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『エウレカセブン』劇場版3部作としてなぜ今リブート? 作品のテーマと革新性を評論家が徹底解説

リアルサウンド

18/11/8(木) 15:00

 映画『ANEMONE/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』が11月10日より公開される。本作は、2005年から2006年にかけてテレビ放送された『交響詩篇エウレカセブン』シリーズの最新作で、2017年秋より開幕した『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』第2弾作品。監督・京田知己、脚本・佐藤大、キャラクターデザイン・吉田健一のオリジナルスタッフが集結し、さらに新メカニックのデザイナーとして、ニルヴァーシュのデザイナーである河森正治が参加している。TVシリーズにも登場する少女アネモネを主人公とし、亡き父、そしてエウレカとの関係を中心に描かれる。

 リアルサウンド映画部では10月上旬に『エウレカセブン』シリーズに関するアンケートを行い(現在は受付終了)、読者から、TVシリーズや、昨年公開された『交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション1』、『ANEMONE』を対象にコメントを募集した。今回は、そのコメントをもとに、『エウレカセブン』シリーズに精通する物語評論家・さやわか氏にインタビュー。『ハイエボ1』のリブート作品としての作り方、『ANEMONE』への期待(なおインタビューは本編完成前に実施)、シリーズを通したテーマ性や音楽との親和性について、作品解説をしてもらった。(編集部)

■『エウレカセブン』の根底にあるのは、新しさへのチャレンジ

ーー『ハイエボ1』は新規カットとTVシリーズのカットが再構築された映像でした。『エウレカセブン』の新作が観られる喜びがあった一方、時間軸がシャッフルされており、読者からは「時系列が混乱する構成だった」というコメントもありました。

さやわか:この作品はカットアップ的な手法です。あえて読み切れないほどにテロップが入っていたり、情報量を過多にして、時系列も複雑にさせています。シークエンシャルな流れがある話だと思って観ると、そうではないから混乱してしまう。やっぱり『エウレカセブン』は過去のサブカルチャーや音楽が持っている技法そのものを作品に適用しているところがあり、カットアップやサンプリングも、作品の根底にある思想と繋がるように思いますね。同じ物語だけど、まったく違う見た目になるよう解体して再構築していているのが面白い。『ハイエボ1』では、やはりレイとチャールズですよね。テレビと同じ映像を使いながら、あのビームス夫婦がクローズアップされるようにするという発想がいいなと思いました。あと、前半30分のサマー・オブ・ラブはとにかく圧倒的でした。

ーー『ハイエボ1』では、サマー・オブ・ラブ以前の様子が描かれました。「サマー・オブ・ラブは満点の出来」など、賞賛の声も多く届いています。

さやわか:そうですよね。劇場アニメーションでは、冒頭に派手に動くカットを配置するのは定番でもありますし、実際、その期待に十分応える出来だったと思います。映像面では、情報生命体であるコーラリアンと戦うシーンが滑らかに連動していて、アクション映画やSF映画がやるべき気持ちよさみたいなものに挑戦している。また、デザインワークもよくて、コーラリアンという異質なものとロボットとの対立が、デザインそのもので表現されています。それに対抗する手段であるシルバーボックスが花のように開くのも素敵です。動きを美しく見せるために3DCGの様々なノウハウを投入しており、「このパートは絶対にカッコよく作るしかない」というクリエイターの気概を感じました。

ーー『エウレカセブン』シリーズにおいて、サマー・オブ・ラブという事象は何を象徴しているのでしょうか?

さわやか:サマー・オブ・ラブというのは、言ってみれば20世紀までに我々が現実として経験してきたような、過去の戦争を象徴するものだと僕は解釈しています。今を生きる僕らにとっては過去の出来事ではあるけど、改めて考えると、今に繋がる問題の核がここにあるんだよね、という。だから『エウレカセブン』の世界で起こっている紛争や人種差別の問題は、今観ても非常にアクチュアルなテーマだと思います。「ねだるな、勝ち取れ、さすれば与えられん」というのも、「欲しがりません勝つまでは」と対になる言葉のようにも思えますし。しかし一方で、アドロックという人間も、過去のロボットアニメや過去の日本、世界、あるいは情報化が過度に進んでいない古き良き世界を象徴しているように思わせる。そこから前に進もう、というのが『エウレカセブン』らしさですよね。

ーーそして物語としてはレイとチャールズの夫妻にスポットが当たると。

さわやか:レントンと家族になる2人が魅力的に描かれています。もともと、『エウレカセブン』は、2005年当時のロボットアニメにおいて、新しく、かつ真っ直ぐな話をやるということを出発点にしています。それが当時の意識として、とてもチャレンジングなことだった。そのかいあってTVシリーズはとても成功したので、キャラクターやストーリーそのものを好きになった人が多くいたはずで、劇場版でも同じ感覚を求めている人もいるでしょう。ただ、『エウレカセブン』という作品の根底にあるのは、新しさへチャレンジすることそのものだと思うんです。その結果、『エウレカセブン』という一つの立像を別の角度から見たらまったく違う面が見えたりするわけで、それが『ハイエボ1』では、家族というテーマや、レイとチャールズの存在なのだと思います。

■アネモネの“混血”という設定は、時代的背景とも重なる

ーーアネモネ主役作品を待ち望んでいたファンも多いようです。さやわかさんから見て、アネモネはどんなキャラクターですか?

さやわか:TVシリーズのアネモネは、キャラも立っていて、うじうじしていない、むしろツンツンしている女の子ですよね。レントンとエウレカは内向的でもあったので、その対立軸として考えられます。そこをスタート地点にしつつ、物語が進んでいくにつれて心を開いていくというギャップ感がアネモネの魅力で、こういうキャラ好きだなあと思います(笑)。

ーー今回の『ANEMONE』では、アネモネの“喪の仕事”が描かれます。

さやわか:『ANEMONE』では結構重い話をやろうとしてるんだなと感じました。そして、アネモネだけではなく、エウレカの存在も重要になってきます。TVシリーズでは、エウレカが人間にとって異質な存在ながら、レントンとの関係において融和を図っていきました。今回はキービジュアルを見ても、女の子であるアネモネとエウレカの関係がクローズアップされるというか、TVシリーズとは別角度から彼女たちの関係が描かれるのではないでしょうか。女の子同士の友情みたいな話も、やっぱりいいですよね。

ーー『ANEMONE』の舞台が東京という点に関してはいかがですか?

さやわか:東京であることに加えて、アネモネを「石井・風花・アネモネ」という日本人とのハーフととれる名前にしているのもポイントだと思います。日本人の名前をつけることで、視聴者にとっては身近な存在になる。同時に父と母の母国が違うというのも重要で、もともと『エウレカセブン』というのは、“中間に立つ人”の話だと思うんです。単純な敵同士や民族紛争によって二極に分かれて戦う話ではなく、その両者を繋ぐ者や、その間に立たされてしまったり、繋ごうとするとむしろ大変な目に遭う様子を描いている。しかもこれからの時代、日本全体がそうなると思うのですが、特に東京は、移民や外国人労働者と混交した都市へと移り変わっていくでしょうから、アネモネの“混血”という設定は、そういう時代的なものを考えることもやりやすい。まあこれは僕の深読みで、必ずそういう風に見るべきだとは思わないですけども。でも『エウレカセブン』は深読みして解釈するのが楽しいアニメなんだから、いいですよね(笑)。そういうアニメのスタイルは、近年では必ずしもポピュラーではないですが、やっぱり『エウレカセブン』は2005年当時からその矜持を持って作っている感じがします。

ーー『ハイエボ1』でも“家族”というのが一つのテーマだったと思いますが、『ANEMONE』にもアネモネの父が登場するということで、重なる部分がありそうですね。

さやわか:そうですね。もともと『エウレカセブン』は“世代”を描こうとしています。一般的に「アニメって大人が出てこないよね」と批判される場合も意外と多いのですが、特にロボットアニメは大人が出てこなきゃ不自然になりやすいはずなんです。ロボットに乗るのは少年でも構わないけど、巨大ロボットで都市を守ったりするには大人の存在が重要になるし、大人がそのとき、どういうことを考えているのか、というリアリズムも求められる。レントンは14歳で、まさに大人未満子供以上の中間の存在。2005年当時、いわゆるサブカルチャーを浴びながら大人になった人々によって作られたのが『エウレカセブン』だとしたら、今はそこから13年経ち、さらに年を重ねています。その中で、「自分たちにとって息子/娘って何だろう?」というテーマが必然的に生まれてきたのではないでしょうか。だから『ハイエボ1』も『ANEMONE』も、「親から見た子供」を描こうとしてる部分が強いと思うんです。『ハイエボ1』では、レイとチャールズのエピソードも、あの2人が何を考えてるか想像すると切ないシーンがいっぱいあった。『ANEMONE』も、おそらくアネモネとお父さんとの仲違いを通したビルドゥングスロマンを基本にしていると思うのですが、そこに大人側の立場からの視点も盛り込む意図があるのではないでしょうか。

ーークリエイター側の状況も作品にフィードバックされているんですね。

さやわか:「自分も、社会も、時代も変わったし、君たちも変わっているに違いない、だったらそれにふさわしい物語をやろうよ」という姿勢を、作品を通して提示できるのは作り手として誠実だと思います。90年代までのサブカルチャーは、ある種大人になることを否定していました。でも、『エウレカセブン』は前に進むことに肯定的だったし、劇場版の『ハイエボリューション』では、それをさらに進めて、“父になること”も描こうとする。もちろん、いつまでも14歳のレントンとエウレカの関係を描いて、大人との対立や若者の疎外感に焦点を当て続ける作り方もできるけど、年を重ねればそれも変わっていくから、劇場版では「大人になったらどう考えるだろう?」ということも考えている。そのチャレンジ精神はやっぱり『エウレカセブン』らしい。家族の話って生々しいじゃないですか。夫婦がいて、子供がいて、一緒にご飯食べて、話して、“家族”が形作られていく。そこに荒々しさはないし、ボーイミーツガールの物語のようなときめきはないかもしれないけれど、物語としての豊かさがあるし、『エウレカセブン』が平和を求める作品なのであれば、そこまで到達しなきゃいけない。

■“王道”を貫いた『エウレカセブン』は正しかった

ーー先ほどもありましたが、『エウレカセブン』の物語の核はボーイミーツガールであると。アンケートでも、やはりレントンとエウレカの恋を応援している人が多くいました。

さやわか:ボーイミーツガールはみんな好きですからね(笑)。『エウレカセブン』は最初からそれに挑戦しているところがよかった。2005年当時、真っ直ぐな話としてボーイミーツガールが描かれるのはとてもワクワクすることでしたし、事実、物語をドライブさせる役割も持っていました。劇場版でも、そのボーイミーツガールという背骨はいじらないで、その前提がある上で他のエピソードを散りばめています。TVシリーズからそうですが、大人と子供、人種間、人間と機械、政治の対立などを、それぞれすべて盛り込みながらも物語を成立させ、最終的には男の子と女の子が手を繋いで世界を救おうとする物語をやりきるのは、かなりの蛮勇ですよね。しかしレントンもエウレカも、物語の中で相当ひどい目にあってます。それはやはり“中間”という対立軸の中心に立っているからだし、そこから彼らは逃れることができない。でも、あえてそういう状況に置かせて乗り越えさせるのが本当にえらいなと思うんです。『エウレカセブン』は相反する人々が架け橋を持ってわかり合おうという話で、テクノミュージックとかレイブカルチャーというのも、簡単にいえば、人々が1カ所に集まって交わって混淆するとわかり合える、というのが根本にある考え方なので、やはりそこには作品のサブカルチャー的な思想を感じてしまいます。

ーー音楽が重要な要素となっていることにも必然性があるんですね。音楽との親和性について絶賛しているコメントも多かったです。

さやわか:そうですね。『エウレカセブン』はとてもコンセプチュアルなアニメなんですよ。よくアニメの中にテクノやヒップホップが入っていると、正直なんちゃって感があるというか、とってつけたような作品もある。でも、『エウレカセブン』は音楽カルチャーとアニメカルチャーと、描かれるストーリーの融合を不可分なものとしてやっているのがいいですよね。『ハイエボ1』に、チャールズ夫妻とレントンが踊るシーンが入っているのも必然です。『エウレカセブン』はそこに理由を持たせている感じがするんですよね。サマー・オブ・ラブというネーミングも、その音楽ムーブメントが持っているフィーリングや思想性を織り込んでいるし、ビームス夫妻のファーストネームが「レイ」と「チャールズ」というのも、すごく意味深。そういう意味づけをどんどん繰り返して、細部に至るまで敷き詰めると、作品全体をその思想性がカバーしてくれる。僕、TVシリーズの最終話の展開がすごく好きで、レントンが「なんだかよくわからないけど、いけるよ」って言って、電気グルーヴの「虹」が流れるんです。ここはもう、まったく理屈的ではないのですが、でも突き詰めていったところにあるテクノの高揚感ってそういうものじゃないですか。理詰めで作っていって、その理詰めをねじ伏せるような感情を起こせるに違いないというのが、エレクトロニカやテクノ、レイブカルチャーの根本にある。『エウレカセブン』もまさにロボットアニメとして、機械を使い、極度に情報化された世界の中で、人々がわかり合えることに希望を見よう、前に進もうとしている感じは、音楽のムーブメントと重なる部分があります。

ーー緻密に作られた世界の中に、“エモい瞬間”が立ち上がっていくという。

さやわか:そう、そこがいいですよね。緻密に作ると、90年代ぐらいのロボットアニメだと環境にがんじがらめにされて、物語がうまく進まなくなってしまいます。そうではなく、トラパーに乗るという、ある種の軽さもあって、がんじがらめの世界の中でどうやったら感動できるか。その勇気や男気みたいなものを『エウレカセブン』には感じますね。

ーーあらためて、『エウレカセブン』のアニメ史における位置づけとは?

さやわか:こういう絵柄とストーリーで、男の子と女の子が手を繋いで世界を平和に導く話って、今だと別に珍しくないかもしれません。でも、いろんなクリエイターが挑戦したかったのに、うまくできない時代があった。『エウレカセブン』は、それをやったんです。対立を描きながらボーイミーツガールをやるということを成し遂げた作品だと思います。アニメがこういう“普通の感動を普通に描く”ことをやるようになったのは、この2005年前後から顕著になっていきます。『電車男』の小説が出たのが2004年で、アキバ系ブームが来て、ある種オタクというものがとんがった形で捉えられた。『エウレカセブン』はその流れもあって注目されたはずですけど、でも、決定的に違ったのは、キッチュなものとしては作られなかったし、そういうふうにも受け入れられなかったこと。王道のストーリーであり、変なことはやらなかった。キッチュなものとしてオタクカルチャーが受け入れられているうちは、単なるブームであってカルチャーとしては根付いていない。作り手はそれをわかっていたから、一過性の作品にはしなかったんだと思います。だから十数年経った今も支持されている。あのころ、王道を貫いた『エウレカセブン』は正しかったし、その先に今の真っ直ぐさを持ったアニメカルチャーがあるのだと思います。(取材・文=若田悠希)

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