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実写なのにアニメ―ション? 『PUI PUI モルカー』から“ピクシレーション”を考える

リアルサウンド

21/3/4(木) 10:00

 2021年1月から放送開始された『PUI PUI モルカー』(以下、『モルカー』)が大人気である。

 本作は、テレビ東京系『きんだーてれび』にて毎週火曜日の朝に放送されているストップモーションアニメーションだ。各話2分ちょっとの短さながら、内容が濃い。モルモットを車にした「モルカー」の可愛さとどこかシニカルな視線で描かれた人間の行いのギャップが受けているのだろう。渋滞を引き起こしたり、銀行強盗をしたり、車からごみのぽい捨てをする人間たちの姿に、視聴者は「人間は愚か」との感想を漏らしている。

 本作の監督を務めたのは、2018年に東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻を修了したばかりの見里朝希。卒業制作として制作した『マイリトルゴート』が国内外で高く評価された逸材だ。

 本作はフェルト生地のパペットによるストップモーションアニメーション作品だが、一部生身の人間が登場するシーンがある。ご覧になった方はわかると思うが、人間がカクカクとした動きでコマ撮りのような動きをする。

 本連載はアニメーションと実写の境を引き直すことを目的としており、この技法は絶好の題材だ。そこで今回はこの生身の人間をアニメ―トする技法について考えてみたい。このテクニックは実写とアニメーション双方の特性を含むことから両者の境界の曖昧さを示唆してくれるのではないか。

実写素材をコマ撮りするアニメーション技法

 『モルカー』で用いられているこの技法はピクシレーションと呼ばれる。これは生身の人間をコマ撮りする技法のことだ。

 定義を明確にしてみよう。現代美術用語辞典によれば、ピクシレーションとは「人間をコマ撮りすることでアニメーションを作る技法。アニメーションは一般的にドローイングや人形などの無生物を撮影することで運動を創造するが、ピクシレーションは人間をコマ撮りの対象とすることで、高速度撮影やコマ抜きとは違ったかたちでそれを行なう」とある。(※1)

 『モルカー』の生身の人間の登場シーンは実際にひとコマずつ撮影しているのか、それとも通常の撮影映像からコマを抜いているのか、見ただけでは判別が難しい。一定の間隔で抜いているようにも見えるが、ここではとりあえずその真偽は棚上げにして論を進める。いずれにしても、通常の1秒間24コマの映像とは異なる動きを創造している点は変わりない。

 アニメーションとは、広く一般にイメージされているように、絵を動かすものだけを指すのではない。1950年代に「アニメーション映画運動」を先導した批評家のアンドレ・マルタンは、アニメーションの要件を絵であることではなく、コマ撮りによって様々な動きを作りだすことに求めた。故に、コマ撮り対象が絵や人形のような非生物でなくてもアニメーションとなりうる。(※2)

 ピクシレーションという技法を有名にしたのは、カナダの映像作家ノーマン・マクラレンだ。マクラレンは、カナダの国立映画制作庁(NFB)の初代アニメーション部門の責任者でもあった人物で、数々の実験的手法の作品を作ったことでアニメーションの歴史に名を刻む人物だ。フィルムに直接絵を描くカメラレスフィルムや、多重露光、カリグラフィ、切り絵によるアニメーションなど様々な手法を試み世界のアニメーション作家に多大な影響を与えた人物である。

 マクラレンはアニメーションについて「絵を動かす芸術ではなく、動きを描き出す芸術である。コマの間に横たわる見えない隙間を操作する」芸術形式なのだと語ったが、その言葉どおりに彼は絵に限らず、あらゆるものを素材に動きを描き出したのだ。(※3)

 そんなマクラレンのキャリアの中で最も有名な作品が、ピクシレーションで制作された『隣人』という短編映画だ。これは、2組の男が庭に映えた一輪の花を巡って醜い争いを繰り広げる姿を描いた作品だ。ユネスコからアニメーション技術指導のため、中国に派遣された矢先に朝鮮戦争が勃発したことがきっかけで本作の制作をしたそうだが、いつまでたっても争うことを止められない人間の愚かさをストレートに伝えている。(※4)

 『隣人』の本編がNFBの公式サイトで公開されている。観たことのない方はぜひ観てほしい。

Neighbours, Norman McLaren, provided by the National Film Board of Canada

 『隣人』がどのように制作されたのか確認してみよう。(※5)上の完成作品を見れば明らかなように全編実写である。しかし、この奇妙な動きは人物をそのまま撮影・記録しただけでは生み出せないのは明白だ。屋外にコマ撮りモーターがついたカメラを持ちだし、役者に瞬間的なポーズを取らせてひとコマずつ撮影している。本作の最も大きな見せ場となっているのは、役者が空中を浮遊しているシーンだろう。これは、役者がジャンプした瞬間をひとコマずつ撮影している。これを演じた役者は心臓に問題をかかえており、撮影後倒れたともマクラレンは語っている。心臓のことをマクラレンは事前に知らなかったらしい。

 屋外で撮影を行ったため、太陽や雲の移動、木々のざわめきなどにも悩まされたという。よく見ると背景の木々の動きがぎこちない場面や影の動きがおかしいシーンもある。

 本作は基本的にひとコマずつコマ撮りをしているが、ひとコマずつの撮影ではない連続モードでの撮影も行っている。通常の映画の撮影では1秒間に24コマの回転数で撮影を行うが、マクラレンは1秒12コマや6コマ、3コマなどの連続モードの撮影も行っているそうだ。24コマで動いているように思える瞬間もあり、様々なコマ数でどのような動きが生まれるのかを一本の作品で堪能できる。

 『隣人』は明確に反戦的なメッセージを伝える作品だが、マクラレンのキャリアの中ではこうしたストレートにテーマやメッセージを伝える作品は珍しい。評論家の森卓也は『隣人』は最もマクラレンらしからぬ作品だと評しているが(※6)、本来のマクラレンは映像を生み出す手法や動きそのものに興味を持って様々な手法を考案した人物だ。しかし、マクラレン本人は本作を自身のキャリアの中で最も重要な作品と位置付けてもいる。(※7)

 人間の愚かさを描いている点で『モルカー』と『隣人』に共通点を見出してもよいかもしれない。『モルカー』で生身の人間が素材として用いられているシーンは(7話までの時点では)例外なく人間の愚かな行為が描かれている。里見監督はもしかして人間の愚かさを描くためにピクシレーション的な手法が有効だと考えたのかもしれない。

 『モルカー』の技術面でユニークな点は、フェルト人形のモルカーの方が生身の人間よりもコマ数が多いことだ。そうすることで、生身の人間よりも作り物のモルカーの方が滑らかに動いている。一般的には、生身の人間は滑らかに動いて、絵や人形はカクカクとコマ数少なく動くものだと思われがちだが、ピクシレーションによってそれを逆転させている点が、本作の出色な点だ。

 ちなみに、ピクシレーションは実験映画、CMやMVのような短尺の映像の領域では比較的よく見られる。実験映画の要素を商業映画に持ち込んだ大林宣彦監督は、長編映画デビュー作『HOUSE ハウス』や自主映画『EMOTION=伝説の午後=いつか見たドラキュラ』にピクシレーションを用いている。

サイレント映画に似ている『隣人』

 ピクシレーションは実写なのにアニメ―ションだ。一見すると奇妙な物言いである。マクラレンの作品を音楽的な視点から分析した栗原詩子は著書『物語らないアニメーション ノーマン・マクラレンの不思議な世界』でピクシレーションを「実写とアニメーションの二大領域の中間にあるような」手法と書いている。(※8)

 中間と書かれると、まるで実写とアニメーションが分かれた世界に属していて、その間にあるものというイメージだが、果たして本当にそうだろうか。ピクシレーションという手法の発見は、むしろ、この分かれた世界に見える2つは実は共通の土台に属することを示唆するのではないか。すこし回り道をしながらこのことについて考えてみたい。

 ドキュメンタリー映画で知られた羽仁進は自著『カメラとマイク:現代芸術の方法』でマクラレンの『隣人』をこのように評している。

「『隣人』はユネスコの委嘱で作られた映画らしく、平和を呼び掛けているが全部コマ落しで撮影されている。ちょうどサイレント映画を今の映写機にかけると、人物全部がチョコチョコとびはねているように見える。あれと同じ効果が意識して使われて、生きた人間を撮りながら漫画映画のような効果を上げていた」(※9)

 羽仁進は、『隣人』をサイレント映画のチョコマカした動きと似ていると言っている。チャップリンやキートンのサイレント映画時代の映像を見たことがある人は多いと思うが、妙に素早く動いていることにすぐ気が付くだろう。

 なぜ昔のサイレント映画があのような動きになるのかと言うと、かつての映画は1秒間24コマではなく16コマで撮影されていたからだ。

 1秒間24コマで撮影されたものを1秒間24コマで再生すれば、早い動きにはならない。同様に1秒間16コマの映像を1秒間16コマで再生すれば早くならない。しかし、16コマ映像を24コマで再生すれば早き動きになってしまう。16コマの時代に撮影された映像を24コマで再生するからあのようなチョコマカした動きになっているのだ。

 これはマクラレンが『隣人』で行った撮影とも近いものがある。『隣人』ではひとコマずつの純粋なコマ撮りの他、1秒間12コマや6コマなどの速度で撮影している。羽仁進が、『隣人』を昔のサイレント映画のようだと評したのは、実際に似たような原理で作られているという点でそれほど不思議なことではない。実際、多くの人が同じような印象を抱くのではないだろうか。

 ちなみに、『隣人』はなぜかアカデミー短編ドキュメンタリー賞を受賞している。実写映画でもなく、脚本のある劇映画なのにドキュメンタリー賞とは奇妙なことだが、それだけこの技法は実写とアニメーションの境界を攪乱するものだという証左ともいえるかもしれない。

なぜ映画は1秒間24コマになったのか

 そもそも映画はなぜ1秒間24コマになったのだろうか。

 それが自然な動きを記録するのに最も適した数字だから、ではない。むしろ技術的、経済的な理由が大きい。

 まず、サイレント映画時代に1秒間16コマという速度が選ばれた理由はなんだろうか。ジョセフ・プラトーは1829年に発表した研究論文『残像の持続』で彼は、「一秒間に起こった一つの動きを表す16枚の絵が次々と示されれば、視覚の残像効果によってそれは一体と感じられ、元の動き同様のものを近くする」と述べている。だがこれは科学的な論証というより経験則にもとづくものだったのではないかという説もあるようだ。(※10)

 映画の父リュミエール兄弟も様々なコマ数を試したようだ。16コマあれば動くものを見るのに十分と判断したらしい。(※11)

 だが16コマの上映はチラつきが生じる。人間の目がちらつきを感じなくなるのは、1秒50コマほど必要だそうだが、それでは16コマの3倍近くもフィルムを消費してしまう。そこで1つのコマを映写する度に2,3回シャッターを開閉することで、16コマを疑似的に50コマ近くあるように見せ、チラつきを抑える映写技術が開発された。

 それがなぜ24コマになったのかと言うと、音のせいである。16コマ撮影では音を同期させられなかったのだ。アメリカの電流は60Hzであり、カメラと録音機を同期させるモーターを用いて16コマの回転で録音しても満足な音質が得られなかったが、これを24コマで行ったところ、音質が安定したのだという。今日、映画っぽいと言われる1秒間24コマの映像は、映像そのものの良さを追求したのではなく、アメリカの電気事情と音との同期の問題から生み出された回転数だった。(※12)

 映写システムは1秒間24コマになっても、やはりチラつきを抑えるために1コマにつき一度のシャッターの開閉を必要としている。1つのコマの間にシャッタ―を挟めば、疑似的に1秒間48コマのようになる。チラつきを感じさせない50コマに近い数字だったので、これが映画の基準となった。

24コマの「映画っぽい動き」とは何なのか

 1秒間24コマの映像は、一般に「映画っぽい」映像だと感じられる。しかし、この24コマという数字は映像の品質で選ばれたのではなく、音との同期の問題や経済的な理由で選ばれたものである。

 そして、24コマの映像は我々が肉眼で見ている動きの全てを正確に記録しているとは言い難い。

 実写映画で撮影されたフィルムを眺めると、24分の1秒で撮られた連続しているそれらのコマは隙間なく、人物の動きを記録しているかのように見える。しかし、それは歩くなどのゆったりとした動きを撮影した時の話だ。全力で走っている人間を撮影すれば、コマとコマの間の動きが飛んでいるように見える。コマとコマの「間」に本来存在していたはずの動きが欠落している。

 マクラレンいわく、アニメーションとは「コマの間に横たわる見えない隙間を操作する芸術」だ。だが、実写映画にも「コマとコマの間に横たわる見えない隙間」は存在する。では、アニメーションと実写を分け隔てる定義とはなんだろうか。

 「アニメーション映画は実写とは異なる。なぜなら、実写映画はカメラの前で行われる運動を記録し、それをスクリーン上で再生するが、アニメーションにおいては、記録すべき運動は現実において存在しない」。アニメーション研究家の土居伸彰氏は『個人的なハーモニー』でそう記述する。(※13)

 実写映画を「記録性」に依拠して記述するのは、映画理論家アンドレ・バザンが提唱した理論に基づいている。実写は運動の記録で、アニメーションは運動の創造。これは、多くの人も概ね同意できる点なのだろうと思う。アニメーションには記録運動は現実に存在しないという点は筆者も同意する。だが、もう一方の実写は運動を記録するという点は、再考の余地があると思っている。1秒間24コマの撮影は本当に現実を記録しているのだろうか。

 近年、1秒間24コマ以上のフレーム数で撮影された作品が次々と登場している。『ホビット』のHFR(ハイ・フレーム・レート)版は1秒間48コマで上映され、より滑らかな映像を提供する。アン・リー監督の『ジェミニマン』はさら多く120コマだ。秒間のコマ数が多ければ多いほど、撮影された動きは正確に記録され、肉眼で見たものに近くなっているはずだ。しかし、それらの映像は「映画っぽくない」と評されることも多い。(※14)

 しかし、記録性という点ではコマ数が増えたほうが正確さは断然増すはずである。実写映画が記録性に依拠するのであれば、なぜ24コマ以上の動きは「映画っぽくない」のか。それは、我々が24コマに慣れすぎているからなのか、それとも別の理由があるのかはわからない。

 ただ一つ言えることは我々が実写映画だと思って普段見ているものは、肉眼で見る動きとは異なる動きだということだ。それは、正確な動きの記録ではなく、多くの人が「映画っぽい」と感じさせる、「創造された」動きなのだということだ。

 そもそも、運動を記録するとはどういうことなのだろうか。映像とは、どこまで分解しても静止画の連続である。どれだけコマ数が増えようとも、かならずコマとコマの間の隙間が生じる。一瞬の瞬間は写真として記録可能だったとしても、動きを正確に記録することなど本当にできるのだろうか。

 映画の動きはそもそも現実とは異なっているという点に注目する作家がいる。実験映画作家の太田曜は、24コマの映像が現実の記録なのだというのは、ある種の幻想なのだと語る。

「スクリーン上に作られた“見かけの動き”は、現実に見ている“動き”と同じものではない。もっとも、映画を誕生させたエネルギーの重要な部分が“動きの記録再現”であったこともあり、スクリーン上の“見かけの動き”は“記録”された“現実の動き”が“再現”されているものだと普通は考えられている。あるいは、映画を見る行為は既に、スクリーン上で展開している有色の光の明滅と反射は“現実の動きが記録再現されたものだ”という前提を受け入れる、という姿勢を含んでいるのかもしれない」(※15)

 要するに、映画とは、とりあえず24コマで運動が記録・再現できていると敢えて信じることで成り立っているということだ。しかし今日、我々は24コマ以上で記録された映像があることを知っている。

 我々は24コマで撮影されたものを、本当は創造された動きであるにもかかわらず、現実を記録・再現したものとして思い込んでいるだけなのではないか。実写映画が記録の再現ではなく、創造された動きなのだとしたら、我々が実写と思い込んでいる映像もまたアニメーションの一種と言えるのではないか。

 乱暴な物言いをしてしまえば、24コマの実写映画とは、1秒間24コマで構成されたピクシレーションなのでは、ということだ。なぜなら、24コマで現実にはない動きを創造しているのだから。実写映画の運動の記録性が幻想であれば、ピクシレーションの技法のもとに、アニメーションと実写を分ける境界は存在しない。

 だとすれば、全ての映画はアニメーションであると言えてしまうのではないだろうか。一般に思われているように、実写とアニメーションは異なる世界のものではない。全ての映画はアニメーションであり、その広大な映画(=アニメーション)において、特定の動き方と素材を用いた(24コマで現実の動きを撮影した)作品が実写映画と呼ばれているに過ぎなかったのではないか。ならば、既存の映画と呼ばれていたものたちは、随分と狭いところに押し込められていたように思える。全ての映画をアニメーションと定義することで、閉じ込められていた映画の可能性はもっともっと多彩で豊かなものになる。筆者はそんな気がしているのだ。

引用

※1ピクシレーション | 現代美術用語辞典ver.2.0
※2『個人的なハーモニー』土居伸彰著、P64、フィルムアート社、2016年12月25日発行
※3『表象07 特集アニメーションのマルチ・ユニバース』、P68「アニメーションの定義 -ノーマン・マクラレンからの手紙」、土居伸彰訳、月曜社、2013年3月31日発行
※4『フィルムセンター43号』、「ノーマン・マクラレン監督 アニメーション特集 イメージに吹きこまれる生命感・その魔術」登川直樹、P11、1977年11月9日、東京国立近代美術館フィルムセンター発行
※5『コマ撮りアニメーションの秘密 オスカー獲得13作品の制作現場と舞台裏』オリビエ・コット著、賀里 文子/野中 和隆監修、グラフィック社 2018年7月25日発行
※6『FORUM POUR UNE AVANT-GARTE』所収、「ノーマン・マクラレンの小宇宙」森卓也著、P9、アテネ・フランス文化センター、1972年11月9日発行
※7『個人的なハーモニー』土居伸彰著、P128、フィルムアート社、2016年12月25日発行
※8『物語らないアニメーション ノーマン・マクラレンの不思議な世界』、栗原詩子、P12、春風社、2016年2月26日発行
※9『カメラとマイク:現代芸術の方法』羽仁進著、P112、中央公論社、1960年発行
※10『映画技術の側面から見た1080/24Pの必然性と将来性』Noriko Kobayashi、P61、 駒沢女史大学研究紀要、2002年12月号
※11『視覚心理入門』、内川恵二監修、P153、映像情報メディア学会編、オーム社、2009年3月20日発行
※12『映画技術の側面から見た1080/24Pの必然性と将来性』Noriko Kobayashi、P63、 駒沢女史大学研究紀要、2002年12月号
※13『個人的なハーモニー』土居伸彰著、P72、フィルムアート社、2016年12月25日発行
※14「“映画らしさ”とは何か? 一石投じた『ジェミニマン』120/60/24fps上映、全部観た」https://www.phileweb.com/news/d-av/201911/09/48908.html
※15実験映画作家 太田 曜|作品|INCORRECT CONTINUITY解説より(tokyo100.com) http://www.tokyo100.com/ota/works/19.html

参考資料

『季刊ファントーシュ』Vol.1、「世界のアニメーション作家 ノーマン・マクラレンの世界」、ファントーシュ編集室刊行、1975年10月31日発行
『アニメーション入門』、森卓也著、美術出版社、1966年9月30日発行
『アニメーション研究』Vol.02、「ノーマン・マクラレンの映画史的位置」、出口丈人著、日本アニメーション学会編、2000年発行
『Arts and Media』Vol.07、「映像のコマとコマの間に潜むもの -伊藤高志の初期作品を中心に」、松井浩子著、サンエムカラー、2017年7月31日発行
『ファンタスティックアニメーション・メイキングガイド』、昼間行雄編、ソフトマジック、2001年4月25日発行
『日仏アニメーションの文化論』、石毛弓/大島浩英/小林宣之編、水声社、2017年11月20日発行

■杉本穂高
神奈川県厚木市のミニシアター「アミューあつぎ映画.comシネマ」の元支配人。ブログ:「Film Goes With Net」書いてます。他ハフィントン・ポストなどでも映画評を執筆中。

■放送情報
『PUI PUI モルカー』
テレビ東京系『きんだーてれび』にて、毎週火曜7:30〜放送
監督:見里朝希
(c)見里朝希JGH・シンエイ動画/モルカーズ

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