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『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く

リアルサウンド

16/9/8(木) 6:00

新海誠はアニメ界の「鬼っ子」的存在

 新海誠監督の新作アニメーション映画『君の名は。』が、記録的な大ヒットを続けています。公開10日間ですでに興行収入が38億円を突破したといいますから、これはもはや2010年代のアニメ界におけるひとつの「事件」といってよいでしょう。今年の夏はさまざまな意味で「平成の終わり」を実感させられるニュースが相次ぎましたが、まさにアニメ界においても、名実ともにいよいよ「ポストジブリ」の新時代が到来したことを感じさせるできごとです。

 しかも注目すべきは、今回のヒットが、内容的にもスタジオジブリやスタジオ地図(細田守)のように、老若男女、幅広い層から支持されているというよりは、10~20代の若者世代、とりわけ女性層に特化して受けているらしいという点です。この『君の名は。』をめぐる現在の盛りあがりには、ゼロ年代から新海作品を観続けてきたアラサーのいち観客として、いろいろと感慨深いものがあります。

 新海のアニメーション作品を観るうえで、ぜひ踏まえておきたいキーワードがふたつあります。ひとつは、「セカイ系」。もうひとつは、「美少女ゲーム」です。

 このふたつはいずれも、後述するように相互に関係しあっており、いわゆる「ゼロ年代」(2000年代)のオタク系カルチャーの本質を考えるうえで絶対に欠かせません。すなわち、新海誠というアニメーション作家の独創性、新しさを理解するうえでほんとうに重要なのは、かれがゼロ年代という固有の時代、そしてアニメ以外のオタク系コンテンツという固有の領域とが交錯する地点で出現したイレギュラーの才能であり、だからこそ、たとえばジブリ(宮崎駿、高畑勲)から押井守、庵野秀明を経て細田守にいたるような、戦後日本アニメ史の正統的な文脈やレガシーをじつはほとんど共有していない、いわばアニメ界の「鬼っ子」的存在だという事実なのです。結論からいえば、だからこそ今回の『君の名は。』の「歴史的」大ヒットは、一方で、日本アニメ史における大きな「切断」になりうるのであり、また他方で、(ゼロ年代から新海を観てきた男性観客にとっては)新海個人のキャリアにとっても新たな転換点になったと思うのですね。

新海アニメを支える「セカイ系」と「美少女ゲーム」

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 では、まず当時の状況を知らない若い読者のために、文脈を簡単におさらいしておきましょう。

 新海の出世作となった自主制作アニメーション作品第2作『ほしのこえ』(02年)は、今日のアニメ界ではおもに以下の2点において評価されているはずです。第一に、ほとんどの制作作業をデスクトップ上で新海ひとりによって手掛けられながら、高いクオリティをも獲得した新世代のディジタル・アニメーションの金字塔として。そして第二に、いわゆる「セカイ系」作品の代表作のひとつとして、です。

 セカイ系とは、おもにゼロ年代初頭から前半にかけてアニメ、マンガ、ライトノベル、ノベルゲームなどのオタク系コンテンツで流行した固有の物語類型を指す言葉です。それらは、いわば「物語の主人公(ぼく)と、かれが思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的で非日常的な大問題とが、いっさいの具体的(社会的)な説明描写(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」と定義されます。ごく簡単にいえば、「自意識過剰でひきこもりがちの郊外に住むヘタレな男子が、はるか遠くで戦う好きな女の子を思いながら、ウジウジ自分語りする物語」だと思っていただければいいでしょう。

 現代日本のサブカルチャーに決定的な影響を与えた傑作アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(95~96年)の築いたさまざまな物語類型や想像力をダイレクトに受け継いだとされるこれらセカイ系作品は、当時のハイティーンから30代前半くらい、ぼく自身も含まれる、いわゆる「ロスジェネ」と呼ばれた世代の男性オタクたちに強く支持されました(そもそもぼくも22歳のときに執筆し、当時、セカイ系を肯定的に評価していた批評家・東浩紀氏に認められたデビュー評論がセカイ系論でした)。何にせよ、繰りかえせば、新海の初期作品、『ほしのこえ』や『雲のむこう、約束の場所』(04年)はそうしたセカイ系作品を象徴するアニメだとみなされたのです(そういえば、ゼロ年代後半に同世代のライター仲間といっしょに某ミステリ小説専門誌で「謎のむこう、キャラの場所」というタイトルの連載をやっていたのも思いだしました……)。

 さらに、このセカイ系の作品群が流行していたのとほとんど同時期に、同じロスジェネ世代の(まあ、当然ながら)男性オタクたちのあいだで流行していたのが、美少女ゲームというコンテンツでした。

 美少女ゲームとは、ゲームのプレイヤーが視点人物(男性)となって、登場する複数のアニメ調の美少女キャラクターとの分岐ルートごとの恋愛などを楽しみ、しばしばポルノグラフィックな表現や展開も盛りこまれるパソコンゲームです。それらはおもに90年代後半からゼロ年代前半にかけて独自の発達を遂げ、ときに「ギャルゲー」や「エロゲー」とも称されるように基本的にはポルノメディアとしての要素を多く含むものでもありました。ですが、同時にその独特の物語表現やシステムが注目され、これもゼロ年代のサブカルチャー表現に広く影響をおよぼしていきました。

 たとえば、当代屈指のベストセラー作家である西尾維新など、美少女ゲームからの大きな影響を公言するクリエイターも少なくなく、『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書刊)の東浩紀や『不可能性の時代』(岩波新書刊)の大澤真幸のように、美少女ゲームをまじめに論じた著名な知識人も多くいます。そして、知られるように、美少女ゲームやエロゲー、そしてそれらに相当する同人ノベルゲームのライターから出発し、のちに一般向けアニメ作品で傑作やヒット作を生みだす有名クリエイターも数多く登場してきました。『Fate/stay night』(04年)の奈須きのこ、『ひぐらしのなく頃に』(02~08年)の竜騎士07、『魔法少女まどか☆マギカ』(11年)の虚淵玄、そして『Charlotte』(15年)の麻枝准……などなど。つまり、美少女ゲームは、本来はアングラなポルノメディアでありながら――いや、だからこそ突出した才能を生みだした、現代のポップカルチャーの趨勢を考えるときにきわめて重要なコンテンツなのです。そしてつけ加えておきたいのが、アニメ化もされた麻枝の代表作『AIR』(00年)など、「泣きゲー」と呼ばれた一部のギャルゲーはセカイ系作品としてもみなされていました。これが、新海デビュー当時のオタク系カルチャーの「風景」(の一部)です。

 さて、あらためて話を新海作品に戻しましょう。

 ようは新海とは当初、まさに以上のような文脈から登場してきたクリエイターだったのです。作品はセカイ系の代表作と評価されましたし、実際、『君の名は。』公開直後の対談記事でも、かつての自分の作品の観客は「20~30代の男性」が中心だったと話しています。そして、今回のヒットであらためて注目されつつありますが、新海もまた、もともとはほかならぬ「ギャルゲー出身」のクリエイターでした。

 知られるように、かれは大学卒業後、ゲーム制作会社「日本ファルコム」に勤めており、活動初期に、「minori」というエロゲーブランドから発売された『Wind -a breath of heart-』(02年)や『はるのあしおと』(04年)といった18禁ゲームのオープニングムービーをいくつか手掛けています。そして、04年にはさきほどの東氏が刊行した『美少女ゲームの臨界点』という美少女ゲームを扱った同人評論集に、まさに『AIR』をモチーフにした描き下ろし表紙イラストを提供したりしているのです(ちなみに、この同人誌には虚淵玄も登場しています)。

 ともあれ、自身の公式サイトのフィルモグラフィにこうした「ギャルゲー時代」の情報や動画をいまなおアップしていることからも窺われるとおり、新海もまた、アニメ界で一定の認知をえた現在でも自らの作家としてのアンダーグランドな出自を比較的オープンにしています。たとえば、それは『ほしのこえ』公開当時の新海の以下の発言からも明らかです。

 僕がこれまで作ってきたCGアニメーションとか、ギャルゲーのオープニングと全く同じ方法で作ってますので、ルーツという意味ではやっぱりCGとかギャルゲーなのかな、と思っています。
(『アニメージュ』02年10月号)

 いずれにせよ、新海とは本来、アニメではなく、ゼロ年代の「ゲームのひと」、しかも「ポルノメディア」の近傍で活動を開始した作家なのであり、それは当然、東映動画出身の宮崎や細田、破格のオタク的教養人である庵野とはそのスタンスがやはり決定的に異なります(したがって、評論家の飯田一史が『ユリイカ』9月号の論考で鋭く指摘するように、新海を「ポスト宮崎駿」「ポスト細田守」と呼ぶのはおかしい)。これらの一連の事実は、いま、『君の名は。』を観るとき、おそらく非常に重要です。

『君の名は。』の美少女ゲーム的構造

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 ぼくが『君の名は。』を試写で観たときの第一印象は、これは「セカイ系や美少女ゲームといった自らの作家的出自に自覚的に回帰している」と同時に、「それ以降の時代の変化にもうまく乗っている」作品だというものでした。どういうことか。

 まず、『君の名は。』の物語構造や映像表現は、それ自体きわめて「(美少女)ゲーム的」だといえます。たとえば、それは映画の冒頭部分のシークエンスから如実に窺われる。最初にざっと要約すれば、『君の名は。』は、田舎に住む女子高校生・宮水三葉(上白石萌音)と都会に住む男子高校生・立花瀧(神木隆之介)が、時空を超えてかれらの夢のなかで起こる「身体の入れ替わり」からはじまる、いっぷう変わったジュブナイル・ラブストーリーです。時間的にも空間的にも遠く離れたふたりの主人公は、眠っているあいだにおたがいの身体が入れ替わってしまうことに次第に気づきはじめますが、目覚めるといつも、入れ替わっているあいだの記憶はなくしてしまう。

 さて、主題歌とアヴァンタイトルの出たあと、映画はまず、まさに身体が三葉に入れ替わって目覚める瀧を描きだします。二階の自室で朝日にぼんやりと目を開けて起きあがってから、パジャマの下で膨らんだ見馴れない胸元を見降ろすPOVショットが入る。その後、身体が入れ替わっていることに気づいて驚く一連の様子が展開されるのですが、続いて制服を着た三葉が下階の祖母と妹が朝食を食べている居間に降りてくる。ショットは連続しているので観客は最初勘違いするのですが、「お姉ちゃん昨日おかしかったよ」という妹の台詞が入るので、そこは記憶が失われて三葉が自分の身体に戻ったあとの場面だということがわかります。いずれにせよ、以上の冒頭シークエンスのつらなりにも象徴されるように、『君の名は。』の場面展開は総じて、三葉や瀧ら登場キャラクターのいずれかひとりの視点=意識から捉えられた、きわめて「主観的」なショットのみで構築されているのです。これはたとえば、ファンタジー嫌いで知られ、作品のあらゆるシークエンスを徹底して「三人称客観ショット」のみで構成しようとするリアリスト・高畑勲のアニメーションとは対照的な志向でしょう(高畑は新海作品には否定的なはずです)。

 そして、いうまでもなくこの演出は物語のキーポイントである三葉と瀧の身体の入れ替わりにかかわるいわゆる「記憶喪失」のモチーフとも密接につながっています。たとえば、物語評論家のさやわかは、この記憶喪失の主題について、「アニメ」というジャンル特有の図像の記号性に注目して論じていました(「ぼくたちはいつかすべて忘れてしまう」、『ユリイカ』9月号所収)。しかし、ぼくの考えでは、この場合にむしろ類比すべきなのは、どちらかといえば、ほかならぬ「美少女ゲーム」のシステムのほうだろうと思われます。

 さきほども述べたように、美少女ゲームや乙女ゲームを含めたノベルゲームの構造とは、視点プレイヤーの主観ショットから見た画像がディスプレイに表示され、プレイヤーは、背景画のうえにイラストで登場する複数の異性キャラクターとのそれぞれ恋愛ルートを分岐ごとの選択肢を選びながら楽しみ、恋愛が成就(「攻略」)すれば「トゥルーエンド」、失敗すれば「バッドエンド」という結末にたどりつく。その過程でプレイヤーのリニアな物語は何度も「リセット」され、事実上どこまでもループしてゆくというゲーム特有のノンリニアな構造をもっています。

 この、プレイヤーと作中キャラクターの視点が構造的に分離し、遡行的に見いだされる複数の「可能世界」=「世界線」のあいだをループ的/並行的に移行するという物語表現やリアリティは、東浩紀が「ゲーム的リアリズム」(『ゲーム的リアリズムの誕生』)と呼んだもので、ゼロ年代以降、国内外問わず、非常に流行しました。日本のオタク系コンテンツの文脈でいえば、ハリウッド映画にもなったライトノベル『All You Need Is Kill』(04年)や、これも社会現象にまでなったライトノベル『涼宮ハルヒの憂鬱』(03年)、細田守監督のアニメ映画『時をかける少女』(06年)、そして新房昭之監督のアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』などいくつも挙げられます。また、これに関連してゲーム的なリセット=記憶喪失の物語も、同時期に数多く作られました。大ヒットした韓国恋愛映画『私の頭の中の消しゴム』(04年)が典型的ですが、たとえば、『君の名は。』では入れ替わり中のことを忘れてしまう主人公たちがたがいの顔や手に文字でメッセージを書いて伝える姿が描かれていますが、これなどはクリストファー・ノーラン監督の『メメント』(00年)を思い起こさせる細部でしょう(この「表層性」がいかにも「アニメ的」だという解釈も可能でしょう)。

 また、こうした「記憶喪失的」な主題は、作中でほかのところにも認められます。たとえば、三葉の生家である宮水神社で執り行われる豊穣祭の舞いの由来が、はるか昔に起こった大火のためにいっさい失われてしまい、いまは「形だけしか残っていない」のだと説明される設定もまた、いかにも「記憶喪失的」です。また他方で、後半のクライマックスのなかで、三葉が赤い組紐をカチューシャふうに結びなおすシーンが出てきますが、そのルックはぼくの世代のオタクが見ると、おそらくどう見ても涼宮ハルヒを思いだすでしょう。いわばここにもゲーム的構造をもった先駆作『ハルヒ』に対する隠れた目配せが示されているといえなくもありません。

「原点回帰」となった作品

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 いずれにせよ、もうおわかりのとおり、『君の名は。』の物語とは、いわばプレイヤーが感情移入すべき作中キャラクターから見た「可能世界」(世界線)が一回ごとに「リセット」されて幾度もループし続ける、ノベルゲーム的な構造を如実にそなえているといえます。さらにこの見立ては、物語の後半と結末で、瀧が糸守町に軌道を外れたティアマト彗星が落下して町民もろとも死んでしまう運命にあった三葉を、時空を超えて救いだすという展開にそのままつながってゆくでしょう。いわば『君の名は。』とは、ゲームプレイヤーが、ヒロインが死んでしまうという「バッドエンド」の可能世界(ゲームルート)から何度もリプレイを繰りかえして、ふたりが生きて再会する「トゥルーエンド」にいたるまでのゲーム空間だとみなせるのです(こうした想像力は、たとえば今年の「SMAP解散騒動」の謝罪会見でもネタにされたように、かなり一般化しています)。ついでにいうと、『君の名は。』に見られるこれらのゲーム的特徴は、今回、いたるところで新海との交流がフィーチャーされている岩井俊二の作品にも共通しています。じつはこれは拙著『イメージの進行形』(人文書院刊)でもすでに書いたことなのですが、岩井もまたテレビドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(93年)や映画『花とアリス』(04年)など、きわめて「美少女ゲーム的」な構造やモチーフをともなった作品を手掛けているのですね。また、ほかにも岩井と新海は、逆光表現を多用した繊細な映像表現や、音楽の効果的な使い方、あるいはかたや「ミュージックビデオ」、かたや「パソコンゲーム」と、「映画」や「アニメ」とは異なる分野から進出し、成功を収めたという経歴でも共通しているところが多い。

 とはいえ、『君の名は。』はゲーム的、というよりもやはり、あくまでも「美少女ゲーム」のジャンル的記憶を濃厚に背負っているようにぼくには思われます。たとえば、三葉が妹から自分の作った口噛み酒(Twitterでさっそくネタにされているように、この設定自体、なかなかエグいものがありますが……)を売ればいいんじゃないとからかわれた瞬間に、彼女の脳裏に浮かぶいわゆる「JKビジネス的」な広告イメージを挿入する演出などは、少なくともたんなる「爽やか青春ラブストーリーアニメ」という定型からははみだした要素を感じます。『君の名は。』において新海は、だれもが安心して観られるようなファミリー向け作品を志向するジブリや細田アニメならば排除するであろう、セクシャルな演出をあえて避けずに取りこんでいるわけです。

 ともあれ、『君の名は。』をその深部で規定しているのは、新海がその出自としてもっている、ゼロ年代の美少女ゲームのジャンル的想像力だといえると思います。しかも他方で、はるか上空から飛来する巨大な彗星群が、親密でありながらも遠く隔たった場所にいる一組の少年少女の――とりわけヒロインの――運命を引き裂き、かれらのいる「世界の危機」を救うべく主人公が奮闘して成長してゆく――以上のような『君の名は。』の物語は、これも述べたとおり、『星の追う子ども』(11年)、『言の葉の庭』(13年)といった近年の作品とは異なり、明らかにかつての「セカイ系」と呼ばれた初期作品群にふたたび回帰しているともいえるでしょう。その意味で、『君の名は。』は新海が、自身の正統的なアニメ史的文脈からは遠く隔たった特異な創造的出自を意識し、明確に「原点回帰」した作品だということができるのです。

捻れた「国民アニメ」の誕生

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 さて、――にもかかわらず、です。

 今回の空前の『君の名は。』現象が興味深いのは、かつて「10~30代の男性オタク」をおもな消費者にし、しかも男性向けポルノメディアのムービー制作にもかかわっていた新海が、明確にそれらかつての物語的/ジャンル的記憶に「原点回帰」して作っているはずの作品が、セカイ系も美少女ゲームもまったく知らない「10代の女性観客」を中心に、目下、前代未聞の大ヒットを記録しているという事実でしょう。きわめてニッチなファンに向けて、マイナーなジャンルから出発した作家が、ある種の「原点回帰」した作品で、破格のメジャー性=国民性を獲得してしまった。ここには、多くの「捻れ」が潜んでいます。

 実際、たしかに『君の名は。』は、何度も述べたように、物語的にも演出的にも、ジブリや細田アニメのような「国民的アニメ」「ファミリー受け」を明確に志向していない。また、かつてのぼくたち若い男性観客が支持したセカイ系的な世界観や設定も多く含んでいる。にもかかわらず、これもまたたしかに、他方でぼくは『君の名は。』を観たとき、決定的な違和感も覚えました。本作は表面的にはセカイ系的でありながら、しかしどこかセカイ系とは違う。

 それはおそらく、主人公の瀧がセカイ系的ヘタレ男子――『雲のむこう』の浩紀や『秒速5センチメートル』(07年)の貴樹などを思い浮かべてください――とは異なる、いかにも「ポストゼロ年代的」な主体的に行動し、運命を変えていこうとする「リア充的」なキャラクター像に変えられているからです。実際、こうしたモデルチェンジは、近年のオタク系コンテンツではしばしばありました。たとえば、『秒速』のセカイ系非モテ主人公・貴樹と『君の名は。』のリア充主人公・瀧の違いは、旧『エヴァ』の主人公・碇シンジと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(09年)のシンジのキャラチェンジにぴったり対応しているといえます。だからこそ、『君の名は。』はまぎれもなくセカイ系的なアニメでありながら、どこかかつて観たものとは違う、セカイ系ならざるアニメでもあるわけです。ともあれおそらく新海は、こういったマイナーチェンジを細かく積み重ねることで、今回、「ファミリー向け」の作りでなくとも、「国民的」な規模の大ヒットアニメを作ることができると証明してしまった。ここにこそ、『君の名は。』の画期があります。

 『君の名は。』は、かつての宮崎の『風の谷のナウシカ』(84年)のように、あるいは庵野の『新世紀エヴァンゲリオン』のように、日本アニメ史の何かを確実に変えてしまった。しかし、それは何かの継承というよりも、むしろ決定的な「断絶」です。日本アニメ界の「鬼っ子」新海が作った新作は、文字通り日本アニメの完全な「鬼っ子的」傑作になりました。そして、おそらくはこの「鬼っ子」=例外が「オリジン」=起源となる、新たな日本アニメ史がこれから立ちあがってくるのだろうとぼくは思います。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部助教。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

■公開情報
『君の名は。』
全国東宝系にて公開中
声の出演:神木隆之介、上白石萌音、成田凌、悠木碧、島崎信長、石川界人、谷花音、長澤まさみ、市原悦子
監督・脚本:新海誠
作画監督:安藤雅司
キャラクターデザイン:田中将賀
音楽:RADWIMPS
(c)2016「君の名は。」製作委員会
公式サイト:http://www.kiminona.com/

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