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アジアの超富裕層の光と影? 『クレイジー・リッチ!』2つの“格差恋愛”が伝えるもの

リアルサウンド

18/10/14(日) 10:00

 2013年に発表されたベストセラー小説『クレイジー・リッチ・アジアンズ』は、東南アジアでエリート層を形成する“海峡華人”と呼ばれる人びとを題材にした物語だ。かつて荒涼としたジャングルだったシンガポールへやってきて事業を興した歴史ある一族は、いまでは莫大な資産を持つ超富裕層であり、その圧倒的な財力は単なるリッチ、スーパー・リッチを超えたクレイジー・リッチと呼ぶべきレベルに到達している。こうした富豪一族の御曹司であるニックと交際しているのが、ニューヨークに住む中国系アメリカ人の主人公レイチェルである。レイチェルはシングルマザーに育てられた、ごく平凡な生い立ちの女性であり、恋人の家族が超富裕層であるとは知らずにいた。ところが、恋人ニックの故郷シンガポールを訪ねてみると、彼の一族は目もくらむような“クレイジー・リッチ”だったことに気がつく、というのが物語のあらすじである。

 同小説を映画化した『クレイジー・リッチ!』は、ハリウッドにありがちな変更(登場人物を白人に置き換える)を拒否する原作者兼製作総指揮のケビン・クワンのもと、アジア系キャストで作られる25年ぶりのハリウッド映画となった。きらびやかなセットやファッション、ユーモラスな脚本や意外な選曲などの要素もあいまってアメリカでも大ヒットとなり、3週連続の興行収入トップを記録している(参考:ロイター|北米映画興行収入=「クレイジー・リッチ!」が首位を維持)。本作以外で2018年に3週連続の首位を記録した映画は『ジュマンジ/ウェルカム・トゥ・ジャングル』『ブラックパンサー』『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の3作品のみであり、『クレイジー・リッチ!』がいかにヒットしているかが伺えるだろう。

 物語では、ニックの母親エレノアとレイチェルとの衝突が大きなテーマとなる。仮に御曹司である恋人と結婚し、一族に加わるのであれば、彼女自身の仕事や夢はすべて捨て、一族に尽くす覚悟がなくてはならない、というのがエレノアの主張だ。エレノア自身、結婚にあたって大学を中退した過去がある。彼女はキャリアや未来と引き換えに現在の位置を得たのだ。私はこれだけの犠牲を払った、あなたには同等の犠牲を払う覚悟があるか、と彼女はレイチェルに問う。とはいえ、主人公レイチェルはニューヨークの大学で経済学を教えており、みずからの可能性を捨てるつもりはなく、ニューヨークから出ることすら拒否するだろう。アメリカで生まれ育ったレイチェルは、むろんアメリカ的価値観に沿って生きている。エレノアがレイチェルに難色を示すのは、たとえ見た目が中国人であっても、その内面において彼女がアメリカ人であるためだ。独立宣言にもあるように、個々が「幸福の追求」(pursuit of happiness)を推し進めるアメリカ的価値観が、一族にはそぐわない。個々の幸福を犠牲にしてでも、求められた役割を全うすることが何より重要なのだ。

 こうして物語を俯瞰してみると、望むと望まざるとにかかわらず、誰もが何らかの役割を求められ、それを引き受けていくことが作品の大きなテーマになっている。妻として、母として、男として……。物語の登場人物は、誰もが何かしらの役割を担わなくてはならない。妻であればこのようにふるまう必要がある、といった要求は重い枷でもある。「~らしく」とは何とも窮屈な要求だ。エレノアは悪役にも見えるが、結婚に際してあきらめなければならなかった未来は、彼女の内面にどのような悔いを残しているかと想像してみることが必要だろう。一族のメンバーはみな本来の自己を押し殺して耐える代償として、ようやくクレイジー・リッチな世界の一員となれるのだ。私はこの華やかなファッションと豪邸、パーティーと高級車の世界に一抹の虚しさを感じてしまうのだが、それはこの一族が、生きる上での主体性や意志を放棄しなければいけないという宿命に対する虚しさであるように思う。

 わけても劇中で印象的な存在感を示す、一族の女性アストリッドとその夫にまつわる逸話はとても悲しい。超富裕層の妻と釣り合わない元軍人の夫は、格差婚と周囲の目に悩んでいる。美しい容姿とファッションで注目の的となるクレイジー・リッチなセレブ妻と、地味で存在感のない夫。夫は事態をどうにか挽回しようとみずからの会社を起業するが、一族からは蔑まれた存在のままだ。稼ぎの少ない男、甲斐性のない夫と周囲にからかわれるうち、彼は自信を喪失して浮気に走ってしまう。夫のコンプレックスを刺激しないよう細心の注意を払う妻だが、そうした気配りすら夫を傷つけてしまうという悪循環。男らしくあらねば、という強迫観念に取り憑かれた夫は悲しい存在だ。お互いを愛し合っているにもかかわらず、夫が“男らしさ”に固執するばかりに、夫婦の愛は壊れてしまう。妻が夫へ伝えた言葉はとても悲しい。「あなたに男らしさを取り戻してもらうのは私の役目じゃない。別の人間に変身させるなんてできない(It was never my job to make you feel like a man. i can’t make you something you are not.)」。妻の嘆きにもっともだと納得すると同時に、甲斐性のない自分に嫌気がさして浮気をしてしまった夫のやり切れなさも理解できる。「~らしく」の呪い。もしあの夫が「男らしさを競うなど無意味ではないか」と開き直ることができれば、あるいは夫婦は幸せに暮らしていけたのではないか。一族の持つ歪みは、こうした形で不幸をもたらしてしまう。

 「~らしさ」にまつわる細部の積み重ねがあるからこそ、自分を押し殺して周囲の期待する役割を果たすだけの虚しい生き方は止めよう、と高らかに宣言するラストに胸が熱くなる。あらためて考えてみれば、ニックは裕福で容姿がいいだけではなく、恋人を大事にするし、相手の話をきちんと聞いて、敬意や愛を態度で示すことができる。かくして映画は、このように完全無欠な男性に求婚されたら失神してしまうのではないか、という多幸感全開のエンディングへとなだれ込んでいく。景気のいい打ち上げ花火のまぶしさに圧倒されつつ、観客はこの幸福なカップル誕生に快哉を叫ぶのだ。(文=伊藤聡)

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