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又吉直樹×西加奈子、小説『人間』対談 「自分は誰かで、誰かは自分だって考えることもできる」

リアルサウンド

19/11/30(土) 8:00

 芥川賞作家でお笑いコンビ・ピースの又吉直樹が、最新刊『人間』(毎日新聞出版)の発売を記念し、直木賞作家の西加奈子との対談イベントを10月20日、東京都渋谷区の紀伊国屋サザンシアターで行った。リアルサウンド ブックでは今回、「人間であること、人間を書くこと」をテーマに繰り広げられた2人の対談を、約1万字のテキストで掲載。又吉直樹が本作を執筆しながら感じていたことや、表現者が持つ狂気、“人間”を感じる瞬間についてなど、親交の深い2人ならではの濃密な対談となった。(編集部)

又吉「早く永山と奥を会わせてあげたかった」

西:『人間』は読んでいて、もう脳みそが飛んでいきそうになる小説でした。私の好きなプロレスで例えると、ほとんどの凄い試合は「あの時のあの返しやな」とか「この組み合わせやからな」って、なんで凄かったかが説明できるんです。でも時々、凄いんだけど、何が凄かったのか全く説明できない試合があって。いつも一緒に観にいく友達と帰りに焼肉食べながら話していても、「あれ、何やったんやろな?」みたいな。『火花』と『劇場』ももちろん凄かったんですけど、例えば『劇場』やったら帯に「『かいぶつ』の内臓を見せられたような気持ちです。」って書いたように、その凄さをかろうじて言語化できたわけじゃないですか。でも、『人間』は飛び方がわからないというか、光がどう反射するかわからへんみたいな感覚で。「あれ、これってどういうことなん?」ってページを戻ってみたり、とにかく言語化が難しくて。『火花』の頃からシークエンスの繋ぎ方は素晴らしかったんですけれど、今回の『人間』に関してはどうやって繋いでいっているのかがほんまにわからなかったんです。

又吉:僕もわからないです(笑)。

西:困ったやんな(笑)。それは好きなように書いてるってこと? もしかしたら新聞連載で短く書き連ねていったことが関係してますか?

又吉:割と好きに書いてますけど、新聞連載だったことは関係あると思います。今回から読む人がおるかもしれんという意識もあったから、1話の中で読んだ人がその日1日引っかかるようなセリフとか描写を、なにか1つは入れたいと思ってやっていました。

西:そうなんや。でも、全然わざとらしくないですよね。本当に小説内の世界に食い込んでいってる感じがあった。主人公の永山くんが奥くんと再会して、長い会話をするシーンがありますよね。あれを読んでたら胸が痛くなってきて、なんで痛いんやろうって分析したら、すごい孤独感があって。それってつまり、又吉さんって人とここまで深いレベルの会話をしたいんやったら、友達おらんやろうなって(笑)。そのシーンを読んだ方にはわかると思うんですけれど、単にハイコンテクストってことじゃないですよね。ケンドリック・ラマーが『To Pimp a Butterfly』っていうアルバムの最後の曲「Mortal Man」で、90年代に銃殺されたトゥパックという天才ラッパーのインタビュー音源を再構成して、彼と長い会話をするシーンがあるんですが、それを聴いた時に感じた胸の痛みに似ていて。小説の中では永山くんも奥くんも生きているんやけれど、死者とか概念として対話をしないと、書いている又吉さんの魂って満たされへんねやと思ったんです。

又吉:ええと、友達はいます。(会場爆笑)でも、永山と奥がバーで再会して長い会話をするシーンに向かっていく間、テンションはめっちゃ上がっていましたね。早く二人を会わせてあげたい、今日は会われへんかったけれどもうすぐ会える、二人とも会ったら凄い喜ぶぞって。そんなの書いている自分次第なのに、不思議な感覚でした。二人が会って、具体的に何を喋るかは決めていなくて、永山はあのことについて聞けよとか、奥はこう言うやろなとか想像して、ほんまに二人と飲みに行くみたいな楽しみがありました。

西:二人を会わせてあげたかったんや、その話聞いただけで泣きそう……。『火花』の時も聞かれたと思うんですが、永山くんも奥くん、どっちが又吉さんに近いですか? もちろん、どっちも又吉さんの体から出てきたというのは分かるんですが、こういう会話の時、どういう風にスイッチを入れてんのかなって。永山くんが喋ってる時は永山くんになって、奥くんが喋ってる時は奥くんになるのか。それともバーのマスター的な立ち位置で見ているのか。

又吉:2カメですね。永山から奥を見るカメラがあって、奥から永山を見るカメラもあって、切り替えている感じ。喋ってる側を書いているときは相手が何を言うかを想定していない状態で気になったことを聞いて、今度は相手側から聞かれたことに対してちゃんと考えてから答えて……という感じです。

西:2人は凄く共鳴し合っていますよね。会話が本当にセッションみたいにうねっていて、しかも長く続いている。2人にはどういう違いがあって、こんなに深く話せるんですか?

又吉:本質的に、2人はすごく似ていると思うんです。でも、過ごしてきた時間とか経験とかが異なっていて。世間からどう扱われてきたかも違うし、それに対してカウンターを打つ構えも違う。ただ、2人は若い頃からの友達で、その時にお互いスパーリングしまくった感覚があるから、「こいつは自分の理解者や」っていう気持ちがあって、再会までの立場や経験の違いとかはたぶん乗り越えられるんですよ。永山は奥ほど評価されていないから、本当のところ、永山の苦しみは奥にわからない。でも奥は、自分が永山と同じような立場になったら、やっぱり永山と同じような考え方を持つんじゃないかと思っている。

西:そうか。だからこそ、奥くんは永山くんに「お前はわかってるはずや」って感じで確認しているんですね。前半のスノードームのシーンから、「お前は絶対にやるよ」って予言していましたし。じゃあ、あの会話のシーンを書き終えるのは、又吉さんはやっぱり寂しかった?

又吉:もう少し喋らせてあげたいという気持ちはありましたね。客観的な感覚として、このシーンはちょっと長いよなとは思うんですけど、僕は「まだ終わらせないですよ」という感覚で書いてました。

西:長いといえば、奥くんがライターのナカノタイチのコラムにキレて、めちゃくちゃ長文の反論メールを送るシーンがありますよね。あの長さも狂気的でむちゃくちゃ面白かったです。

又吉:ああいうのは得意分野なので、長く書こうと思ったらもうあと2倍は書けますけどね(笑)。要はナカノタイチが、小説を書いた芸人について、「芸人のくせに文化人みたいなフリすんな」みたいなコラムを書くわけですけれど、それに対して奥は「ここで1つ疑問なのだが、ナカノタイチの肩書がコラムニストとイラストレーターと2つあるのはミスか?」「肩書というものの捉え方があやふやで本人の中でもその定義が全く整理されていない」と、こういう指摘が延々続くわけです。でも、書いているうちに奥も途中からコントロールできなくなっていって、だんだん崩れていく。

西:奥くんの言ってることはほんまに正しいよね。崩れていく様がクレイジーではあるんだけど、それは誠実さゆえのクレイジーで。誠実さって真っ直ぐであることだから、絶対になにかにぶつかるし、傷だらけになるのも当たり前ですよね。今は穏やかであることを誠実さと捉える傾向がある気がするけれど、それは違って、奥くんみたいな態度こそ誠実なのじゃないかなと思います。

又吉:ナカノタイチはそもそも大前提を間違えていて、奥があらゆる選択肢の中から芸人を選んだと思ってる。芸人になるしかなかった人間が芸人になっているということを見失っているから、ナカノタイチは「お前は芸人じゃない」という言葉が芸人にとってどういう意味を持つかわかっていないんです。芸人からしたら、「お前は人間じゃない、死ね」と言われているのと同じくらい重い意味で、だから奥は怒り狂ったんです。芸人から舞台やマイクを奪うと、必ず狂いますから。僕はむちゃくちゃ変なことを言うとか、必死でふざけるとか、そういう衝動を抑えて生きていて、もしそのストッパーを外したら延々とふざけていられるんです。だからこそ、なんでも好きなことをやって良いという無法地帯を必要としていて、その結果として芸人になっている。

西:ナカノタイチは、自分は空っぽだけどなんかあると見られたいがために、どう振る舞うかを考えている人物で、奥くんみたいな人間がいるとは想像さえしていないんですよね。

又吉:西さんがさっき、奥と永山みたいな会話がしたいんやったら、もしかしたら友達いてないんちゃう?って言っていたの、本当はすごくわかるんです。奥は、どういう話をすれば相手を傷つけないかとか、なにをどれくらい喋れば良いのかということに対して戸惑っているところがあって、それは永山ももしかしたら一緒なのかもしれない。永山と奥は、狂ってるとか、人とズレているということにそこまで気づいてなかった時期に、「何言ってんねん」とか「訳わからんこと言うな」とか言われて、傷ついてきたんです。で、訳わからんこと言わんように、手っ取り早い選択肢として黙り込んだので、喋る相手がいなかった。だから、奥と永山の会話は2人とも嬉しそうなんだと思います。

西:その感覚は、芸人さんが芸人さん同士で集まってホッとする感じと似てるのかもね。

又吉:そうですね。友達にバーで働いている難波麻人という芸人がいてるんですけれど、雨が降ってる時に店に行って、「すいません、雨宿りだけちょっとさせてもらっていいですか? さっき食べてきたから、食べたり飲んだりはもういいんですけどね。荷物だけ置かせてもらって、ちょっと座りますー」みたいな感じで面識の無い人として話しはじめたんです。そしたら難波が「ちょっとすいません、雨宿りだけはちょっと困るんで、何か頼んで」って言って、僕は「もうお気遣いなくー」みたいな。そこからほんまに1時間くらいその設定のまま喋って。難波は難波で他の店員さんに、「変な客がきた。あんま目を合わさん方がいいよ」みたいなことを言っていて、僕もずっと「お水だけもらえたりできますー?」とか言ってて。途中で飽きてきて、ようやく「難波、俺や」って言って、「おおう、まったんか」みたいな。

西:飽きんのかい(笑)。そういうのって、前もって考えてボケるんじゃなくて、店に入って難波さんがいるのを見て、呼吸するみたいにボケてるわけじゃないですか。その時に知り合いの芸能人の方とかがトイレから出てきて「お、又吉くん」って言ったら殺したくなる?

又吉:殺したくなります(笑)。どうしたらいいかわからないですからね。いきなり足場無くなるみたいで恐ろしいですね。仲のいい後輩には「そういう時はあんまり止めんといて。ほっといて」って頼んでます。そしたら後輩たちの間で「又吉さんのあれ、どうしてる?」って話し合いが行われるようになったみたいで。「俺はちょっと様子を見て、止まらないと思ったら言うかな」とか、それぞれの対処法があるらしいです。ずっとやってると、だんだんほんまになってくるんですよ。よく言うてるんですけど、井の頭公園で昔、穴が空いた木があったんです。その木をお局様と呼んで、穴にゴミが入ってたらそれを片付けたりしていたんですね。そしたら何となくその木に対する愛情が湧いてきて、頭下げたり、「おはようございます」って声かけたり、ついには信仰心みたいな感情が芽生えてきて。

西:名前つけたら終わりますよね(笑)。人の魂を吸う話も一緒じゃない?

又吉:そうですね。仕事がなくて時間はありあまってるけど、お金がまったくなかった時代に、サルゴリラの児玉(智洋)と「人の魂を吸う」っていうごっこ遊びをやっていたんですね。相手に気づかれんように口で「シュッ!」って言って魂を吸うという遊びなんですけれど、正面からやったらバレるから、横にまわって吸うとか、すれ違いざまに吸うとか、いろいろ技を編み出して。最初は児玉も「何ですかそれ?」って言ってたんですけど、だんだんあいつもハマって自らやるようになって、実力が上がっていったんです。で、そんなある日に隙を見て、僕が児玉の魂をシュって吸ったら、「てめえ何してんだよ!」ってブチ切れて。(会場爆笑)児玉と一緒に遊んでると止まらへんから、延々それが続いてしまって、ちょっとおかしくなりましたね。

西:又吉さんは、本気になってくれるアホと出会えてよかったですね。

又吉:そうですね。高校時代の友達とは、どれだけ相手をえずかせるかというのをやっていて。「あの先生の唾が満タンになったのを、食うてるところ想像して」って言って、「おぇっ!」ってなるみたいな。

西:それせんと狂うんですもんね、又吉さんは。

又吉:そういう時間がないと、だいぶ日常生活に支障がありますね。

西「素直さに人間を感じる」

又吉:西さんはどういう時に人に対して「人間やな」って感じます?

西:むき出しの感じを目の当たりにした時かな。例えば親世代ってSNSも知らないし、自意識のないほとんどまるのままの人間で生きてきたように思うから、人間力がすごく強いなって思うんです。『火花』の神谷がそうやったけれど、又吉さんは「普通のことを普通に言うのが一番のボケ」って言ってるでしょう? うちの母はめっちゃ普通のことを普通の正しいトーンで言うんです。春先に母と喋ってて、「この時期、寒なったり暑なったりするから何着ていいかわからへんねん」って言ったら、「そういう時に便利なもん教えたろか? スプリングコートや」って。なんか笑い止まらへんくなって。「雨降ったらな、濡れるやろ」とか。そういう時に涙出るぐらい笑ってしまうし、「この人、ちゃんと人間やな」って思う。

又吉:すごくわかります。僕、児玉と六本木ヒルズの映画館に行こうとした時に、60代ぐらいのご夫婦とその娘さんの家族がいたんですけれど、娘さんが前のお店に鞄を忘れたみたいで、お父さんが「取ってくる!」って言ってダッシュで走り出したんですよ。でも奥様が「1人で大丈夫?」って言ったら、立ち止まって、不安そうな顔したんです。それがめちゃくちゃ可愛いなと思って。「1人で大丈夫?」に引っ張られて、「ダメかも」って思ったんでしょうね。西さんがエッセイに書いていた中野の駅前のおばあちゃんの話も、すごく人間らしいエピソードだと思います。

西:あれ、私もめっちゃ覚えてます。自転車を押して歩いてたら、すっごい夕焼けで。夕焼けって、人間の人間性をむき出しにするじゃないですか。それだけで泣きそうで。そしたら、私の前を歩いていたおばあちゃんが、花屋さんの花1輪を自然にポンと取ってそのまま普通に歩いていったんです。普通に見たら万引きなんです。でも、なんか、むちゃくちゃ感動した。

又吉:そのエッセイ読んだ時、泣きそうになったわ。たぶん、お金出してお花を買うみたいなシステムを超越して、ただそこにある花が欲しいと思って取ったんですよね。

西:そう。たぶんそういう素直さが好きで、私はそこに人間を感じるんやと思うんです。『人間』の最後でも、永山くんのお父さんとお母さんの話が出てくるけれど、ふたりともめっちゃ人間ですよね。中盤までは言葉を尽くして、人間の歪さとか醜さとかを描くんやけど、最後にまるっと人間で、そのまんまで強いお父さんとお母さんが出てくる。書いていて自然とたどり着いたのかもしれないけれど、奇跡的な着地やと思いました。

又吉:永山は夢を抱いて東京に出てきて、自分にはこれしかないって思ってやってきて、困ったり悩んだりしているわけじゃないですか。でも、その価値基準の延長線上というか、目指している理想像は、両親の姿からかけ離れているんですよ。僕自身、両親をすごく尊敬しているんですけれど、僕の価値基準や理想としているものの先に両親の姿はなくて。その尊敬ってどういうことなんやろうって思ったんですね。で、綾部とコートジボワールの辺境の村に行ったときに気づいたことがあって。そこの小学生が、子供の頃からボールを触ってる人特有の柔軟さがあって、めちゃくちゃうまいんです。でも、高校生は体が大きくてバネがあって、スピードもあるんですけれど、テクニックがない。なんでだろうと思って村の人に聞いてみたら、彼らは国や村のゴタゴタで小さい頃からサッカーができていなかったというんです。サッカーでもなんでもそうだけれど、たしかにプロになれるかなれないかは重要で、プロは素晴らしいプレーをするから僕らはお金を払って見に行ったりするわけです。でも、ここで全力でボールを追いかけている高校生たちのプレーには、プロになるとかならへんとかの基準とはまったく別の絶対的な価値があって、その価値はうまい小学生たちのプレーと等価やと思ったんですね。どっちも一緒やんって。そこにものすごく人間を感じて、いろいろなことがようやく理解できてきたというか。開き直って好きなことやったらええんかなと思うようになった。前は誰かの考えとか、誰かが決めた価値みたいなところに揺さぶられたりしてたけど、あんまり囚われる必要がないというか、なんでもええやんって。

西:又吉さんって昔から芯が強い人やったけれど、その「一緒やん」って感覚が匠の技のレベルになってきてる気がする。おじいちゃんとか、めちゃくちゃ草花育てるのうまいじゃないですか。あの感じになってきたのかなって。若い頃は自分が草花を育てているって思うから、草花と自分との間に距離があって、自分のパワーで草花が死んでしまうこともあるけれど、おじいちゃんは草花も自分も一緒やんみたいな感じで、だから育てるのがうまいんじゃないかと。永山くんのお父さんもそんな感じで、他者とか人間以外のものとの境界線がない感じ。

又吉:もしかしたらかなり危険な考えかもしれないんですけれど、そういう風なことがあってから「全部一緒やん」って思ってまう癖があるんですよ。あいつは嫌な奴やな、嫌な奴はこうやから嫌な奴で、良い奴っていうのはこうやから良い奴で、つまりどっちも一緒やなって。飯食べようかな、食べんとこうかな、食べへんかったとしたらこうやな、食べるとしたらこうやな、一緒やなって。

西:「僕はあなただ」っていう感覚があるって、昔から言っていましたもんね。

又吉:「僕はみんなだ」とか「僕はあなただ」っていう感覚はむちゃくちゃあります。好きな人になりたいとか。小説を読むときも、例えば『人間失格』を読んで大庭葉蔵に対して「これ俺や」とか、『罪と罰』を読んでラスコーリニコフに対して「これ俺や」とか、『変身』のグレーゴル・ザムザにさえ「これ俺や」って思ってしまうんです。ずっと「俺やな」と思って本を読んできた。

西:公言してきたしね、それを。

又吉:そういう風に公言してきた自分が、いざ小説を書きますっていうときに、「この小説の中に自分はいません」って言うの、無茶苦茶やんって思うようになりました。僕自身と作品とはわけて読んでくださいって、そんな都合の良いこと言えへんなと。作品の中の人物とどういう風に距離をとるかとか、これは僕自身なのか違うのかとか、そういうのも「どっちも一緒」なんですよ。作家と小説自体はわけて捉えなければいけないって思っていたこともありますけれど、そういう風に思っている時点で、その作家のことが頭にあるわけじゃないですか。だからもう、全部一緒やんって。

西:すごいな。それって悟りみたいなものじゃない? 又吉さん死ぬんかな。

又吉:もう下手したら死んでるかもしれないです。

又吉「みんな、普段は同時にいろいろと認識している」

西:屏風絵とか襖絵って、春夏秋冬が全部一緒に描かれていたりするじゃないですか。又吉さんの言う一緒って、そういう感覚に近いのかな。小説に絶対的なルールはないとはいえ、やっぱり最初から順番に読むしかないじゃないですか。「同時」を同時に描くことはできない。でも『人間』は、この長さでそれが限りなくできてるような気がして。

又吉:普段、西さんとお話しててもそうですけど、喋ってて急に話が変わって、「あれあるやん」「何々ですよね」「そうそう」みたいなことあるじゃないですか。要は言葉で説明してへんのに共有できたりとか、会話して考えごとしながら腹減ってきたなって感じたりとか。みんな、普段は同時にいろいろと認識しているんですよ。でも、その思考のブレンドを小説で書かれると、みんな酔うと思うんです。何書いてんねんってなる。本来、頭の中では処理できるはずなんですけどね。

西:画像やったらレイヤーとしてできますもんね。でも小説となると難しくて、『人間』ではそれをやろうとしてるから脳が揺れる感じがあったのかも。

又吉:思考ってもっと抽象的で、頭の中でいろいろ渦巻いているけれど、それをそのまま再現するとなると、文字が重なっている感じになるのかなと。だから、小説の中でちゃんと会話が成立してて、順序立てて説明されているのが、作家が書こうとした何かの純粋な再現になっているとは限らへんと思うんですよ。

西:そうですね。努力はしただろうけど。

又吉:じゃあ、どうすればそれを小説の中に落とし込めるのかって考えたときに、作家それぞれにやり方があるんじゃないかって思うんです。

西:たしかに本当に自分の心のままに書いたら、訳わからんくなりますもんね。最近トニ・モリスンっていう本当に尊敬してる作家が亡くなって。17歳で彼女の作品に出会ったんやけど、その凄さは長らく言語化できなかったんです。でも作家になって、影響を受けた作家は?って聞かれたときに何度も何度もトライしていたら、トニ・モリスン漫談みたいになってきて、どんどん言語化が上手になっていくんです。そしたら17歳の時に持っていた大切なものを圧倒的に手放した感覚があって。やっぱり文字化するって、整理するっていう呪いから逃れられないのかな。今回もモリスンの追悼文を書いたんだけど、モリスンのこういうところが好きで、こういうところに私は勇気づけられたって書いていたら、異常にスッキリして、もう明日から頑張って生きようって思えてしまって。本当はそんな簡単なことじゃなくて、もっとずっと彼女に肉薄していたのに、書いたことでその距離が適正なものになってしまった。でも、又吉さんはたぶん、限りなく狂気のままで言語化できてる人で、だから『人間』を読んで凄いって感じたのかもしれません。

又吉:書いたことでなにかを手放してしまうというのは僕も一緒ですよ。『人間』の中でも永山と奥が似たようなことを会話していて。クリント・イーストウッドの凄さを、専門家が使ってるワードを駆使して自分が思ってるイメージを組み立てていこうとしたら、急に見失うみたいな。知らん方がよかったわ、みたいなことはあるんですよ。なんでもそうですよね。最初できたことが、練習していったらできんようになるみたいなことはよくある。めっちゃわかりやすく言うと、僕、中学校の時にあるコンビの芸人さんのことがすごく好きだったんですけれど、みんなより見始めるのが遅かったんですね。で、クラスにおったやつが「お前、あれ見た? 見てない? お前、何も知らんやんけ。〇〇は誕生日が何月何日で」って、プロフィールとか2人の出会いとか話すんですけれど、それで「こいつ何もわかってへんな」って思ったんです。見て面白いってわかってたのに、勉強して時代的な背景とか探っているうちに、なんか対象から遠なった、みたいな。

西:『人間』で書いてた、井の中の蛙の話も一緒ですね。

又吉:「井の中の蛙大海を知らず」やけど、外敵が限りなく少なくて自由やから、空見て、星のこと考える余裕あるじゃないですか。だからむちゃくちゃ哲学的に進歩すると思うんですよ。でも、大海に行ったら外敵だらけやし、他のすごい奴に食われへんように気をつけながらその場その場を一生懸命に生きてるから、宇宙見る余裕なんてほとんどない。そういうことが僕らの生きてる社会にもすごくあるんじゃないかって。

西:たしかに。「お前、何も知らんやん」って言ってくる外敵の魚に翻弄されると、好きだった芸人さんを見ることすらしなくなるかも。

又吉:たとえば、社会保障制度の内容が変わるみたいな話になると、すぐに世代間の争いみたいになったりするじゃないですか。それも言葉の整理にすごく支配されてしまっていると思うんです。つい自分の世代の視点からいろいろ批判したりしてしまうけれど、60代~70代は自分の親の世代やで、90代はおばあちゃんの世代やで、同世代は兄弟やし、下の世代は子供やでって考えると、境界が曖昧になるというか、もう少し違う見方になるんじゃないかなと。自分の痛みと同じように人の痛みを考えるのは難しいと思うんですけれど、たとえば家族や恋人についてだったら、自分の痛みを越えることもあるじゃないですか。だから、自分は誰かで、誰かは自分だって考えることもできるやんって思うんです。

西:それをこの世代はこうで、この世代はこうだからって言葉で整理しちゃうから、できないっていう結論が出てしまうんですね。

又吉:奥とナカノタイチが争っていた、「芸人なのか、作家なのか」という肩書きの問題もそうですけど、両方でええやんって思うんですよ。どっちもやりたい時にやるのが楽しいし、面白いやんって。それが人間やと思うんです。

(取材・構成=松田広宣)

■書籍情報
『人間』
又吉直樹 著
価格:本体1,400円+税
発売/発行:毎日新聞出版

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