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映画と働く 第7回 アクション監督:谷垣健治(前編)「香港映画の現場を見て『この中にいたい』と思った」

ナタリー

20/12/31(木) 19:00

谷垣健治

1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。

第7回となる今回は「るろうに剣心」シリーズやドニー・イェン作品への参加で知られ、世界で活躍するアクション監督・谷垣健治にインタビュー。ジャッキー・チェンの「スネーキーモンキー/蛇拳」で映画に目覚め、単身香港に住み始めた経緯や、「るろうに剣心」での監督・大友啓史とのタッグについて聞いた。後半には、監督として携わった「燃えよデブゴン/TOKYO MISSION」でのドニー・イェンからの“無茶振り”も明らかに。なお今回は、前後編の2回にわたってお送りする。「るろうに剣心」主演の佐藤健との思い出や、谷垣が今後の日本アクション業界について語る後編は、近日公開予定(参照:アクション監督:谷垣健治(後編)「安全な現場で危なく見える映像を」)。

取材・文 / 浅見みなほ 写真 / 金須晶子 題字イラスト / 徳永明子

体は弱いが、我慢強い子供だった

──前半では、谷垣健治さんがアクション監督になるまでの経緯を伺えればと思います。まず、以前Twitterにお写真をアップされていた幼少期のお話から伺えますか。

はい。体が弱かったので、引っ込み思案な子でしたね。1歳半と3歳のときにひきつけを起こしたりしていたので、あまり過激な運動はさせてもらえなかったです。

──ただ、お写真ではブランコや高い木の上に登っていましたよね。当時からかなりの身体能力だったのではないかと思うのですが……運動神経がいいという自覚はあったんですか?

ありません! 奈良県で育ったので周りに山や木がたくさんあって、木登りとかは得意でしたけどね。高いところに登ったり、そこから飛び降りることが好きだったので、自然とそういう筋力が付いたのかもしれません。あと「自分は我慢強いな」とは思っていました。擦り傷ができても全然平気だし、同級生とふざけていてケガしたときでも、相手を心配させないようにすぐに「大丈夫大丈夫!」と返すくらい。スタントマンになってからも、危ないアクションの直後はカットがかかってすぐ「大丈夫です!」って言うので、通ずるところがあるかもしれません(笑)。

香港映画の現場を見て「自分もこの中にいたい」と思った

──履歴書で“人生の1本”に挙げていただいた「スネーキーモンキー/蛇拳」は、そんな小学生の頃に観たわけですね。

小学校5年生のときですね。テレビで観て、翌日にはクラスのみんながマネしてました。その頃の僕は、ただただジャッキー・チェンになりたかった(笑)。「蛇拳」は動きがマネしやすかったし、できない主人公が特訓を重ねてできるようになるというストーリーのおかげで、その気になれた部分もあると思います。最初に観た映画が「ラッシュアワー」だったらちょっと違ったかもしれないですね。そして、僕らもジャッキー映画の変遷とともに変化していったんですよ。例えば、「ドラゴンロード」からは、従来の野原での決闘から進化して、小屋のような空間を立体的に使って演出するようになったんですね。当時のパンフレットにも「ジャッキーはハロルド・ロイドやダグラス・フェアバンクス、(バスター・)キートンの作風をいつの間に身につけたのだろう」というようなことが書かれていて、「キートンって誰だ? ロイドって誰だ?」って、自分の中での興味とともにいろんなものに手を付けていきました。

──劇中世界への憧れが、映画作りへの憧れに変わったきっかけは覚えていますか?

最初は「バック宙したい」みたいなフィジカルなものへの憧れが強くて。でもいつか香港映画の現場を見てみたいと思い始めて、18歳のとき初めての海外旅行で香港に行きました。それでジャッキーの事務所に行ったら「今日はここで撮影してる」って紙に書いて教えてくれたんです。ショウ・ブラザーズの山の中のスタジオにものすごいセットを建てて「奇蹟(ミラクル)」という映画を撮影していて、ステディカムとかリモートアームで動くカメラクレーンのような当時の最新技術を目の当たりにしました。香港映画ってすごいんだなと思いましたね。結局一晩中撮影現場を見学させてもらいました。「次のカットはこっち向きだから、見学の人たちはあっちに避けてー」って感じで。弁当も昼、晩、夜食と食べさせてもらって(笑)。

──ファンへのサービスがすごいですね!

ですよね。その体験が衝撃的で「どんなポジションでもいいから自分もこの中にいたい!」と強く感じたわけです。日本に帰ったら、倉田アクションクラブ(※香港でも活躍する俳優の倉田保昭が設立したアクション俳優養成所)が「君も香港映画に出ないか」というキャッチコピーで養成所の生徒を募集していたので、ここが一番香港に近いと思って、1989年の4月に大阪支部に入所しました。スタントマンというよりアクション俳優の養成所みたいな感じでしたね。ほぼ同期で一緒に練習していたのは「GANTZ」「キングダム」の下村(勇二)くんとか、「孤狼の血」や「ひとよ」のような芝居寄りのアクションで引っ張りだこの吉田浩之さんがいて。みんなで、「このスタントどうやってるんだろう?」ってビデオテープを何度も巻き戻して観たり、映画の情報を交換して「『タイガー・コネクション』って映画のドニー・イェン、あれスッゲーよな!」みたく盛り上がって、みんなで毎週練習していました。

──今日本アクション界で活躍されている方々との人脈が、そこでできたんですね。

それぞれが自分の方法でこの世界に残って独自のキャリアを重ねていったという感じですね。当時は「鬼平犯科帳」などの京都の時代劇の現場が多かったので、あんまり普段練習しているようなアクションを発揮できるジャンルじゃなくて、いつ頃からか僕は密かに「香港に行かなきゃ駄目だな」と感じるようになっていました。こう言ってしまうと突飛に聞こえるかもしれないですが、野球選手がメジャーリーグに挑戦したり、サッカー選手がヨーロッパに行ったりする感覚に近いと思います。たまたま僕にとってはそれが香港だった、ということです。

広東語を覚えるために、マクドナルドでめちゃくちゃ人に話しかけた

──そんな思いから、履歴書にあるように“勝手に香港に住み始める”のですか?

はい。今考えると香港の人たちは、僕らのような“よそ者”に優しかったと思います。1回受け入れてもらえたら、身内意識を強く持ってもらえるようなところなんですよね。

──言葉もわからない状況で住み始めるという決断に驚きました。

広東語を覚えるために、マクドナルドで子供やおじいちゃんにめちゃくちゃ話しかけましたね(笑)。生活がかかっていて、しゃべれないと生きていけない状況になったら、案外すぐできるようになりますよ。日常会話は2カ月くらいでできるようになりました。英語の5W1Hにあたる疑問詞とよく使う名詞を覚えたら、だいたい通じるようになりますし。

──最初に覚えた言葉はなんでしたか?

「本当?」って意味の「ハイメ?」ですね。それを覚えておくと相槌が打ちやすくなるんですよ(笑)。相槌を打つと相手がどんどんしゃべってくれるから、その間に「何言ってるのかな?」って想像するんです。逆に大変だったのは、現場で使う動詞。「避ける」とか「受ける」とか「ウィービング(※パンチをくぐって避ける動作)する」とかという広東語は、なかなか日常会話でも出てこないじゃないですか。あるとき現場でアクション監督から「お前ナントカできるか?」って聞かれて、技の名前なんだろうなと思いつつも僕には意味がわからなかったんです。で、「お前はもういい」と言われてほかの人がやっているのを見たら、「バック宙崩れ」っていう僕の得意技だったんですよ。言葉がわからないと、それは“できないやつ”になってしまうわけで。ただ漢字で覚えられる分、アメリカから来ているスタントマンよりは有利だったと思います。そうやって覚えたもんだから香港人よりも、僕のほうが漢字表記には詳しいくらいですよ(笑)。

──次の転機は香港のスタントマン協会に入ったときだそうですね。日本人がその協会に入るのは、谷垣さんが初めてだったと思うのですが。

一番大きいのは、入ることによってスタントマンとしてのギャラが保障されるということです。それまでは日当200HKドル(約2800円)くらいのエキストラでしたが、9時間1400HKドル(約1万9600円)のスタントマンになれる。吹き替えをしたら倍もらえるし、オーバータイムの手当もつくようになりました。そういう意味では「ここからスタントマンになりました」と言える転機だったと思います。本当はアクション監督3人の推薦が必要なんですけど、トン・ワイっていうアクション監督が推薦してくれて、裏口入学みたいな形で入れてもらいました(笑)。

──トン・ワイといえば、「燃えよドラゴン」でブルース・リー演じる主人公に、「考えるな、感じろ」と言って頭をはたかれていた少年役でもおなじみですね。協会に入ってギャラが上がったことによって、生活も安定したのでしょうか?

僕が勝手に香港に住み始めたのが1993年6月6日で、協会に入ったのが1994年の6月5日。僕はそもそもすごく安い部屋に住んでいたので、その点は得していたんですよ。本当は香港人しか住んじゃいけない公共住宅だったので(笑)。生活がなんとかなると思えたのは1995年くらいからですかね。単発仕事じゃなくて、1本の映画にレギュラーとして常駐できるようになったので。

ドイツで「アクション監督もやってくれ」と言われ

──そして1999年にドイツのドラマ「SK Kolsch」でアクション監督デビューをされますね。

1997年に、あるアクション監督から「ロスでキアヌ・リーヴスの作品を撮るから来い」と言われたんですが、キアヌのケガでバラしになってしまったことがありました。そのアクション監督は降板して最終的にはユエン・ウーピンがやることになるわけですけど……その映画が、のちの「マトリックス」でした。とにかくその頃は、アメリカが香港映画の人材に目を付けだして、「マトリックス」や「チャーリーズ・エンジェル」のいわゆる香港風アクションが”カンフー”ならぬ“ワイヤー・フー”として話題になるような時代だったんです。ドイツのRTLというテレビ局でも、ドニー・イェンをアクション監督に招いたテレビシリーズを作ることになって、僕らも一緒に行ったんです。

──それがドラマ「THE PUMA ザ・ピューマ」ですか。

そうです。初年度は「PUMA」のテレフィーチャーを作ったんですが、その制作会社がケルンで「SK Kolsch」という刑事ドラマも撮っていて。そのうちの1エピソードで日本人役があったので出演することになり、「アクション監督もやってくれ」という話になりました。出来としては稚拙なんですけど、カット割りと編集を担当したという意味ではこれが最初のアクション監督作品です。

──初めてアクション監督をやってみて、感慨はありましたか?

まったくないですね。うまくいかないなあ、という思いだけでした。日本映画に久しぶりに参加したのは2001年の「血を吸う宇宙」という作品で、これは香港のアクションチームとしての参加でした。プロデューサーの一瀬(隆重)さんはその何年か前に香港で撮った「もういちど逢いたくて・星月童話」という作品でも一緒だったんですが、彼がその次に手がけた2001年の「修羅雪姫」という映画があって。そこにスタントコーディネーターという形で参加(※アクション監督はドニー・イェン)したことで、再び日本映画でも活動することになりました。2000年代はプラハの「ブレイド2」や香港の「ツインズ・エフェクト」「SPL/狼よ静かに死ね」「導火線 FLASH POINT」に参加しつつ、日本でもVシネや低予算映画のアクション監督をやったりという感じですね。毎回あまり感慨はなくて「やっぱりうまくいかないな」「今回はちょっとうまくいったけど反響がないな」って……結局その繰り返しでした。

最大の手応えはやっぱり「るろうに剣心」

──では、アクション監督として手応えを最初に感じた作品は?

最初の手応えで言うと「PUMA」かなあ。マイケル・ウッズとかジョン・サルヴィッティっていうドニーチームのおなじみメンバー(※ドニー・イェンの初期作品「クライム・キーパー 香港捜査官」「タイガー・コネクション」などから参加)に加えて、僕が下村くんと吉田さんを日本から連れて行って。アクションがあまり認知されていなかったドイツで、僕らは「砂漠にレールを敷いていくような作業」と呼んでたんですが、そのとき作り上げた現場の形が今でも生きています。

──日本では2012年以降、谷垣さんがアクション監督を務めた「るろうに剣心」シリーズが大ヒットしました。

最大の手応えでいったらやっぱり「るろ剣」ですね。大友啓史監督が、新しいことをいろいろと経験させてくれたんです。正直「るろ剣」は僕以外の誰かがアクション監督をやっていてもそれなりのものになったと思うけど、監督が大友さんじゃなかったら、絶対ああいう結果にはなっていないです。あとはキャストが、いわゆる“アクション俳優”とカテゴライズされるような役者じゃなかった。もちろんアクション俳優がやってもいいんだけど、テレビCMに出ているような、いわゆるお茶の間の人気者たちが、彼らのできる限界に挑戦しているところが、世の中に響いた理由なのかな。実はインして最初の2日間は思ったような画が撮れてなくて、僕と(スタントコーディネーターの)大内(貴仁)は「どうしよっか……」と話していたのを覚えています。その前にやった「カムイ外伝」で、日本のメジャー作品でアクションをやる難しさを知っていたので。それで「るろ剣」では、3日目の撮影開始時間までの2時間を使って“アクション部主導の追撮”みたいなことをしました。前の2日間で撮れなかった、アクションのパワーを強調するようなカットを10カットぐらいですかね……。やり方としてはちょっと乱暴だったので、監督が気を悪くしてないといいなあと思ってたんですが、大友監督は駆け寄ってきてくれて、「このやり方はとてもいいね!」と言ってくれたんです。寛大な監督で助かりました。それからは集団戦のアクションはうまくいこうがいくまいが、まずは一連で撮る。そこから必要なカットをピックアップで撮る、というやり方が確立しました。

監督の仕事は“我慢の作業”

──1月1日公開のドニー・イェンさん主演作「燃えよデブゴン/TOKYO MISSION」には、監督として参加されましたね。最初は別の作品を撮るために香港へ行ったそうですが……。

ははは、そうなんです(笑)。「スーパーティーチャー 熱血格闘」(※谷垣はアクション監督として参加)の前に、ドニーと別の冒険ものを撮る予定だったんですけど、スケールがデカすぎて……。世界各国でロケして、南極にも行かないといけないレベルだったので、これは無理だという話になって、香港を東京を舞台にした「デブゴン」を撮ることにしたんです。8月に企画が出て、12月にはインするくらいのスピード感でした。

──アクション監督は大内貴仁さんが担当されていますが、谷垣さんがアクション監督ではなく監督になった理由は?

なんかわかんないけど、僕がちょうど香港にいたので、「監督やれよ」って言われて。

──(笑)

監督というか、基本的にはプロデューサーのウォン・ジン(※香港版「シティーハンター」の監督としても知られる)や主演であるドニーのやりたいこと、そのほかのいろんな人のやりたいことを、ちゃんと現場で形にする役割という感じですかね。まあ、監督って確実にそういう側面もありますけど。だから、とてもじゃないけどアクションまで見きれないです。中途半端には絶対したくないし。今までいろんな日本人スタッフを連れて行ったけど、特に大内くんと下村くんはドニーからの信頼が厚いんです。大内くんは「るろ剣」でもずっとスタントコーディネーターをやってくれていたし、アクション監督として「HiGH&LOW」のような難易度の高い作品もちゃんと形にしている。何よりドニーや僕のことを理解してくれているので、安心してアクションを任せることができました。

──監督業をやることで、今後もアクション監督をやるうえでの気付きはありましたか。

最初は「スーパーティーチャー」をやりながら進めていたこともあって、アクション監督のクセが抜けていなくて。どうしても前に出ていろんなことをやってしまうんですよね。監督が専門的なことを全部指示してしまうと、周りは「はいはい、どうぞ」と引いてしまう。そうするとこっちは「あれ、周りはなんで動かないんだ? 俺以外はみんなサボってるじゃないか」となるわけです。撮影の中盤でものすごく怒ったことがあって、「お前らがそんなんだったら、俺はもう何もしない! 勝手にやれ!」ってなったんですよ。すると、その日の現場はすっごくスムーズに進んだんですよ(笑)。僕みたいなアクションの人間が前に出て動いてしまうと、それが1つの答えになってしまって、他人の想像力が膨らまなくなってしまうんです。だから監督業とは、基本的にはいくつものバックアッププランを用意しながらも各部署から何かが出てくるのを待つ、我慢の作業だと思いましたね。「言ったほうがいかなあ、でも……」って悩んでいると、ドニーが出てきて全部バババッと言って、僕の我慢を台無しにしてしまうこともありましたけど(笑)。

──なるほど(笑)。

それもドニーは、その日その日で違うことを言い出すので(笑)。最初は「1980年代にあったようなアクションコメディって、最近ほぼ存在してない」という話から始まって。すごいアクションとゆるいコメディが同化した、香港らしい作品をやりたいということで企画がスタートしたんです。もちろんそこからブレてはいませんが、ドニーが「ここでロマンティックコメディの要素を入れるべきだ。痴話喧嘩していた2人が、表参道のイルミネーションの中で踊り出すんだ!」と言い出すので、ああ、絶対に昨日「ラ・ラ・ランド」を観たんだろうな……みたいな(笑)。「ここは童話スタイルのパッケージにしたい!」って言い出したときも、絶対昨日ドリームワークスの作品を観たんだろうな……って(笑)。前の晩に観た映画によって言うことが変わるから、それをうまくまとめながら進めていくというね、なかなかな体験でした(笑)。

※「SK Kolsch」のoはウムラウト付きが正式表記

谷垣健治がアクション監督という職業や、今後の日本アクション界について語る後編は近日公開!(参照:アクション監督:谷垣健治(後編)「安全な現場で危なく見える映像を」

谷垣健治(タニガキケンジ)

1970年10月13日生まれ。奈良県出身。 1989年に倉田アクションクラブに入り、1993年単身香港に渡る。香港スタントマン協会(香港動作特技演員公會)のメンバーとなり、ドニー・イェンの作品をはじめとする香港映画にスタントマンとして多数参加。2001年にドラマ「SK Kolsch」でアクション監督デビュー。2018年台湾の金馬奨にて「邪不圧正」(日本未公開)で最優秀アクション監督賞を受賞。2019年にはDGA(全米監督協会)のメンバーになっている。監督を務めたドニー・イェン主演作「燃えよデブゴン/TOKYO MISSION」が1月1日に公開。アクション監督を務めた「るろうに剣心」シリーズの最新作「るろうに剣心 最終章 The Final」は4月23日、「るろうに剣心 最終章 The Beginning」は6月4日より全国ロードショーとなる。「G.I.ジョー:漆黒のスネークアイズ」は2021年10月22日に全米公開される予定。

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