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荒木経惟 写真に生きる 写真人生の出会い

写真が好きだった親父。写真との最初の出会い。

全11回

第2回

19/2/3(日)

親父の暗箱カメラで
初めて逆さまの校舎を見た

荒木の父・長太郎が撮った1歳の荒木。

 親父が撮った俺なんだよ。1歳ぐらいかな、もうちょっと赤ちゃんかな。おチンチン出して、この頃から、ちゃんとヌードやってるね(笑)。親父、ちゃんと撮っておいてくれたんだよね。この写真、俺が生まれた(東京都台東区)三ノ輪の実家の隣にあるお蕎麦屋のせっちゃんのアルバムに貼ってあったらしいんだよ。親父が撮った写真とかが何枚も。俺が好きで貼ったりしたんじゃないかな。だからもしかしたら、最初の写真集は?って言ったら、それかもしれないね。自分のアルバム。要するにアルバムなんだよ。電通時代にスケッチブックの写真集を作ったり(B4のスケッチブックにプリントを張り込んだ手作りの写真集)、ゼロックスのもあったけど(会社のゼロックス・コピー機を使って作った私家版写真集『ゼロックス写真帖』〔荒木経惟写真帖〕)、やっぱりアルバムだね、最初は。いい写真を貼っておいたんじゃないかな。

小学生の荒木は少年野球チームに入り、ベーゴマやメンコの名人でもあったという。動物園でゾウが好きになり、粘土でよくゾウを作っていた。紙芝居や絵を描くのも好きだった。長太郎が撮影。

 親父は下駄屋(「にんべん屋履物店」)をやってたけど、写真が好きで、うまかったんだ。俺がカメラで最初に見たのは、親父の暗箱カメラからのぞいた逆さまになった小学校の校舎。暗幕をかぶってね。その時に、キザなことをいうと、孤独感とかなんとかを感じ取っているんだよ。そこでは画面と自分だけになる。外界を封殺しちゃっているから。あの暗幕が最初だね。世間というか、世の中と対峙して、他に誰もいなくてさ、それで建物が逆さまに写ってるわけだよ。

 今でもはっきり覚えているよ。だって通っていた東泉小学校の校舎だもん。親父はアマチュアだったけど、ものすごく評判がいいカメラマンだった。写真がうまいっていうんで、学校の卒業写真集を作る仕事とか頼まれるんだよ。今はそういうの作っているかわからないけど、最初のページに校舎がくるわけ。暗箱を組みたてて撮るっていうときに、助手で付いていったんだ。助手っていっても何にもしないんだけどね。ワーッと行って、校舎を撮ろう、その次は生徒たちが並んでいるのを撮ろうって。三脚も木でさ、組み立てカメラで撮るんだよ。ガラスの乾板(カンパン)だよ。それでピント合わせて、「よし、これでいこう」とか言って。演出なんだよ、俺とおんなじでバカなこと言って生徒を笑わせたりするじゃない。その時に、三脚が倒れないように番をさせられるわけだよ。そのときだったね、ちょっと背伸びしてさ、覗いたっていうね。背を高くしないと見えないから。あれはね、昔の人もね、不思議だなーと思っただろうね、被写体が逆さまに写っているから。

 だからね、写真の先生というのはいないんだけど、やっぱり親父が先生をやってくれてたんだろうな。四畳半ぐらいのところを改造して暗室にして、もっと狭かったかな、入らせてもらって手伝わせてくれる。何をやらしてくれるかっていうと、現像を定着までやっているのを見せるわけ。そうすると真似して、氷砂糖みたいなのをボンっと入れる。いい加減だよ、あんなの。化学だなんだっていったって(笑)。ハイポっていう定着液だね。現像定着液を作る。そういう姿を見せる。それを後ろで見ているわけだよ。すると俺は器用だからさ、できるんだよ。化学はいい加減でいいんだなって。俺、千葉大学の有機化学だからね、ワハハ(笑)。(千葉大学工学部写真工学科を卒業。)

フレーミングとアングルを
教えてくれた、親父とお袋の死

「父の死」1967年撮影

 これは親父が死んだときの写真。お祭りが好きだったから祭りの時の浴衣を着せたんだよ。ゴザの上で数珠を持ってる。一緒に銭湯に行っていた頃の元気な親父じゃない。病気で入院して死ぬまでが長かったから、やつれちゃって、俺が好きな元気な親父の顔じゃなかった。そんなの最後の遺影に撮りたくない。だから顔はカット。残したくないもの、記憶から消したいものはパッとみんな切っちゃう、切り捨てる。そういうのから始まっているの。で、あ、そうか、写真というのはフレーミングだなと。自分が除外するものと入れるもの。そういう作業なんだと。親父が教えてくれたんだよ。で、お袋が死んだときね、やっぱり一番本人が喜ぶような、綺麗に見えるアングル。死んでブツになっているからね。またバカなこと言ってさ、笑わせようったって笑わないしね。お袋の周りをグルグル回りながら探すわけ。それでよし!ここだ!って、一番綺麗に見えるアングルを見つける。もうこん時にね、勉強させていただいているわけ。フレーミングとアングルで決まるんだよ、写真は。

「母の死」1974年撮影

 今一番、親父とかお袋とかね、旅に連れて行ってあげたかったなと思うんだ。一緒に旅したことなかったんだよね。親父に連れて行ってもらったことはあるんだよ。写真のアシスタントやっていた時だから小学生のときにね。小学校の林間学校で日光に行くとかってあるじゃない。そういう時に助手と称して連れて行ってくれた。そういうような旅しかないの。俺は、そのころから意欲的だったから、旅館を抜け出して、夜明けに日光東照宮に入っちゃって、親父からもらったカメラで写真を撮ったりしたんだけどね。親父と二人の旅とかないんだよね。お袋と行ったこともないしさ。今だったら親父が喜ぶだろうなと思って。今ちょっとベルリンで(展覧会を)やっているんだけど、行こうぜとか言いたいんだよねえ。そういう時にいない。だから残念だけどね。

三ノ輪の実家「にんべん屋履物店」の前で、母と孫たち。1967年撮影

 お袋が近所の友達なんかと旅行しているアルバムが出てくるんだよ。そういう写真見ると、いいなあと思うんだよ。だからお袋を連れて、ちょっと近くの温泉でもいいからさ。親父は写真展だね。海外の写真展に一緒に連れて行きたかったねえ。ウィーンのゼセッションでやった時に連れて行きたかったなあ、親父は喜んだろうなぁ。(1987年にオーストリア、ウィーンのゼセッションの設立100周年記念展として、それまでの最大規模の個展を開催、荒木は16年ぶりに渡欧した。)下町だからね、自慢だったらしいんだ。「うちのノブは天才だ」なんて言ってたらしいからね(笑)。

1977年に実家のある三ノ輪を去ることになり、1940年に生まれてから三ノ輪で過ごした気持ちを写真に記録した「私景 1940-1977」。雪の日の実家の前の通り。母は荒木に、「遠くに遊びに行ったら、下駄の看板を目印に帰ってくるんだよ」と言った。1977年撮影
下駄の看板は二代目、初代は銅板で囲われていたので戦争に献納させられたという。1977年撮影

男の顔は、笑顔が一番
今、そう思うようになった

 被写体がいいときは、自然とね、いい写真になるんだよ。美人が美人に写るように。俺が疲れるのは、不美人を美人に撮ってあげようという思いが強すぎるからだろうね、アハハ(笑)。

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