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大林宣彦、岩井俊二、新海誠、『WAVES/ウェイブス』ーー“明るい画面”の映画史を辿る

リアルサウンド

21/2/20(土) 10:00

宮崎駿が注目していた画面の変化

 2013年、この年に現時点での最後の長編監督作となっている『風立ちぬ』を発表した宮崎駿は、かねてから敬愛し、つい先ごろ亡くなった昭和史家の半藤一利と対談を行っている。NHKの番組でも放送され、『腰抜け愛国談義』という文庫にもまとめられたこの対話のなかで、宮崎は、近年の「画面」に起こっているある変化について語っている。冒頭から長い引用で恐縮だが、該当部分を抜き出してみよう。

宮崎:ウォルト・ディズニーでも、いまはみんなコンピュータでやる3Dのほうに移っています。[…]

 自分たちは長らく、鉛筆やペンで描いたものを、透明のセルに写して筆を使って絵具を塗ってという、ものすごくアナログな作業をしてきました。それがある日デジタルになったんです。色を塗らなくなりました。コンピュータで色をつける。[…]

半藤 そうすると、いまはあんまりお描きになることはないんですか。

宮崎 いえ、描いています。背景は、ぼくらは筆で描く。その背景をコンピュータに取り込んで、その上に乗っかる人物は、その背景を基準にしながら色を決めていくという作業をします。だけど、色を塗ってOKというわけではなくて、絵具で塗ってから、少し調子を上げようとか下げようとかいろいろやるんですね。ですからどんどんコンピュータの精度が高くなって、なんだかよくわからないのですが、ちかごろ画面が妙に明るくなってきたんです。

もう四十年ちかく前に『アルプスの少女ハイジ』というテレビアニメをつくったのですが、画面の背景はほとんど緑色ですから、それをバックに赤い服を着たハイジがチラチラ走っていると、かつてはしっくりと調和して、元気がいい、という印象でした。で、デジタル化に当たってその色を機械に取り込んでみたら、赤そのものが強烈な蛍光色になってしまうんです。もとの色味がすっ飛んで輝いてしまっている。これはちょっとしたショックでした。

ぼくは、機械が乱暴になっているのじゃないかと思うんです。それを見慣れている人間たちは、それをそのまま受け入れますから、近ごろでは渋い画面がなかなかつくれません。色調が激しくなってしまうんです。

半藤 いまの日本人は蛍光色が好きなんですかねえ。

宮崎 だと思います。それは本屋さんに行ってみるとわかる。もう、そこらじゅう蛍光ピンクだらけです。なでしこのピンクじゃなくて、コンピュータがつくっている激しい赤ですね。ぼくなんかは、それが気持ち悪いんですよね。(半藤一利・宮崎駿『半藤一利と宮崎駿の腰抜け愛国談義』文春ジブリ文庫、82~84頁)

 

 ここで宮崎は、アニメーションの制作現場にも広く浸透してきたデジタル工程について触れているが、そこで手描きの背景画をコンピュータに取り込んでカラー調整をすると、「どんどんコンピュータの精度が高くなって、なんだかよくわからないのですが、ちかごろ画面が妙に明るくなってきた」と打ち明けている。そして、「それを見慣れている人間たちは、それをそのまま受け入れますから」、いまの街中の風景も「もう、そこらじゅう蛍光ピンクだらけ」になってきたと指摘している。この国民的なアニメ作家の漏らしたささやかな感慨は、おそらくコロナ禍前後の映画文化の「画面」の変化について考えているこの連載にとって、きわめて見逃せない問題を提起していると思われる。

新海誠と京アニの「インスタ映え」的画面

 まず、宮崎自身もその創作の領域とするアニメーションの分野から考えていこう。

 現代のアニメーションの世界で、宮崎が述べている「コンピュータの精度が高く」なることによって、「強烈な蛍光色」を発する「明るい画面」というと、誰でもすぐに頭に思い浮かぶのが、やはり2010年代の日本アニメを代表する存在となった新海誠と京都アニメーションの作品の作る画面だろうと思う。

 2016年にそれぞれ『君の名は。』と『映画 聲の形』という話題作を揃って手掛けた両者は、アニメーション研究の土居伸彰がすでに指摘したように(『21世紀のアニメーションがわかる本』)、21世紀の新しいアニメーション表現を象徴する存在と評価することができる。すでにしばしば評されるように、新海のアニメーションも、また、批評家の石岡良治の表現(『現代アニメ「超」講義』、107頁参照)を借りればその演出を「コモディティ化」したという京アニのアニメーションも、まさにデジタル技術の浸透が可能としたヴィジュアルエフェクツソフトを用いてデスクトップ上で行われるさまざまな合成処理、いわゆる「コンポジット」(しばしばかつての「撮影」工程と類比される)を活かしたフォトリアルな映像表現を共通の特徴としている。その結果、まさに「明るい画面」への変化を宮崎が指摘した2013年に公開された『言の葉の庭』の画面が典型的なように、新海アニメの画面は、レンズフレアや逆光、広角レンズ、ピントボケなどの実写的なエフェクトと相俟って、情報量が飽和した高精細なイメージがフレームの端までキラキラと光輝くものになっている。このことは、この連載の第2回(参照:プロセスの映画と連続/断絶の問題を考える 『本気のしるし 劇場版』の“暗い画面”が示唆すること)でもすでに指摘していた。

 こうした新海や京アニのような現代アニメーションの「明るい画面」は、やはり2010年代以降のデジタル映像文化を象徴するあるひとつの「画面」をごく自然と髣髴させる。そう、写真共有サービス「Instagram」の「インスタ映え」の写真である。たとえば、第1回でも名前を挙げた写真家の大山顕も、『君の名は。』を劇場で観たときの印象をこう記している。

このアニメーション[註:『君の名は。』]を観てぼくが衝撃を受けたのは、その絵づくりが完全に「インスタグラム風」だった点だ。しばしば逆光によってレンズ内で光が反射してできるフレアが描かれ、クライマックスシーンではCCDイメージセンサーが強い光を受けたときに発生するスミアまでもが描写されていた。言うまでもなく、これはわざわざ描かれたものである。[…]

『君の名は。』のこの描写は、[…]単に「見た目キラキラしてそれっぽい」のを目指しただけだろう。インスタグラムを筆頭とする、ネット上にある「いいね」をたくさん獲得する絵を詰め込んだ印象だ。場面のひとつには、なんとタイムラプスを描写したものまであった。アニメーションでタイムラプスとは倒錯している。よく考えるととても奇妙だが、多くの人はあれを素敵な演出だと感じたことだろう。(『新写真論――スマホと顔』ゲンロン、85~86頁)

 確かに、新海アニメのフォトリアルな「明るい画面」は、現代の若い世代の映像文化を象徴する「インスタ映え」の画面を巧妙に擬態しているといえる。そして、だからこそ、その「明るい画面」のイメージ自体が、宮崎のいうように、ひるがえって「そこらじゅう蛍光ピンクだらけ」(まさにインスタ的イメージ!)の現代の「それを見慣れている人間たち」の感性をもまざまざと映し出しているのだ。

 しかも重要なのは、インスタとの類似もそうだが、そうしたアニメーション表現が単にアニメーションに留まらない、デジタル映像の特徴と深く結びついている点だ。

 たとえば、かたや近現代視覚芸術の研究者である荒川徹は、新海的な画面を「HDR的」だと形容している(「多挙動風景――動く絵画-写真としての新海誠」、『ユリイカ』2016年9月号、青土社所収)。「HDR」(ハイ・ダイナミック・レンジ)とは、アナログフィルムなどの一般的な記録画像と比較してより幅の広いダイナミックレンジ(明暗のグラデーション)のことであり、写真技法としては一般的に、露出の異なる複数枚の写真をコンピュータ上で合成したり、より近年ではスマートフォンの写真撮影機能にも搭載されているものである。

 すなわち、この現代の「明るい画面」の問題は、アニメーションの領域のみならず――もちろん、後述するように、その「明るさ」はアニメーションというジャンルにも深く関わるものなのだが――、Instagram写真を含めた実写などデジタル化以降の映像文化全般に拡張して当てはめられる傾向なのである。

「インスタ/Spotify映画」としての『WAVES/ウェイブス』と『君の名は。』

 実際、新海や京アニといった国内の商業アニメーションという狭い範囲だけでなく、ここ数年の国内外の映画には、これとよく似たような画面を持つ映画がいたるところで目立ってきているように見える。

 ハリウッドの大きな固有名を挙げれば、新海と同様、キラキラとしたレンズフレアをその画面の特徴的なルックとするJ・J・エイブラムスの作品群。それからごく最近の主だった作品タイトルを目についた限り挙げれば、アリ・アスター監督の『ミッドサマー』(2019年)、トレイ・エドワード・シュルツ監督の『WAVES/ウェイブス』(2019年)、そして、ジョージ・クルーニー監督・主演の『ミッドナイト・スカイ』(2020年)といったあたりである。いずれの映画も、フラットな明るさがほぼすべての画面をのっぺりと支配していることで共通している。

 だが、ここまでの議論との繋がりからもっともわかりやすいのは、やはり『WAVES/ウェイブス』だろう。本作は、厳格な父親のもとで育てられたのち、ふとした挫折をきっかけに悲劇に陥っていく高校生の兄とその妹をそれぞれ主人公に2部構成で描かれた青春ドラマだ。ここで特筆すべきなのは、その独特の映像表現と音楽演出だろう。ドリュー・ダニエルズによる本作のカメラは、主人公のアフリカ系の兄妹が暮らすフロリダ南部の街と自然を、流麗なカメラワークとともに鮮やかな蛍光色の色彩で写し取っている。また、本作は、フランク・オーシャン、ケンドリック・ラマー、カニエ・ウェスト、レディオヘッドなどなど、有名ミュージシャンの楽曲群が監督によって事前にリストアップされ、それが物語や個々の登場人物の心情変化の展開にリンクさせられており、プロモーションでは「プレイリスト・ムービー」とまで称されている。

 もう明らかなように、『WAVES/ウェイブス』は、その映像表現においてはInstagramを、音楽演出においてはiTunesからSpotifyにいたるメディアプレーヤーを強烈に意識した、ポストデジタルの感性が散りばめられた映画なのだ(本作がInstagram的なイメージを意識していることは、ポスターや予告編などのパブリックイメージにより濃密に表現されている)。そしてその演出意図は、同様にその映像の「インスタグラム風」を指摘され、あるいは『君の名は。』や『天気の子』(2019年)ではRADWIMPSの音楽とのコラボレーションにより映像を作ったといわれる新海のアニメーションとそっくりそのまま重なるものでもあるだろう。そしてその傾向は、「明るいホラー」と評された『ミッドサマー』や、人類が破局したあとの地球に取り残された男を描く『ミッドナイト・スカイ』でも変わらないだろう。

デジタル環境と結びつく「明るい画面」の映画たち

 『ミッドサマー』は、本来は暗い=見えないことによって恐怖を醸し出すホラー演出を、逆説的に、残酷描写を含めて、それらすべてが画面の表層にあっけらかんと露呈しているところに面白さがある。しかも、『ミッドサマー』の「明るい画面」は、まさにタイトル通り昼も夜もなく、真上からいっさいの地上の影を消すように垂直に降り注ぐ光のように、ポヴェウ・ポゴジェルスキのカメラは、頻繁に人物や状況を真上からの俯瞰ショットや重力を欠いた浮遊感漂う動きで写す。こうした画面やカメラワークは、たとえば前後して日本で公開されたサム・メンデス監督の『1917 命をかけた伝令』(2019年)のように、いわゆる「オープンワールドゲーム」の世界観や画面構成を思わせるところがあった。短くつけ加えておけば、この『ミッドサマー』と『1917』はこのように共通性と対照性が相互に見られる作品になっていて、前者の「明るい画面」に対して後者は全体的に「暗い画面」の映画である。かと思えば、『ミッドサマー』はヒロインの大学生ダニー(フローレンス・ピュー)がうつ症状(パニック障害)を抱えているという設定があるが、ここなどは、連載第2回から第3回にかけて論じた現代映画の「暗い画面」の系譜とメランコリーの問題も窺える(したがって、ピクトリアルな構図も含めて、『ミッドサマー』はラース・フォン・トリアーのうつ映画も想起させる)。

 そして、もうひとつの『ミッドナイト・スカイ』のほうは、コロナ禍の現在にもふさわしい「ポスト人類的」なSF映画であり、また宇宙船にスペースデブリが降り注ぐサスペンスシーンをはじめ、やはり監督・主演を務めたクルーニーがかつて出演したアルフォンソ・キュアロン監督の傑作SFサスペンス『ゼロ・グラビティ』(2013年)を強烈に思い起こさせる作品である。ただ、『ミッドナイト・スカイ』が『ゼロ・グラビティ』と決定的に異なる点は、やはりその映像のレゾリューションの差だろう。

 暗い宇宙空間に浮かぶ宇宙船の真っ白い外壁をなめらかにカメラがよぎって行くシーンがあるが、そこでの宇宙船の機体の表面は、『ゼロ・グラビティ』から格段に解像度がきめ細かくなって描かれている。これもまた、新海や京アニの画面と共通するところがあるが、『ミッドナイト・スカイ』のこうした画面は、本作がNetflixオリジナル映画であることも少なからず関係しているように思う。

 つまりまとめると、2010年代に台頭しつつある「明るい画面」の映画たちは、デジタルコンポジットを駆使した新海や京アニのアニメーションのように、『WAVES/ウェイブス』(Instagram)も『ミッドサマー』(オープンワールドゲーム)も、そして『ミッドナイト・スカイ』(Netflix)も、それぞれ陰に陽に現代の先端的なデジタルツールやコンテンツとの結びつきを感じさせる要素において共通しているのだ。

「明るい画面」のルーツとしての岩井俊二

 ところで、ぼくは、連載第2回で『本気のしるし 劇場版』(2020年)や『呪怨:呪いの家』(2020年)、あるいは『ヴィタリナ』(2019年)といったやはり国内外の注目作を例に、またA・N・ホワイトヘッドやグレアム・ハーマンの哲学を参照して、ポストコロナの2020年代の映画がいっせいに「暗い画面」を目指しているのではないかと論じた。

 おそらく、それはそれである面で正しい。しかし、そこでも述べたように、他方で21世紀以降の映画は、新海誠に代表される「明るい画面」も備えている。とすると、このふたつの異なる画面は、対立するところもあれば相補的なところもあり、双方が複雑に絡みあって、現代映画の新しい「画面」を構成しているのだ。では、ひとまずここでは日本映画史における「明るい画面」と「暗い画面」の系譜をおおまかに跡づける作業を試みてみるとしよう。

 その手掛かりとなるのも、やはり新海誠である。

 新海独特のフォトリアルなアニメの映像表現が、「岩井美学」とまで呼ばれた岩井俊二の映画から多大な影響を受けていることは、岩井の名前が「スペシャルサンクス」としてクレジットされた『君の名は。』以降、よく知られるところとなった。余談ながら、ぼくは『君の名は。』のマスコミ試写に行ったさい、観終わったあとにロビーに岩井がいたのを見かけた。『君の名は。』の初見の印象も、「岩井俊二が好きそうな作品だな」というものだった。

 新海は、岩井の手掛けたアニメーション映画『花とアリス殺人事件』(2015年)のソフトの特典映像のインタビューや、『君の名は。』公開時に行われた初の対談(『EYESCREEM増刊 新海誠、その作品と人。』所収)などで、自身の映像制作キャリアの初期から現在にいたるまで、岩井作品からさまざまな影響を受けてきたことを明かしている。もとより岩井といえば、先ほども触れたように、極端な自然光の逆光と浅いフォーカス、レンズフレア、ハンディカムによる即興的な長回し、独特のフラッシュカット、映像と音楽のアフェクティヴなコラボレーションといった、いわゆる岩井美学と呼ばれる繊細で情感溢れる幻想的な映像表現を、その初期から一貫して作り上げてきた。そして、こうした映像表現が、やはりレンズフレアのような光の表現とスモークを焚いたような淡く感傷的な背景を特徴とする『ほしのこえ』(2002年)以来の新海アニメの映像と驚くほど似通っていることは一目瞭然だろう。21世紀の新海や京アニの「明るい画面」はルーツは、まず1990年代に活動を開始した岩井の「明るい画面」にあったのだ。

 なおかつ、このふたりのあいだには、それに加えてもともと映画以外のメディアの出身という出自の共通性と、同時代のデジタル技術を率先して取り入れてきたという作家的スタンスの共通性が存在する。

 まず前者でいえば、知られるように、岩井はもともとはミュージック・ビデオのディレクターから映像業界に入ったという経歴を持ち(というより、日本でのMV界出身の映画監督の先駆け的存在)、かたや新海はパソコンゲームのオープニングムービー制作からクリエイターとしての活動を開始したという経緯がある。いずれも「映画」ならぬ「映像」や「動画」をルーツに持つ映画作家なのである。

 そして後者のことでいえば、新海の演出がデジタルコンポジットの導入に基づくものであることはすでに触れたし、また彼の出世作である『ほしのこえ』がPower Mac G4、Adobe Photoshop、Adobe After Effectsなどの市販のソフトウェアを用いながら、ほぼ一人で作り上げた本格的なデジタルアニメーションムービーとして業界に衝撃を与えたことも比較的よく知られているはずだ。他方の岩井の場合にせよ、拙著『イメージの進行形』(人文書院)や『1990年代論』(大澤聡編、河出書房新社)所収の論考などで、ぼく自身が何度か繰り返し紹介してきたように、デジタル編集ソフト「Avid」やデジタル音響システム、映画のデジタル撮影を推進したカメラ「HD24p」などのデジタルツールを1990年代から日本映画界で先駆的に活用してきた映画監督だったという側面がある。この連載第1回(参照:“画面の変化”から映画を論じる渡邉大輔の連載スタート 第1回はZoom映画と「切り返し」を考える)で論じた岩井の『8日で死んだ怪獣の12日の物語 -劇場版-』(2020年)も、Zoomを使って製作されていたことも思い出してほしい。そもそもデジカメによる手ブレ撮影やフラッシュカットといった岩井美学と呼ばれた映像表現は――新海アニメのデジタルコンポジットによる風景表現と同様に――撮影機材のデジタル化によって可能になったものだといえる。その意味で、岩井から新海にいたる現代の「明るい画面」の系譜は、映像のデジタル・イノベーションを前提としているのだ。

インスタ的画面とアニメ的画面の「明るさ」

 そして、しばしばデジタル環境は「ポストメディウム」や「ポストメディア」といいかえられるように、メディアがデジタルになるということは、アナログ時代にあったさまざまなメディアやジャンル間の垣根があいまいになり、ひとつのプラットフォームや表現に収斂していくということも意味するとよくいわれる。

 そうした事態は、繰り返すように、ミュージック・ビデオやテレビドラマ、そして一方でパソコンゲームという他ジャンルから映画に進出し、それらのジャンルの表現をハイブリッドに混ぜ込んでいる岩井や新海の経歴そのものに如実に反映されている。しかも、それだけではなく、アニメーションの背景に実写的リアリズムを高精細に取り入れた新海と対照的に、岩井のほうは、マンガやアニメの表現から多大な影響を受け、それを実写映画に取り入れてきたという事実もある。

 もともと岩井は、スタジオジブリの高畑勲の遠縁にあたる関係であり、学生時代は漫画家を目指していた(岩井映画の少女マンガからの影響は、一目瞭然である)。あるいは、2020年にぼくとアニメ批評家の高瀬康司が行ったインタビューのなかでも、岩井は自身の出世作となり、2017年にはシャフトによって長編アニメ映画化もされたテレビドラマ『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』(1993年)について、役者の演技を「アニメっぽく」演出したと語っている(『美術手帖』2020年2月号所収)。ここで注意したいのは、実写映画の場合、Instagramのようなデジタル映像の画面と並んで、まさにアニメの画面も、実写と比較するとはっきりと「明るい画面」だということだ(あの宮崎アニメがまさにそうである)。つまり、現代映画の「明るい画面」の台頭とは、「インスタ的画面」への変化であると同時に「アニメ的画面」への変化でもある。それは、言葉を替えれば、「デジタル的画面」であるとともに「ポストメディア的画面」でもあるのだ。

「明るい画面」の参照元としての大林宣彦と70年代

 デジタル化=ポストメディア化によってもたらされた、インスタ的でアニメ的な新海誠や京都アニメーションの「明るい画面」の映画が、90年代の岩井俊二の映画をルーツに持つことが明らかになった。

 ただ、話はここで終わりではない。

 おそらくぼくたちは、日本映画においてこの「明るい画面」の映画史をもっと遡ってたどることができる。たとえば、そこで重要な意味を担うのが、ほかならぬ岩井とともにこの連載の第1回ですでに取り上げていた大林宣彦の存在である。以下の論述に関しては、すでに「「明るい画面」の映画史――『時をかける少女』からポスト日本映画へ」という大林論としてすでに発表している内容とも一部重複するが(『ユリイカ』2020年9月臨時増刊号所収)、この連載の議論の文脈とも絡めてあらためて問題を整理しておきたい。

 まず、ぼくに限らず、現代映画のアクチュアリティについて考える論者がすでに指摘していることだが(たとえば石岡良治など)、今日の重要な日本映画作品が総じて「大林的なもの」を含む1970年代のいわゆる「角川映画的」な想像力を参照枠にしているという問題がある。

 例を挙げると、石岡の示唆する通り、細田守の『時をかける少女』(2006年)にせよ新海の『君の名は。』にせよ、角川映画時代の大林映画を参照しているし(『君の名は。』の場合は、『転校生』+『時かけ』)、『シン・ゴジラ』(2016年)や「エヴァンゲリオン」シリーズ(1995年〜)の庵野秀明が『犬神家の一族』(1976年)に始まる「市川崑的なもの」に目配せを送っていることも知られている。

 そもそも角川映画自体が、近年の日本映画史研究やポピュラーカルチャー論で急速に再評価の機運が高まっている。それは、大林とも親交の深い評論家の中川右介がそのよくまとまった角川映画のノンフィクション(『角川映画1976-1986』)で整理するように、巷間よくいわれるメディアミックス戦略だけではなく、「製作委員会方式」、「テレビ局が出資する映画製作」、「アイドル映画」などなど、現在の日本映画界を規定する主要な産業システムやプロモーション戦略、ジャンルなどがほとんどすべて角川映画をルーツとしていることによっているだろう。ともあれ、そうしたなかで、庵野とともに市川崑も熱烈にリスペクトする岩井が、同時にこれも連載第1回でも触れたが、大林にも大きな影響を受けていることは注目すべきである(ちなみに、のちに『時かけ』をアニメ化する細田守も、大林唯一のアニメーション映画監督作『少年ケニヤ』[1984年]のスタッフ募集に応募している。そして、同作が興行的に大敗を喫したのが、宮崎の『風の谷のナウシカ』[1984年]でスタッフには庵野が参加していたのだった……)。

大林の「CM的」画面から辿る「明るい画面」の映画史

 しかし、ここまでの論述を踏まえれば、岩井が大林の創造的系譜に連なっているのは、きわめてわかりやすい。

 というのも、既出の拙論でもすでに論じたことだが、商業映画デビュー作『HOUSE ハウス』(1977年)以降の大林映画は、まさに同時代の日本映画のなかでも飛び抜けて「明るい画面」を備えていたからだ。たとえば、『HOUSE ハウス』は、作中のキャラクターのうしろを舞台の書き割りのように奥行きを欠き、目の覚めるほどの原色に彩られた背景が取り囲み、それが奇妙な平板さの印象を湛えている。そのフラットさの印象は、晩年のいわゆる「戦争3部作」(2012年〜2017年)や遺作の『海辺の映画館 キネマの玉手箱』(2020年)まで一貫していた。こうした大林映画の「明るい画面」が、テレビアニメ『ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-』(2020年)の画面と似ていることは前回指摘した。(参照:『ヒプノシスマイク』の“明るい画面”はメランコリーを象徴? 現代アニメ文化における高さ=超越性の喪失

 ともあれ、ときに「カタログ的」だったりときに「オモチャ箱」だったりといった言葉で形容されてきた大林映画ののっぺりとした「明るい画面」はいったい何に基づいていたのか。

 知られるように、映画監督進出以前の大林は、学生時代は自主映画や実験映画の旗手、それからテレビCMディレクターの草分け的存在として活躍していた。つまり、大林的な「明るい画面」とは、いいかえれば80年代当時、数多くの映画批評家が大林について評したように、「映画」ではない、「テレビ的」な画面なのであり、「コマーシャル的」な画面なのである。たとえば、『時かけ』の公開当時、映画評論家の黒田邦雄は、やはりこの作品をコマーシャル・フィルムの表現になぞらえながら、「CFというのはメッセージを正確に伝えることがまず必要だから、決してあやふやなものがあってはならない。[…]角川映画はこれらの要点を実によく守っており、この「時をかける少女」も、まさにそうなのである」(「<モラルの映画>角川映画考」、『キネマ旬報』1983年7月下旬号、65頁)と記していた。テレビやCMの映像表現は、映画館のスクリーンと違って、明るい日常空間のなかで何かをしながら画面を観る視聴者のアテンションをできる限り集め、なおかつ情報を正確かつ端的に伝達しなければならない。そのために、その画面は明るく、またそこにこめられる情報は単一で簡潔なものに集約されることが求められる。大林的なフラットな「画面」とはまさにそういうものだった。

 そして、その「映画」の外部のジャンルやメディアの文脈を映画のうちにハイブリッドに持ってくる作家的スタンスは、いうまでもなく彼に影響を受けた後続世代の岩井や、さらにそのあとの新海や京アニの「明るい画面」にもはっきりと共通する要素なのである。なおかつ、ここには「映画とはアニメーションである」と喝破し、敬愛する手塚治虫の『ブラック・ジャック』(1973年〜1983年)を大胆に実写映画化(『瞳の中の訪問者』)し、『ねらわれた学園』(1981年)や『海辺の映画館』にも俳優として出演したことのある手塚の長男である映像作家の手塚眞にマンガのコマ割りに喩えられた大林の演出センスもまた、岩井や新海の登場をはるかに予告していたといえるのだ。

テレビ批判としての「暗い画面」の映画史

 大林宣彦=角川映画以降の、ここ40年近くにわたる現代日本映画史の「明るい画面」の系譜が、おおまかに見えてきたのではないだろうか。それでは、こうした系譜を、従来の日本映画史の見取り図のなかに、どのように位置づければよいのだろうか。

 これもすでに別稿の大林論で簡単に論じたように、そのためには、映画批評家の赤坂太輔の近年の議論がきわめて参考になる。というのも、赤坂は、まさに大林の「明るい画面」がそのルーツとする「テレビ的」な画面と対比される、いわば「暗い画面」の現代映画史を描き出しているからだ。

 赤坂は、海外を含む現代映画史の姿を、一種の「メディア批判」の格闘の歴史として綴っている。彼が「優れた「現代映画」」と呼んで評価する数々の作品群がそこで批判的に対峙しているとされるメディアとは、より具体的にいえば、まさに大林から新海までが影響を受けた映画以降の映像メディア――すなわち、テレビとデジタルデバイスである。赤坂は、メディア=テレビと「優れた「現代映画」」とを、つぎのように対比してみせる。

メディアは観客をフレーム内に閉じ込め、優れた「現代映画」は観客をフレーム外に解放する。例えばテレビは音源を特定できない音声を排除し、フレーム外空間を消去する。[…]メディアは目前の映像に書かれ聞かれる文字情報へと目と耳を誘導し、フレームやアングルはそれらに奉仕するために定められ、距離や時間それ自体は忘れ去られる。[…]今日のデジタルカメラの軽量化は、現在のメディア映像の作り手に全てを可視化・現前化できると思い込ませる。移動やパンが容易でリモートコントロールのクレーンやドローンなどを多くのカメラが使えるなら、目前の画面の脇にある空間は視聴者の意識に上らなくなり、視聴者は操作されたフレーム内に安心して視線を集中することができる。(『フレームの外へ――現代映画のメディア批判』森話社、13~14頁)

 赤坂によれば、映画以降のテレビやデジカメやドローンの送り出す映像たちは、「フレーム外空間を消去」して「観客をフレーム内に閉じ込め」、「全てを可視化・現前化できると思い込ませる」ものとしてある。つまり、すべてをわかりやすく一元化された「明るみ」のもとに曝けだしてしまうのが、今日のテレビ的画面というわけだ(今日のニュースやテレビバラエティの演出で日常化しているテロップの挿入を思い浮かべてもらえればよいだろう)。いわゆる撮影所システムの衰退と入れ替わるようにして台頭してきたテレビ的な映像文化の大勢は、こうした「フレーム外空間」=「不可視の暗さ」を漂白し、わかりやすいフラットな「明るさ」のもとに観客/視聴者を閉じ込める画面になっていると、赤坂は要約する。

 そして返す刀で、赤坂は、戦後から現代にいたる日本の優れた映画作家(シネアスト)たちは、こうしたテレビの台頭とともに撮影所システムの凋落を同時代的に体験しながら、対照的に、みないちようにそうしたテレビ的な「明るい画面」に果敢に「抵抗」し続けたのだと論じる。

このように全盛時の撮影所で活躍し一九七〇年代を迎えたさまざまなジャンルの日本映画作家たちの映像は、主要娯楽メディアとしての地位をテレビに明け渡し、撮影所の倒産や縮小、テレビを生業とするスタッフや技術の交代、黒白からカラー撮影へと変化する中で、メディアの一部としてさまざまな形で「わかりやすさ」を目指す明るくクリアな画面と文字情報への従属に対する「抵抗」を、観客にとっての「見えにくさ」や闇として示すことになった。一九七〇年代の優れた日本映画は、そうした「抵抗」のドキュメンタリーなのである。(前掲『フレームの外へ』、192頁)

 大島渚、松本俊夫、鈴木清順、加藤泰。赤坂が名前を挙げる監督たちは、およそ1970年代の日本映画のさまざまな場所で、こぞって「明るくクリアな画面」に「従属」していく映像メディア文化の内部で、いうなれば「「見えにくさ」による情報化批判」(赤坂)の試みを同時多発的に実践していたのだった。そして、そのいとなみは、ビデオからテレビゲーム、そしてインターネットから動画サイトが登場する1980年代から21世紀の現在にいたるまで、相米慎二、勝新太郎、黒沢清、北野武、青山真治、堀禎一……といった「優れた『現代映画』」作家たちによって、連綿と引き継がれていったと整理される。

 つまり、赤坂はいわば「暗い画面」=「見えにくさの倫理」とでも呼ぶべき現代映画史観を手広く描いてみせるのである。多少、現代思想的な註釈をつけておけば、ここで赤坂が主張する「メディア批判」=「見えにくさ」とは、ようは1980年代あたりの表象文化論やメディア批評の分野でよくいわれていた「表象不可能性」の問題のことだろう(たとえば、赤坂のいう「メディア」と「現代映画」の対比は、蓮實重彦の「物語」と「小説」や柄谷行人の「特殊性」と「単独性」などの対概念と相同的である)。そして、たとえば黒沢清監督の『スパイの妻<劇場版>』(2020年)など、彼らのごく近作を観てみても、(黒沢の新作も、ある種の「密室」の映画だったが)確かに赤坂のいった問題系は引き継がれているように見える。

オルタナティヴとしての「明るい画面の映画史」の可能性

 そして、赤坂が出している映画監督たちの固有名に窺われるように、これまでの映画批評では、撮影所システムの時代からの映画史的記憶を重視し、大文字の「シネマ」の理念を信奉する批評家たちは、赤坂のいう「暗い画面」=「見えにくさの倫理」に準じる/殉じる映画作家を一貫して擁護し続けてきたわけだ。

 さて、もうここで示されるべき風景は明らかだろう。

 すなわち、赤坂がここで「優れた「現代映画」」との対立軸において批判的に対象化する「メディア」の特徴とは、先ほどの黒田の大林=角川映画評をそっくりそのまま反復している。つまり、「暗い画面の映画作家」たちがテレビ的画面のフラットさに対抗して先鋭的な映画を作り始めたのとほとんど同時期に、まさにテレビ草創期のCMディレクターという「映画」の外部から出発し、底抜けに「明るい」、「アニメ的」な「画面」を半世紀以上ものあいだ一貫して作り続けた大林と、それ以降の岩井や新海の現代映画の系譜とは、赤坂が描き出した「暗い画面の現代日本映画史」と対極、あるいはオルタナティヴにあったものなのだ。

 そして、だからこそ、これもよく知られるように、大林もその「チルドレン」を自認する岩井俊二も(ついでにいえば彼らの想像力と密接に結びつく角川映画も)、彼らの作る作品は、同時代の映画批評家たちから「こんなものは映画じゃない」と長らく否定的に評価され続けてきたのだ。しかし、そんな彼らの「画面」は、いまや『君の名は。』の新海誠やInstagramのそれへと連なっているのである。

 まとめよう。ぼくたちは、おそらくポスト撮影所システム時代の現代日本映画に、「明るい画面の映画史」と「暗い画面の映画史」という2種類の潮流を仮説的に見出すことが可能だ。

 そして、これまでの映画批評で相対的にポジティヴに評価されてきたのは、おもに後者のほうの作家や作品だった。しかし、前者の系譜は、いってみればそうした古典的な「シネマ」の理念や慣習をポストメディア的に撹乱してみせる「ポストシネマ的」とでも呼べるような創造性の、重要な起源のひとつとしてみなせるのではないだろうか。

 そのささやかな傍証となるかどうかわからないが、最近のぼくが感じることでいえば、ここにはまさに赤坂のような表象不可能性の問題とも馴染み深い映画批評家・蓮實重彦の仕事の変化が挙げられる。近年の蓮實の仕事や主張に明らかな態度変更が見られることをぼくはかねてから指摘してきたが、それはここ最近彼が出した新著からもますます如実に感じられた。

 たとえば、蓮實にとって初の単著の新書となった『見るレッスン――映画史特別講義』(光文社新書)では、「とにかく、ごく普通に映画を見ていただきたい。[…]もっぱら自分の好きな作品だけを見つけるために、映画を見てほしい」(3頁)と読者に鷹揚に語りかけている。ここには、あの「あなたに映画を愛しているとは言わせない」(蓮實のウェブサイト名)と喝破したかつての「深さ」はなりを潜め、代わってあっけらかんとした(蓮實らしからぬ)「フラットさ」(浅さ)が露呈している。また、前後して刊行されたジャズ評論家・瀬川昌久との対談集『アメリカから遠く離れて』(河出書房新社)では、これまでほとんど言及されることのなかった音楽やアニメ(!)について語っていたりするのだ。こうした蓮實の態度変更にも、どこか「明るい画面」のパラダイムの全景化と関係するものがあるような気がしてしまう。

 さて、蓮實論はまた別の場でゆっくり再開するとして、もちろん、ぼくもまた、「暗い画面の映画史」の系譜の重要性を低く見積もるわけではない。しかし、批評家として、21世紀の映画や映像文化の動向を考えるときにより興味深く、賭けてみたいのは、「明るい画面」のほうである。この連載ではこれ以上深くは論じられないが、今回名前を触れた大林や岩井、新海、庵野、市川崑といった監督以外にも、おそらく川島雄三や岡本喜八、中平康、実相寺昭雄……といったひとびとがこちらの系譜に含まれるように思われる。こうした観点から、従来の日本映画史の見取り図を刷新することも可能だろう。そして、今回、論じてきたように、この「明るい画面の映画史」は、ぼくの見立てでは、おそらく海外の映画史にもある程度当てはまるものだと考えられる。

 ……というわけで、今回は、宮崎と半藤の対話を導入に、「明るい画面」と「暗い画面」の対比を歴史的視野からかなり踏み込んで輪郭づけてみた(そういえば、このふたりが揃って私淑した司馬遼太郎も、「明るい明治」と「暗い昭和」の対比を終生描き続けた作家だった……)。だが、連載第2回で論じた現代の「暗い画面」の映画は、今回見た「暗い画面の映画史」とどのように関係するのか。あるいは、大林的な「明るい画面」と新海・京アニ的な「明るい画面」のあいだに差異はあるのか、など、積み残した問いもいくつかある。

 次回は、ここまで論じてきた議論を総括的にまとめて、半年間にわたった連載を着地させたい。

■渡邉大輔
批評家・映画史研究者。1982年生まれ。現在、跡見学園女子大学文学部専任講師。映画史研究の傍ら、映画から純文学、本格ミステリ、情報社会論まで幅広く論じる。著作に『イメージの進行形』(人文書院、2012年)など。Twitter

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