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デヴィッド・ボウイに人々が惹きつけられる理由 不世出のアーティストは変容と連続性の間を生きた

リアルサウンド

17/1/13(金) 17:00

 2016年1月10日にデヴィッド・ボウイが亡くなってから1年が過ぎた。彼が脚本に参加し曲を提供したミュージカル『ラザルス』のサウンドトラックや、新たなベスト『レガシー〜ザ・ヴェリー・ベスト・オブ・デヴィッド・ボウイ』が最近リリースされたほか、彼の関連書籍が続々刊行されている。また、2013年にイギリスで話題になった回顧展『DAVID BOWIE is』が日本でも今年、彼の誕生日である1月8日から都内で開催されている(4月9日まで http://davidbowieis.jp/)。

 さらに、ボウイのバンドに参加した歴代ミュージシャンが集まり、彼の曲を演奏するツアーを始めており、2月2日に来日公演を行う(http://celebratingdavidbowie.jp/)。これには、田島貴男(ORIGINAL LOVE)、吉井和哉(THE YELLOW MONKEY)、三船雅也(ROTH BART BARON)の参加も決定している。同ツアーにも参加するザッカリー・アルフォードを自分のバンドのドラマーに起用している布袋寅泰もそうだが、ボウイから影響を受けたアーティストは日本にも多い。DAIGOが初期に「DAIGO☆STARDUST」と名乗ったのも、ボウイの代表作『ジギー・スターダスト』に由来する。

 奇矯なメイクや衣裳で注目された1970年代前半のグラム・ロック時代。電子音楽やエスニックなリズムを導入して実験した1970年代後半のベルリン時代。『レッツ・ダンス』をヒットさせ広く親しまれた1980年代。成熟した姿を見せつつも、インターネットの活用や遺作『★』での現代ジャズとの対峙など、最期まで前進し続けた後半生。一つのところにとどまらず、過去とは違う方向性を求め、変容し続けた彼の姿勢は、次世代のアーティストに刺激を与えてきた。

 音楽だけでなく映画、演劇、パントマイム、絵画などに取り組み、文学や美術もよく知るボウイの表現は、ポップ・ミュージックにしては難解に感じられる時もあった。だが、同時に彼は、秀でたヴィジュアルを持つアイドル/スターであった。複数の顔を持っていたのだ。日本で彼の知名度が一般レベルまで拡大したのは、大島渚監督の下で坂本龍一やビートたけしと共演した映画『戦場のメリークリスマス』が公開され、『レッツ・ダンス』のツアーで3度目の来日を果たした1983年のこと。それ以前からカルト的な支持を得ていた彼は、ダンサブルでわかりやすい同アルバムによってこの国でもよく知られる人気者になった。

 ボウイは、両性具有の宇宙人といったキャラクターを演じていた1973年に初めて日本公演を行っている。当時は「出火吐暴威」と漢字で書かれた衣裳を引き抜いて早変わりする歌舞伎風の演出も見せていた(衣裳は山本寛斎のデザイン)。この時代以後の少女マンガには、ボウイ風に描かれた美形キャラクターが散見されたし、マンガ家のなかでも大島弓子が熱心なファンだったことが知られている。

 二度目の来日は、鋤田正義撮影のポートレイトがジャケットになった『ヒーローズ』発表後の1978年だった。同年には後にやおい、ボーイズラブ(BL)と呼ばれるようになったカルチャーの源流といえる雑誌『COMIC JUN』(3号から『JUNE』に改題)が創刊されていた。同誌では、女性向けに創作された男性同性愛マンガ・小説が掲載されたほか、映画界や音楽界の美形を紹介しており、そこではクイーンやジャパンなど洋楽も登場した。なかでも扱いが大きかったのがボウイであり、来日直前の第2号には写真を集めた4頁のコーナーが設けられ、第3号の裏表紙には『ヒーローズ』のツアーを収録したライブ・アルバム『ステージ』の広告が掲載されていた。

 そして、1980年に「宝焼酎純」のCMに出演し、CM用に作ったインストゥルメンタル「クリスタル・ジャパン」を日本限定発売したといったエピソードを経て、1983年の大人気に至ったわけである。そのように少女マンガ、BL的文化圏での受容があったうえで、日本兵の坂本龍一が捕虜であるイギリス兵のボウイに心を惑わされ、頬にキスされて気絶する『戦メリ』が公開された。二人ともまだ若く、美形だったし、インパクトは大きかった。

 ボウイが、草創期のBL的文化圏で興味を持たれたのは、1972年の雑誌インタビューで「僕はゲイだ」と発言したことが伝わっていたためでもある。彼は女性と結婚し、子ども(映画監督になったダンカン・ジョーンズ)まで産まれていたから、それはバイセクシュアル宣言と受けとめられた。だが、彼が異性愛者であることはやがて明らかとなり、1992年に再婚した相手も女性(ソマリア出身のモデル、イマン・アブドゥルマジド)だった。後になって過去のゲイ発言を問いただされたボウイは、あれは自分のセクシュアリティを試している時期だったのだと説明している。この発言だけでなく、過去の自分とのズレについて話すこと、説明させられることは、しばしばあった。

 彼は、作品ごとに物語や設定を用意し、次々に異なるキャラクターを演じた。音楽が変容するのと同時並行でキャラクターを交代させたわけで、ゲイ発言もその一環だったと思える。ベルリン時代以降は「私」を表現することが増えたが、役者業にも精を出した彼の芝居っ気が失われることはなかった。また、過去とは違うものになろうとする彼は、グラム・ロック時代末期には引退をほのめかし、1990年のツアーでは以後の過去曲封印を告げている。後者に関しては、ソロからティン・マシーンというバンド活動への移行も絡んでいた。

 とはいえ、ボウイが前言を翻すことは珍しくなく、彼は結局、ソロ活動に戻ったのである。さらに、先の計画をあれこれ語ったのに実現しないということも繰り返した。1969年から2003年までの発言をまとめたショーン・イーガン編『デヴィッド・ボウイ インタヴューズ』を読むと、スランプの期間もあった彼の態度の変遷がわかって興味深い。

 新作ごとに方向性やキャラクターを変化させるのと同時に、過去の曲も演奏し、音楽活動の連続性を保たなければならない。彼は、変容と連続性に引き裂かれそうになる自分に自覚的だった。その種の自覚のありかたは、遡れば、まだ小ヒットを出しただけの段階で、宇宙からやって来たロック・スターと観客の関係を題材にした1972年の『ジギー・スターダスト』にまで遡れる。ロックに憧れていた自分とスターとの距離という内心のテーマが、過去の自分と現在の自分のズレというテーマに移行したように考えられるからだ。

 最初のヒット曲「スペース・オディティ」の主人公である宇宙飛行士は、実はジャンキーだったと歌った「アッシュズ・トゥ・アッシュズ」。さえない青年と華やかなロック・スターを1人2役で演じた「ブルー・ジーン」のビデオ。うっすら髭を生やした熟年のボウイが髪の長い若いボウイの膝に抱かれている『アワーズ』のジャケット。彼は、現在と過去、自分ともう一人の自分の距離を何度もモチーフにした。結果的に最後のツアーとなった2003〜2004年の『リアリティ』ツアーまで、彼はライブでの過去曲演奏は単純な再現ではなく、新曲のモードと釣りあうアレンジにすることを心がけているようだった。変容と連続性のバランスをとろうとしたのだろう。変容を生きた彼を象徴する初期曲「チェンジス」も収録した生前最後のベスト・アルバムが、『ナッシング・ハズ・チェンジド』(なにも変わらない)と題されていたことが、彼の考えかたを暗示している。

 『DAVID BOWIE is』展ではヘッドホンが渡され、映像、衣裳、自筆の歌詞などを来場者が見て回ると、関連した曲や本人のインタビュー音声が自動的に流れる仕組みになっている。音楽と声が次々に耳へ流れ込むことで、彼の変容と連続性を自然に感じとれるわけだ。変わる自分と変わらない自分の両方を誰もが抱えているものだけれど、デヴィッド・ボウイはそれをとてもドラマティックな形で見せてくれた。だから私たちは、彼に惹きつけられる。たぶん、これからも。

■円堂都司昭
文芸・音楽評論家。著書に『エンタメ小説進化論』(講談社)、『ディズニーの隣の風景』(原書房)、『ソーシャル化する音楽』(青土社)など。

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