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Yahoo!はなぜ日本で成功したのか? 孫正義にも「No」と言えた実力者・井上雅博の知られざる半生

リアルサウンド

20/7/17(金) 13:30

■いかにしてYahoo! JAPANは生まれ、今のかたちになったのか?

 Yahoo! JAPAN(現Zホールディングス。以下、Yahoo! JAPAN時代の記述が多いため、文中では基本的にYahoo! JAPANと呼称)と言えば、いまだに何かと孫正義のイメージが強いという人も多いだろう。

参考:なぜ日経はデジタルシフトに成功した? メディア関係者の必読書『2050年のメディア』を読む

 特にYahoo! BB(インターネットサービスプロバイダサービスとADSLブロードバンドインターネット接続とを統合したサービス)の営業が街の至るところで見られた2000年前後の狂騒を知っている人はそうなのではないか――あれはソフトバンクが主に提供するサービスだったのだが。

 米国Yahoo! Inkにいち早く出資したのも、1996年1月のYahoo! JAPAN設立時の初代社長に就任したのも孫正義である。ところが孫正義は、実は日米のYahoo!の事業にはほとんど関わっていない。では誰が率いていたのか。

 Yahoo!の「元社長」と言って思いつく人は? と言えば、2019年に東京都副知事に就任した宮坂学のほうが名が先に挙がるのではないか。ところがその3代目社長・宮坂も、それを継いだ現社長の川邊健太郎も口を揃えて「Yahoo! JAPANを作ったのは井上さん」と呼ぶのが井上雅博である。

 しかし、なぜ世間的には印象が薄いのか。それは井上がマスコミ嫌いであり、また、孫正義の陰となるべく、露出を極力避けたからだ。

 では社内においても黒子のように存在感を消していたのか、あるいは目立たない性格なのか、孫正義の意向を汲んで動く影武者だったのか? といえば、まったくそうではない。強烈な個性で日本のインターネットビジネスを黎明期から牽引し、孫正義にもはっきりとNoと言える数少ない存在だった。

 森功『ならずもの 井上雅博伝 ――ヤフーを作った男』はその井上の生涯を追った評伝であり、知られざるYahoo! JAPAN誕生秘話を扱ったノンフィクションだ。いかにしてYahoo! JAPANは生まれ、今のようなかたちになったのか?

■米国Yahoo!設立の年に早くも出資、翌年日本法人設立というスピード感

 スタンフォード大学の学生ジェリー・ヤンとデビッド・ファイロによって、アメリカでYahoo!が設立されたのは95年3月。96年には米NASDAQ市場への株式公開を果たす。

 ビジネスモデルは今もYahoo! JAPANのイメージであろうポータルサイト事業――ユーザーにニュースをはじめとするさまざまな情報・サービスを提供し、広告で回す――だった。

 米国Yahoo!は90年代、世界一のIT企業に成長するも、2000年代に入ると、ネット検索でGoogleに押され、00年代後半から経営難に陥り、08年にはヤンがCEOから辞任。17年には通信大手ベライゾン・コミュニケーションズに大半の事業を身売りし、社名は「アルタバ」に変更。IT企業としては事実上解体された。

 ところが一方、Yahoo! JAPANは周知のように日本のインターネット業界の巨人として今も君臨し、Yahoo!ニュースは日本最大のニュースメディアとして君臨し、LINEとの経営統合が予定されるなど、話題に事欠かない。

 日本で「インターネット元年」と呼ばれたのがYahoo!が設立された95年、Windows95にInternet Explorerが標準装備されたのが96年。日本法人設立が最終的に決まったのは95年11月とされ、Yahoo! JAPANが設立されたのは96年だ。

 パソコン向けのソフトウェア卸売業や、パソコン雑誌を中心とする出版業を営んでいた孫正義率いるソフトバンクは94年からコンピュータ関連企業への投資や買収を進めており、Yahoo!はそのうちのひとつだった。それも218億円かかったジフ・デービスの展示会部門買収などに比べると2桁小さい2.5億円弱を投じたに過ぎなかった――が、もっとも大きく化けた事業となった。

 孫が狙った「タイムマシン経営」――アメリカで流行っている事業を日本に持ってくる――を実践するにあたって必要だった、「アメリカのPC、ソフトウェア産業やインターネット関連の技術についての知識に明るい」かつ「英語での商談の経験が豊富」な人材が井上だったという。しかも孫に対するイエスマンではなく、むしろ猪突猛進型な孫に呑まれることなく時にブレーキをかけることができ、かといって日本によくいる「持ち帰って判断します」的な慎重派でもなく、意見が一致したときには即断・即決・即実行。

 まだ従業員10名足らずのYahoo!を経営するヤンとファイロのふたりに会ったソフトバンクの孫と井上は「どう思う?」「いいと思います」とやりとりをしてすぐに200万ドルの出資を決定、Yahoo!JAPAN設立に向けて動いたという。孫たちよりも先にYahoo!にアプローチしていた日本企業は大手商社を含め複数あったが、スピード感溢れるソフトバンクが日本法人設立の権利獲得に成功した。

■自分が理解できない人間を採用する

 日本法人が設立されるとその当初から実質的に事業を担い、孫ののちに社長として2012年までYahoo! JAPANを率いた井上は、「インターネットは新聞、テレビ、出版の3大メディアに追いつき、追い越す」と社内で口々に語り、それを実現していく。

 いまやYahoo!は日本の全人口の半数を超える6700万人が利用しているとの調査がある。97年11月にはJASDAQに株式公開し、99年5月には時価総額1兆円を突破。2000年には1株1億6000万円というネットバブルとしか言いようがない株価をつけ、役員・従業員のなかでももっとも多くストックオプションを割り当てられていた井上の総資産は1000億円以上と言われるほどになったという。ネットバブル崩壊後に失速した企業も少なくなかったがYahoo! JAPANはその後も成長を続け、東証一部に鞍替え。現在Zホールディングスには2.5兆円以上の時価総額が付いている。

 Yahoo!ニュースやヤフオク、Yahoo!ショッピングなどの個別事業が具体的にどう成長していったのかは、『ならずもの』には書かれていない(Yahoo!ニュースがある意味で新聞を利用し、ネット上では新聞をはるかに超える影響力を持つに至ったという成長の過程は下山進『2050年のメディア』に詳しい)。

 この本で書かれているYahoo! JAPAN成功の秘密は、井上の采配の妙の部分だ。当時を知らない若い世代には想像しがたいだろうが、インターネットビジネスの黎明期、世の中ではネットと言えば「ホームページを見たり、作ったりできる」くらいの認識しかなかった。当時の価値観での普通の意味での「優秀な人材」とされる人が大量に応募してくるような業界ではなかった。

 「ネットが好き」と周囲に言うと「変わった人」「ちょっとやばいやつ」「(昔の意味での)オタク」扱いされることが多かった――今となってはあまりに日常に溶け込んでしまったので「ネットが好き」という感覚すら多くの人にはないかもしれない(特定のサービスやアプリが好きという感覚はあっても、「ネット自体が好き」という感覚はもはや失われつつあるように思う)。

 ところがそういう中からこの世界に向いた人材を採用し、適所へと配置するのに長けた人物が井上だった。パソコン教育を取り入れた学習塾経営の桧林社の米国法人での経営経験を買われた喜多埜裕明を、入社後すぐにYahoo!の広告営業管理チームのリーダーに抜擢。97年3月4日に発足したヤフーファイナンスを、6月2日に入社した宮坂学に任せる。

 のちにFacebook Japanの代表となる児玉太郎が22歳で日焼けしたロン毛姿で中途採用面接を受け、「26歳以上」が応募資格となっていたため、本当はやってみたいと思っていたプロデューサー職ではなく別の職種を受けると井上は「なぜプロデューサー部に応募しないんだ! 応募資格くらいであきらめるな!」と怒り、プロデューサー部に配属。しかも「お前はスーツが似合わない。キモイから、次から着てくるな」と言い放った。

 モバイルインターネット事業を運営する「PIM」を買収し(Yahoo! JAPANの買収第一号案件)、その買収されたPIMの社長だった松本真尚を「Yahoo! BBをやる!」と息巻く孫正義の元に、入社したての新顔であるにもかかわらず送り込み(井上自身は直接参加せず)、グループの経営会議に参加させて交渉窓口にした。……等々。

 無茶ぶり、抜擢はベンチャーあるあるではあるが、今名前を挙げた人たちはみなYahoo!で大きな成果を挙げていることを思えば、適当に任せたとは思えない。

 ではどういう哲学があったのか。井上の採用方針は「自分に理解できない人間は採る」というものだったとこの本で明かされている。これは別に、わけのわからない人を誰でもかれでも入れる、ということではないだろう。一方で井上は、インターネット業界がどの方向に動いていくのか、先んじて手を打っているからだ。

■「新聞やテレビを追い越す」ために必要な公共志向と、そのための人材とは

 「インターネットは新聞、テレビ、出版の3大メディアに追いつき、追い越す」と言うだけでなく、「日本の広告市場は6兆円もある。新聞、雑誌、テレビ、ラジオだけで4兆円。だからインターネットもせめて兆を売り上げられるようにしよう」とも語っていた。既存の産業がネット発のものにリプレイスしていくために何が必要かを見越していた。それはレガシーをただ破壊しようとか、スキマを縫って稼ごうとか、そういう志ではなかったことが『ならずもの』を読むとわかる。

 たとえばインターネット広告。これまでネットは、何度も詐欺広告、ステマ、エロ、反社会的な広告等々で問題になってきた。「儲かるから」という理由でこうした広告の獲得・掲載にアクセルを踏む新興事業者が少なくなかったなか、新聞、テレビを追い越すことを見据えていた井上は、初代Yahoo!編集長となった影山とともに、書記からサイトの社会性を重んじて「サイトの品を落とす」広告は切っていったという。われわれが抱くYahoo!に対する安心感、メジャー感はおそらくこういうところに起因する。

 ヤフトピの初代責任者は読売新聞出身の奥村倫弘であり、彼は「広告案件だから載せてほしい」といった社内からの要望もすべて排除。公共性を強く意識した運営がなされていたことは『2050年のメディア』に詳しい。

 しかしそういうある種の公共性を帯びたメディアであるためには、徹底して誰もが使いやすいものでなければならない。井上はそれに必要な技術に関する投資を惜しまなかった。これは自身も学生時代にパソコンに目覚め、ギークとしてどっぷりな日々を送り、そこからポジションを得ていったという成功体験も背景にあったのかもしれない。

 同様にモバイルインターネットなどに関して、井上には理解できないようなことを熱弁する人間などは採用したそうだ。これはほかの人間が気付いていないことに気付いている可能性があるからだろう。目端が利く井上ですら知らない、よくわからない技術動向や事業アイデアに取り憑かれている熱量を持った人材なら、何かやり遂げるはずだ、ということだろう。

 尖った人材を採りながら、新聞・テレビ以上の公器を目指す――これがわれわれがYahoo!に抱く企業イメージにつながっている。その礎を作ったのは井上だった。

■この本のほかの読みどころと、Yahoo! JAPANをより知るには

 『ならずもの』にはYahoo! JAPANの経営をめぐる記述以外にも、読みどころがたくさんある。

 マンモス団地に育ち、ペリー・ローダンシリーズを愛読したSF少年としての井上の顔。ソフトバンク入社以前にはアムウェイにハマり、ソフトバンク時代からYahoo! JAPANの最初期には正社員ですらなかったという驚きの雇用形態。Yahoo!BBやボーダフォン買収をめぐる孫正義と井上の駆け引き。2012年に突如の引退を発表したあとの、カネに糸目を付けない趣味人としての知られざる私生活。そして2016年に起こった、井上に死をもたらしたクラシックカーレース出場中の不慮の事故への道筋……。これらのいずれも読ませる。

 また、Yahoo!についてより知りたいという人は、たとえば何度か言及した『2050年のメディア』や、日本のIT起業家たちを追った杉本貴司『ネット興亡期』(日経新聞連載。8月26日単行本発売)などと合わせて読めば、より立体的に見えてくるだろう――たった四半世紀前には影も形もなかったのに、いまやわれわれは日々当たり前のもの、あたかも空気のように接しているYahoo! JAPANは、いったいどんな立ち回りをして今に至ったのか、ということが。(飯田一史)

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