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姫乃たまが考える“女性器と向き合うこと”ーー『スティルライフオブメモリーズ』を観て

リアルサウンド

18/8/7(火) 10:00

 何年か前に「まん拓」を取ったことがあります。とある文筆家の女性が出版に向けて千人千枚の「まん拓」を集めていたのです。紙にインクで転写された自分の女性器を見た気持ちはなんとも言えず不思議でした。普段見えないものが、目の前にありありとしているのです。目の前まで掲げてみると、やや高揚感すらあって、悪くない気分でした。

 出版された時のことを考えると多少の緊張はありましたが、転写された女性器は転写した時点の女性器であって、いま自分が所有している女性器ともまた違うものに見えたので、「これはこれでなんかいいな」という気がしました。しかし「まん拓」を世間に公開するには障害がたくさんあるようで、数年経った今日もいまのところ出版には辿り着いていません。猥褻な目的で生の女性器を露出するわけでもなく、参加した女性たちが署名までして承諾していても公開できない。女性器と向き合う行為は複雑で、多くの人が様々な感情を抱えているんだなあと思った出来事でした。

 そもそも女性器自体が複雑な存在で、男性器と違って物理的に向き合わないこともできます。女性器を所有している人は、自分の顔と同じように、直接自身の女性器を見ることは叶わないのです。

 だから小さい男の子たちが「ち○こ!ち○こ!」と大声でふざけ合う光景は見たことがあるけれど、「ま○こ!ま○こ!」と笑い合う光景は見たことがありません。なんだか得体が知れないからでしょう。しかし、女性器の得体の知れなさは小さい男の子に限った話ではありません。自分の性器を確認しないで一生を過ごす女性もいるはずです。

 誰しも他者の女性器を見ることは可能ですが、その女性器を自分自身の体に所有することはできません。目で見れば表面的な色や形はわかりますが、その深いところに何があるのか(あるいはないのか)はわかりません。しかし私たちは誰しもそこを通って生まれてきました(覚えてないけど)。

 映画『スティルライフオブメモリーズ』の中に「画家はなぜ自画像を描くのか」という問いが出てきます。自分自身のものであるにも関わらず、自分の目では見えない部分を確認して捉え直すという点で、自画像を描く行為は女性器に向き合う行為と共通しています。そしてこの「女性器と向き合う行為」が、この映画の主題です。

 主人公の男性がまるで妊婦の胎内を伺おうとするように、膝をついて湖に耳を押し当てる場面があります。女性器に向き合おうとするのはまさにそのような行為で、耳を中心にして波紋は女性器のように広がりますが、湖は広くて深く、深層はどうなっているのかわかりません。

 本作は写真家の春馬(安藤政信)と妊娠中の彼女・夏生(松田リマ)、そして2人の前に現れた女・怜(永夏子)が、春馬に自分の女性器を撮影するように頼んだことから始まる奇妙な三角関係の話です。

 この映画の命題は女性器に向き合う行為を通じて、“生き物としての人間”を紐解いていくところにあると考えます。“生き物としての人間”というのは、社会の枠からついはみ出してしまう人間の部分を指しています。まだ入籍していない妊娠中の彼女がいる男が、ほかの女性と性器を定期的に撮影する関係にあるのは社会的とは言えないでしょう。しかし、こうした社会性からはみ出してしまうところに“生き物としての人間”はあるのです。

 3人は世間から見れば不道徳とも捉えられかねないこの関係に、それぞれ歯がゆさを感じながらも、どうしてこんな形になってしまったのか、社会性や恋愛感情を越えて(外れて)その意味を見出そうとしていきます。

 怜の依頼はいつも「来週の月曜日、午後3時にお願いします」といった具合なので、まるでカウンセリングの予約みたいです。それに対して春馬は「彼女に何も尋ねない」「撮影したフィルムは彼女に渡す」ことを条件に、事態を飲み込めないまま撮影を始めます。これによってお互いにどういった作用があるのか不明なまま、しかし定期的に撮影は行われます。写すのはいつも女性器ばかり。

 3人は映画の中で、頻繁に螺旋階段を歩きます。螺旋は人生(時間)と同じです。同じところを巡っているようでいて、着実に自分が立っている場所は変化していきます。

 しかし夏生のお腹が膨らんでいくことや、赤子の誕生によって、はっきりと時間の経過を意識する機会はやってきます。そうすると代わり映えしないように思える怜の女性器も、やはり少しずつ変化していて、そしていつか違う様子になっていくことを思い出すのです。生まれたばかりの赤子の女性器と、寝たきりの母親の女性器が異なるように。

 しかし見た目が変わっても、そこが誰しも生まれる時に通ってきた道であることに変わりはありません。そこを通っている時の人間はまだ社会とは関係のない生き物のままで、そして私たちはそこがどんな風だったのかを覚えていません。そのことが彼らを、映画を見ている私たちを女性器に惹きつけます。

 最も印象的だったのは、怜と夏生が2人でボートに乗って湖で佇んでいるのを、春馬が困惑したように眺めていたシーンです。その姿からは、女性器と向き合うほどに「どうして女は遠くに離れてしまうのか」と困惑する矢崎仁司監督が見えるようでした。矢崎監督の女性に対する圧倒的に敬虔な気持ちが伝わってくる映画です。(姫乃たま)

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