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円山・四条派の全貌が明らかに 『円山応挙から近代京都画壇へ』

東京藝術大学大学美術館、古田亮准教授に聞く “円山応挙と近代京都画壇”を知るための 6つのポイント <PARTⅠ>

全3回

第1回

19/7/23(火)

円山応挙《保津川図》(右隻) 東京展:後期展示、京都展:前期展示

18世紀の京都で花開いた「円山派」「四条派」と、近代にいたるまでのその系譜をたどる展覧会『円山応挙から近代京都画壇へ』。円山応挙を中心とした京都画壇の潮流だが、どのようにして興り、近・現代の京都画壇にどのような影響を与えたのだろうか。監修者のひとりである古田亮准教授に、同展を楽しむために知っておくべきポイントを教えてもらった。

POINT①
そもそも“円山・四条派”とはなにか

─── 古田先生、まずは円山・四条派というのは、いつどこで花開いた流派なのか、教えてください。

 一言で言うのはとても難しいんですが……(笑)。まず京都の円山応挙(1733-95)が始めた、その当時非常に革新的だった新しい描き方が、たちまち京都に、そして後の時代にまで広がり続けたものが、いま私たちが「円山派」と呼んでいるものです。
 次に呉春(1752-1811)を祖とする派を現在は「四条派」と呼んでいます。なぜ「四条派」というかというと、呉春が京都の四条に住んでいたから(笑)。しかし呉春の後の世代、弟の松村景文や岡本豊彦などの弟子たちが呉春の描いたものを拾い集めて、土台を作っていったのが「四条派」と呼ばれるようになった、というほうが正しいかもしれませんね。
 しかしながら、実は「円山派」も「四条派」も後世名付けられたもの。その当時は誰もそう呼んではいないんですね。「円山・四条派」と呼ばれる以前は、「派」という言い方では、「江戸派」に対して「京派(=京都派)」という、地域を指す呼び方がされていました。そして「京派」と括られる作家のほぼ9割が、円山応挙に始まる人たちを指したんです。

円山四条派・主要画家の系譜

─── まさかその当時「円山・四条派」と呼ばれていなかったとは。ではいつ頃その言葉が使われるようになったんですか?

 「円山・四条派」という言葉とその概念が一致するのは、明治15年の第1回内国絵画共進会まで待たねばなりません。この頃、「浮世絵派」「狩野派」という言い方と同等に扱う括りとして、「円山派」あるいは「円山・四条派」という言葉を、国が作り出した。区別するために必要だったということです。
 江戸時代にその言葉はまずもって使われていない、というのが実際のところ。実はとても定義するのが難しいんです。

─── 後に定義されるというのは、「奇想の系譜」とちょっと似ているように感じます。

 似ていると思います。いま世の中は伊藤若冲をはじめとした「奇想の系譜」が大流行中ですが、「奇想の系譜」も、後世、辻惟雄先生によって名付けられたもの。だからいま現在、“どうして「奇想の系譜」と名付けたのですか?”と名付け親に聞き、答えをもらうことができるけど、残念ながら「円山・四条派」は名付けた人々がもういないので、その当時にどういう定義づけでもってこの言葉が生み出されたか、という詳細をその人たちの口から聞くことはできません。
 しかしこの明治15年に名付けられた経緯など詳細は展覧会の公式図録に書きましたので、ぜひそちらを読んでいただければと思います(笑)。

POINT②
中心人物、円山応挙と呉春を知る

─── 本展では「すべては応挙にはじまる」というコピーが使われていますが、円山応挙とは一体どんな人物だったのでしょうか。

円山応挙 重要美術品《江口君図》、寛政6年(1794)、静嘉堂文庫美術館蔵 ※東京展のみ前期展示

 先にも言いましたが、応挙というのは非常に革新的な人でした。その頃まだまだ主流であった「狩野派」などの流派にも従わず、アンチテーゼとして独自の写生や描き方などの技法様式を確立しました。そう言うと、反逆者とかはみ出し者とか、気概のある人って思うかもしれないけど、そうではないのが応挙(笑)。一握りの選ばれし人たちだけが絵を楽しむのではなくて、誰もが満足するような絵を描いてやろうじゃないかと思い、そこに徹した人なんです。だから誰もが応挙が描く絵の虜になり、ある意味世の中が一変したと京都の人たちが思うようになった。それが応挙のしたことです。
 そしてその後の人々が、応挙が確立した土台を引き継いでいった。例えばこのように犬を描くと売れます(笑)、というようなことが受け継がれ、「応挙風」の絵が描かれていきました。もちろんそれだけではありませんが。
 しかし、飛び抜けた個性を持つ芸術家というのが「奇想の系譜」の画家だとしたら、応挙はその反対にいる人だった。彼の画風は、強烈な個性で広がっていったわけではないんです。いざ応挙風が確立すると、“あの絵描いたの誰だっけ?”って、誰が描いたとかはいっさい関係なくなってしまう。誰にも馴染んでしまう世の中では、応挙風の絵の作者は空気のようになってしまって、描いたのが応挙であろうと弟子であろうと、模倣であろうと、誰でもよくなってしまうという風潮が生まれてしまったわけです。その上、“うんうん、応挙って偉い人だよね。知ってる知ってる”って人々はその名前を知っていても、“あれ? 何が偉かったんだっけ?”って忘れられていくような人になってしまった。だからいま現在、その評価が実は総体的に低い、というのがとても残念です。

─── では一方で、四条派の祖といわれる呉春という人はどんな人だったんでしょうか?

呉春《山中採薬図》公益財団法人阪急文化財団 逸翁美術館蔵 ※東京展:前期展示、京都展:後期展示

 呉春は別に応挙の弟子ではないですし、応挙風を描いてもいませんでした。呉春には与謝蕪村(1716-84)という先生がいて、呉春には呉春の生き方というか、芸術家としての個性というものがありました。なので、呉春は応挙のように、自身で技法様式を確立したわけではないんですね。蕪村風の絵を求められると描ける、ある意味器用な人だった。ということは、確固たる自分というものがなかったとも言えるわけです。これが私の芸術ですと言えるような追求心や、他の人とは違う自分の様式や画法というものを突き詰めていく、というような態度は持っていなかったとも言えるでしょう。
 そして蕪村亡き後、呉春のもとには、呉春の絵を描いてほしいという依頼が来る。けど、呉春は描けない(笑)。芸術家としての個性はあっても、作品の個性はない……。そこで、さてどうしようかと思った時に、すごいシェアを誇っている円山応挙という人に教えを請うのがいいかなと思って、“自分も一緒にさせてくれませんか?”と、応挙のところに頼みにいくわけです。実際には弟子ではなく、応挙の親友として受け入れられたというような話もあります。

POINT③
奇想の画家たちと円山・四条派

─── この時代、特に応挙と奇想の画家たちの一部(伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪)はほぼ同じ時代を近い場所で過ごしたといわれています。その関係はどのようなものだったのでしょうか。

 彼らと応挙は、根は同じだと思います。
 この時代、例えば中国から輸入した文人画などを得意とした職業文人が現れたり、南蘋派(清から渡来した沈南蘋によって伝えられた画風で、緻密な写生と鮮やかな彩色が特徴)の写実性が輸入されたりなど、新しい絵の動きがたくさんありました。
 でも応挙や若冲たちは、それをそのまま習い、真似て描くのではなく、ある種、日本化させたと言えるのではないでしょうか。それぞれ全然違う方向で、自分の絵というものを描いていたんですね。もちろん弟子である芦雪は、先生である応挙風の作品もたくさん残していますが、確固たる芦雪独自の絵もたくさん残しています。

長沢芦雪《薔薇蝶狗子図》寛政後期頃(c.1794~99)、愛知県美術館蔵(木村定三コレクション) ※東京展:前期展示、京都展:後期展示

 特に応挙の場合は、ただ写すのではなく、モノに、自然に立ち返れと、模倣した絵画の世界ではなく、実際の景色の臨場感を描き出すことに、真正面から取り組みました。

─── この時代はとてつもない力量を持った画家がたくさんいたということですね。

 そうですね。だからよくよく考えてみると、18世紀の京都というのは、本当に百花繚乱だったと思います。しかも町衆にとっても、画家を選び放題の豊作の時代と言ってもいいでしょう。そしておとなしくない人たちが、存分に暴れることができた時代。そういう人が暴れることができたのは、派手ではないものの、しっかりとした応挙という土台があったから。でも応挙だって実はものすごく革新的な人で、時代を変えた一人であったはずなのに、なかなか若冲たちとは並んで語られないのが残念ですね。
 それに応挙と弟子の長沢芦雪の関係を除いて、彼らがどれほど交流を持っていたのか、ということはほとんどわかっていません。まあ蕭白が、「画が欲しいなら自分に頼み、絵図が欲しいなら円山主水(応挙)が良いだろう」と言ったという逸話が残っていますが(安西雲煙 『近世名家書画談』一編、天保元年(1830年)刊)、これも蕭白が言っているだけで、応挙はどう思っていたことか。何かこの時代の彼らの関係性を詳しく示す資料が出てくると面白いですね。

─── では、この当時まだまだ主流であった「狩野派」と、応挙の教えの違いはなんですか?

 「狩野派」は、皆が同じような絵を描かなければならない。粉本があり、代々続く様式、画法は統一され、それを用いて描くのが当たり前でした。しかもその注文主のほとんどが当時の権力者で、それを象徴するようなものを多く制作していました。
 それに対して応挙はそのような手法は取らなかった。もちろん粉本というか、このように描けば売れますよ、このように描けばいいですよということを教えたという意味では、手法は一緒かもしれません。しかし応挙はなんのための、誰のための絵画かという目的を持って制作していましたし、誰も彼もが自分とまったく同じように描くようにとは教えませんでした。画家一人一人の個性を大事にしていたんですね。自由でいいと。
 この時代、社会も大きく変わり、絵を求める側、見る側の姿勢も変わってきたんです。もっと変わったものが見たい、もっと真面目なものが見たい、自分でも発注したいという、さまざまなご要望にお応えする絵師たちが出てきた。それがこの18世紀の京都の画家たちの多様性にも表れていると思います。

PARTⅡへ続く(7/30公開予定)

プロフィール

古田亮

1964年東京都生まれ。東京藝術大学大学美術館准教授。東京藝術大学大学院美術研究科日本東洋美術史専攻博士後期課程中退。1993年より東京国立博物館に勤務、その後、東京国立近代美術館主任研究官などを経て、2006年より現職。専門は近代日本美術史。これまでに「琳派RIMPA」展、「揺らぐ近代」展、「夏目漱石の美術世界」展、「ボストン美術館×東京藝術大学 ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」展、「うらめしや~、冥途のみやげ」展など数多くの展覧会を企画・監修。著書に著書に『俵屋宗達』、『高橋由一』、『美術「心」論』、『横山大観』など。

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