間”にこだわって、物語を拡大ではなく“深める”かたちで脚本を書いていったという。

本作は江戸の町に謎の男・雪代縁が出現するところから物語が始まる。やがて剣心が愛する妻・巴を自らの手で斬った過去が明かされ、縁こそが剣心が殺めた巴の弟であることが判明する。姉を殺され復讐を誓う縁と、愛する女性を斬った罪を背負って生きてきた剣心はついに再会し、刃を交える。

「今回の話は、剣心という人間を生み出したのは巴で、剣心と巴の関係性が生み出したモンスターが縁である。そして、その剣心と縁が、長い時間を経て運命の対峙を向かえるという物語なわけですよね。そうなると感情の深さがこれまでの作品とは比較にならないわけです。剣心は自身の手で殺してしまった愛する妻の弟と向き合うことになるわけですから。

一方の縁は、愛する姉であり、母親代わりでもあった存在を失ったわけですけど、当時の縁はまだ子供だから、巴が剣心に対して復讐心を抱きながら、それだけではない想い=愛情を抱いてしまったことが明確に理解できない。つまり、物理的に姉を奪われただけではなくて、その心までも奪われたと感じたんだと思うんです。そのふたりが戦うわけですから、対立構造にはなっているんだけど、その関係は敵や味方ではなくて“遺族”に近い。死んでしまった巴の夫と弟なわけですから。

巴に対しての異なる思いと共通する思い、その両者を抱えたふたりが剣を交えることで、お互いの感情をを確認していく。深度のある複雑な感情を、激しい戦いを通じて、剣を合わせながら確認していく。こんなに強靭な設定って実はなかなかありませんから、それがクライマックスに用意されている以上、構成はすごくシンプルにしたほうが良いのではないかと思うに至りました。

だから複雑なことはやめて、剣心と巴、縁の間にかつて何があったのかを剣心の仲間たちが知り、その過程でお客さんも剣心の過去を知る。その後、表向きはアクションに特化しているように“見せかける”んだけど、観客はきっと、底流にあるふたりの壮絶な感情のバトルも感じてくれるに違いない。そういったプランをベースに、「京都大火編/伝説の最期編」に込めた密度を、一本の映画に注ぎ込もうと思ったわけです」

「剣心はいたよ、本当に。実在したよ」

大友監督が語る通り、剣心と縁は敵ではない。だからどちらかが相手を斬るだけでは解決しない。ふたりの戦いは相手の感情を知る行為であり、その刃はどちらも深い悲しみに満ちている。観客は驚異的なアクションに目を奪われつつも、そこで描かれる生々しい感情のぶつかり合いに心を奪われるはずだ。

「かつて『龍馬伝』をつくりながら、吉田松陰や、高杉晋作、坂本龍馬、岡田以蔵はみんな自分の中で“確かに存在した”と確信する瞬間があったんです。まあ、彼らは実際実在した人物たちですからね。かつて生きていた人たちが残していった“念”があると思いますし、剣心もフィクションなんだけど僕は“剣心の念”も実際にあると真面目に思ってるんですよ。1作目の時に佐藤健と綾野剛が戦うシーンで、剣心が「不殺の誓い、逆刃刀だ」といった瞬間、なぜか涙が出そうになって。周囲にさとられないように苦労したんですけど(笑)、思わず佐藤健のもとに駆け寄っていって『剣心はいたよ、本当に。実在したよ』って言ったら、彼はキョトンとしてましたけど(笑)。その頃からすでに、剣心っていうのは僕の中でリアルに実在した人物だと思っているんです。

佐藤健は『1作目のときは人気漫画のキャラクターをいかに演じるかに一生懸命だった。2作目になって剣心が自分の中に少しずつ入ってきている気がした。今回の作品はすでに自分の中に剣心が住んでいて、自分の中にいる剣心を引っ張り出すことで演じていく。剣心は実在します』って言っていて。ぐるりと一周廻って、僕が1作目で感じた感情を、俳優のスタンスから体感したんだなと思って、なんだか感動しましたね。

撮影の時って、とりあげているのはフィクションの人物なんだけど、本当に生きているな、実在したんだなと思えることがあって、撮りながら僕はいつも、どこかでそんな瞬間を求めている。そこに僕だけじゃなくて主演俳優もたどり着けた。それはこの映画シリーズの大きな成果だと個人的には思っています。剣心だけじゃなくて、縁も薫も左之助も恵も、弥彦も“本当にいた”んだと思うし、それを俳優の身体を通して観る人に感じてほしいし、僕が現場で感じたことを共有してほしい。人物たちの体験や感情を、観ている人たちもハラハラしながら追体験していく、それこそが娯楽エンターテインメントの、シンプルで正しいかたちだと思うんです」

大友監督の考える正統なエンターテインメントは、アクションや爆発を積み重ねることではなく、その奥底にある生々しい感情のダイナミックな揺れ動きを、登場人物と観客が共に体験することにある。どんな鋭い刃よりも観る者の心を深く刺す痛みと悲しみの物語、そしてキャリアを通じて“実在する人間が見せる生々しい感情”にこだわり続けてきた大友監督の信念が本作を、最終章にふさわしいものにしているのではないだろうか。

『るろうに剣心 最終章 The Final』
公開中

『るろうに剣心 最終章 The Beginning』
6月4日(日)より公開

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