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imdkmによる新連載開始 第1回:NiziU、Moment Joonらに見る“日本(語)で歌う”意義と質の変化

リアルサウンド

21/1/10(日) 13:00

 2020年、地上波テレビ局の歌番組を見ていてふと気になったことがあった。K-POPグループが、日本市場向けにローカライズされた日本語バージョンではなく、韓国語(ないしは英語)のオリジナルバージョンで歌唱することが何度かあったのだ。はじめに爆発的なK-POPブームが起こった2000年代末から10年余り、日本のK-POP受容は、少なくとも熱心なファンや好事家を除けば、「日本語にローカライズしたK-POP」が入り口になっていた。日本で活動する際には日本語で歌う。ようやくその状況が崩れだしたのだとしたら、きっとそれは人が思う以上に大きな変化だ。もっとも、セールスの観点から言えば、韓国語で歌唱された輸入盤もオリコンチャートの上位に当然のごとくランクインするという状況はとっくに訪れていたのだけれど。

 一方で、『PRODUCE 101 JAPAN』や『Nizi Project』といった公開オーディション番組から誕生したアイドルグループ(候補生によるスピンオフ的なグループも含め)が存在感を示したのも2020年だった。特に後者からデビューしたNiziUは年末恒例の『第71回NHK紅白歌合戦』にも出演した。これらのグループは総じて、サウンド面でK-POPの影響を強く感じるのはもちろんのこと、もっぱら日本語での歌唱を主とするにもかかわらず、その譜割りや歌唱法にもK-POP的なものを色濃く残している。というか厳密には、「日本向けにローカライズされたK-POP」的なものというべきか。アップテンポでダイナミックに展開するダンスミュージックへ日本語詞をのせて歌う新しいひな形が、2010年代を通じて醸成されてきた……という仮説を立ててみたくなる。じっさい、日本のアイドルグループの楽曲に耳を傾けてみても、同様の節回しや「フロウ」が聞き取れることは少なくない。

NiziU 『Make you happy』 M/V

 以上がいわばメインストリーム、お茶の間で起こったことだとすると、もう少し深く分け入った音楽シーンでは、日本のポップミュージックにおける「日本語」の立ち位置が相対化されゆく気配を濃厚に感じる作品がしばしば聴かれた。TikTokでのバイラルヒットも話題になったDJ CHARI & DJ TATSUKI「GOKU VIBES feat. Tohji, Elle Teresa, UNEDUCATED KID & Futuristic Swaver」のように、韓国で活動するラッパーをフィーチャーしたヒップホップ楽曲が徐々に存在感を増している。DJでシンガー/ラッパーのYonYonは自ら韓日バイリンガルでラップし、素晴らしい客演を多く残している(KIRINJIの「killer tune kills me feat. YonYon」はその代表例だろう)。

DJ CHARI & DJ TATSUKI – GOKU VIBES feat. Tohji, Elle Teresa, UNEDUCATED KID & Futuristic Swaver
KIRINJI – killer tune kills me feat. YonYon

 ヒップホップの話題が続くが、韓国からの留学生であり「移民ラッパー」と自らを称するMoment Joonがリリースしたアルバム『Passport & Garcon』は特筆すべき作品だ。ラップのスキル、アルバム全体を貫く巧みなストーリーテリング、そこで発されるメッセージと問い。ラストナンバーの「TENO HIRA」が、平易で声をあわせやすいフックを通じて連帯の可能性を模索する様はとりわけ印象深い。ヒップホップというジャンルの話題作にとどまらない射程をもった一作として2020年を象徴するものだ。

Moment Joon – TENO HIRA

 あるいは、インドネシアのYouTuberでありながら日本語で歌うRainychがまきおこしたバズも、単なるノベルティ的な人気としてしまうのではなく、この文脈で捉えてみるべきかもしれない。

【Rainych】 Say So -Japanese version- tofubeats Remix | Official Music Video

 これらの例は、コインの表裏にあるふたつの現象を示唆している。第一には、日本でつくられ、歌われるポップミュージックに日本語(あるいは「外国語」としては例外的に承認された英語)以外の言語が交わりはじめている、もしくは交わりなおしているということ。第二には、日本語がすなわち日本人という国籍や自明のアイデンティティと結びついたものとしてではなく、さまざまなバックグラウンドを持つ人びとが使う言葉としてあらわれているということ。いわば「日本で歌うこと」、そして「日本語で歌うこと」のもつ意義とその質が、それとなく変化しているのである。

 2019年の拙著で掲げつつも匂わせる程度でおわってしまった主題のひとつに、日本における「J-POP以後、J抜きのポップ」の可能性の提示があった。もはや「J」は単一の自明な「日本」を指すことはできず、むしろ「ポップ」の雑食性のもとで、「J」が解体・再編成されていくのではないか。そうした予感はある程度当を得ていたように思う。

 「J(-POP)」をガラパゴス的なぬるま湯ではなく、むしろ、ある種の緊張やコンフリクトを引き起こす場として機能させる。そのための地ならしとして、しばらくのあいだ、日本のポップミュージックにおけることば=うたについて考察することとしたい。そこでの試みは、必ずしもここまで述べてきたような問題意識と直結するようには見えないかもしれない。しかし、少しずつ日本(語)のうたについて考え、歩みを進めるうちに、どこか遠くの、しかしあまりにも身近な地点にたどり着くのではないかと思う。

 おおよそ、次の三つのトピックを大きく据えて、あちらこちらへと飛び移りつつ進んでいくつもりだ。第一には、前著から引き続いてリズムに焦点をあてた、「音律/韻律」。第二には、日本における歌詞の受容について考える「物語性」。第三には、すでにここまでに述べてきたような問題をもっともじかに扱う「多言語的状況」。たとえば七五調や押韻といった問題は「音律/韻律」において扱うだろうし、「物語性」においては歌詞の提示するナラティブがどのように受容されるかを通じて応援ソングや愛国ソングといったものに触れることになるだろう。そして、「多言語的状況」においては、日本語(及び英語)の専有という事態に対する批評的な介入が試みられる(はず)である。

 以上、本連載の見通しを述べてきた。次回からは、七五調をはじめとする日本語の音律とポップミュージックの関係性を考えるところからスタートする。

■imdkm
1989年生まれ。山形県出身。ライター、批評家。ダンスミュージックを愛好し制作もする立場から、現代のポップミュージックについて考察する。著書に『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)。ウェブサイト:imdkm.com

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