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『若草物語』に『ミッドサマー』も 話題作への出演続くフローレンス・ピューの“陰と陽”の魅力

リアルサウンド

20/6/18(木) 10:00

・太陽と月を併せ持つデビュー
 
 処女作にはその作家のすべてが詰まっているといわれるが、それは俳優という職業にも当てはまるようだ。フローレンス・ピューのデビュー作『The Falling(原題)』(キャロル・モーリー監督/2016年・日本未公開)には、この女優が進むであろう輝かしい未来の伸びしろの多くがすでに見出せる。女子校で起こるオカルト現象を扱った『The Falling』において、フローレンス・ピューはその大胆さと繊細さを常に行き来する不安定な魅力を振りまく少女アビゲイルを鮮やかに演じている。アビゲイルは冒頭30分で画面からほぼいなくなってしまうにも関わらず、観客は体感的に常にアビゲイルの気配を感じてしまう。アビゲイルが常に画面に降霊しているという点が、この作品の恐ろしいところであり、キャロル・モーリーの演出上の狙いでもある。

参考:場面写真はこちらから

 まず驚かされるのは、このデビュー作におけるフローレンス・ピューの顔への光の当て方、被写体としての光の当たり方だ。ジャン・リュック=ゴダールの作品を始め、ヌーヴェルヴァーグの撮影監督として名高いラウール・クタールが言うように、「光を集めてしまう顔」というのは、ごくごく稀に発見される。フローレンス・ピューの顔はまさにそれに当て嵌まるようだ。このことにとても敏感なキャロル・モーリーは、クローズアップを多用することで、肌の在り方そのものを画面に焼き付け、見る者の瞳の中にアビゲイルの残像を残していく。光を集めてしまうフローレンス・ピューが後年、まさに光による恐怖を描いた『ミッドサマー』のヒロインを務めたことは、極めて運命的なことのように思える。フローレンス・ピューの場合、この光の当たり方が月にも太陽にもなり、その陰と陽を自在に反転させてしまえる速度が、この女優を特異な存在にしている。

・『マクベス夫人』の衝撃
 
 フローレンス・ピューが最初に決定的な評価を受けることになる次作『マクベス夫人』(ウィリアム・オールドロイド監督/2016年・京都ヒストリカ国際映画祭で上映)では、陰と陽を反転させる光の速度は、むしろその強度を確かにする段階へ移っている。全編を通して劇伴が最小限に抑えられた本作では、屋敷の空間に響く人の声や物音、人と人の接触音をクリアに録音することに、とてつもない神経が注がれている。たとえば後に不倫関係となる使用人との言い争いで、マクベス夫人が使用人の指を咬んでしまう「コリッ!」という音が過剰なほどクリアに録音されており、この指を咬む音が、危険なまでにエロティックな音だということが、物語の伏線上で分かるように設計されている。いわば物音が全編のサウンドトラックになっているといって過言ではないのだ。殺害のシーンにおいても、固定されたカメラは殺害の行為と物音だけを人物の背後から記録する。『マクベス夫人』は、こういった鋭利な演出を含む傑作であり、ジョン・ウォーターズはこの作品を年間ベストの8位に選んでいる。

 この作品で、マクベス夫人は大きな目を見開き、自分を大きく見せながら、大きな嘘をつく。フローレンス・ピューは持ち前の大胆さでそれを表現しながら、瞳の奥で怯える。このシーンで重要なのは、マクベス夫人が一世一代の嘘をついていることを観客はすでに知っているという点であり、自信に満ち溢れた尊大な冷酷さと罪悪感による怯えを同時に表象してしまえる、いわば「太陽」と「月」を同時に画面に提示してしまえるフローレンス・ピューには技術というよりも才能という言葉こそがふさわしい。話されている言葉の奥を、話者の瞳の奥から観客に読ませるという、映画の持つ原始的且つ、パワフルな表現に成功している。同じく『マクベス夫人』で興味を引くのは、フローレンス・ピューのまだ短いキャリアの中で何度も反復されている行為がここで初めて披露されることだ。マクベス夫人がドレスの背中の紐をメイドにきつく締められる官能的なシーンである。この行為はザック・ブラフの作品で繰り返され、グレタ・ガーウィグの作品で、ティモシー・シャラメによってその紐が緩やかに解かれる。こうした個々の作品単位ではなく、フィルモグラフィーを通した繋がりが生まれるのは、ほとんど運命的なことに思える。

・『ミッドサマー』自律の駆動

 処女作からたったの二作で披露された女優の刻印を、根拠のある才能の刻印だと多くの人に認めさせたのが、大ヒット作『ミッドサマー』(アリ・アスター監督/2019年)である。本作はフローレンス・ピューにとって、ここまでの集大成的な作品となっている。『ミッドサマー』は、冒頭のシーンにダニー(フローレンス・ピュー)の悲痛な叫び声と、極めて印象的な大泣き(「ノー!ノー!ノー!ノー!ノー!」というあの声!)を持ってくることで、この叫びを作品全体に残響として響かせる。カルト教団に吸い寄せられるかのように誘惑され、魅了されていく一人の女性を演じるにあたって、フローレンス・ピューは冒頭の叫びによってカラカラに空洞となってしまったダニーの身体の移ろいを見事に表象している。

 では、ダニーの空洞となった身体は何によって浸食され、何によって満たされたのか? マクベス夫人が誘惑に対して受け身の態度をとっているかのように見えながら、その本質は自発的に構えていたように、ダニーは誘惑に対して隙を露呈させながら、むしろ自発的に、ときに攻撃的なまでに目の前の事態に挑み続ける。ダニーは誘惑に対して引き裂かれた二つの感情を常に両手に抱えながら、光の射す方へ歩んでいく。心身の空洞は光によって浸食され、光によって満たされていく。ダニーにとって自立=自律とは光によって駆動されるものなのだ。その意味において『ミッドサマー』は、フローレンス・ピューのここまでのキャリアそのものを象徴する作品といえるだろう。

・ファンタジーとリアリティの境界

 父母兄妹の構成によるプロレスの家族興行を描いた次作『ファイティング・ファミリー』(スティーヴン・マーチャント監督/2019年)で、フローレンス・ピューはゴスなメイク(劇中で「ドラキュラ」と罵られる)に扮して、新たな挑戦を試みている。才能を認められた妹と、認められなかった兄の摩擦や、結局のところモデルのような女の子ばかりが持て囃されてしまう業界で自分を見失ってしまう展開など、極めてシンプルな二項対立と比較の物語構造を持ちながら、いくつもの感情のレイヤーが複雑に張り巡らされた傑作である。

 本作の主人公を演じるにあたって、フローレンス・ピューは「ファンタジーとリアリティの境界にあるもの」と、プロレスについての分析をしている。実際、本作の四角いリング上でのパフォーマンスは、カメラの前で演じることを演じる、という二重の構造を持っている。これは本作の持つダイナミズムの一つとなっている。フローレンス・ピューは虚像がカメラに記録されることのドキュメンタリー性に意識的、図式的に身を曝している。ザ・ロック(ドウェイン・ジョンソン)の「(リングの上では)自分を表現しろ」というアドバイスは、このスポットライトの中で「どうやって(ファンタジーを)演じたらいいのか?」という問いへの孤独なリアリティを浮かび上がらせる。

・『若草物語』光の行方

 グレタ・ガーウィグとシアーシャ・ローナンによる、映画作家と女優の決定的な結びつきに感極まる大傑作『ストーリー・オブ・マイ・ライフ/わたしの若草物語』(グレタ・ガーウィグ監督/2019年 以下、『若草物語』)において、フローレンス・ピューは、四姉妹の末っ子・エイミーの像に新たな息吹を吹き込んでいる。四姉妹による物語上での、そして演技上でのオーケストラ的、交響楽的なアプローチ(四姉妹のお喋り!)がとられた本作において、エイミーは主人公ジョー(シアーシャ・ローナン)と同じように情熱的ではあるが、どこか現実感を滲ませているところが夢想家であるジョーとの最大の違いであり、本作のコントラストにもなっている。四姉妹それぞれが属するところ(ジョーなら小説、ベスならピアノ)とキャラクターの造形を、各々のファーストショットで適確に示していくグレタ・ガーウィグの冴えわたった演出に倣い、エイミーは陽だまりの下で絵を描くシーンで登場する。ジョーとローリー(ティモシー・シャラメ)による、身振りが情熱を生んでいく素晴らしいダンスシーンに象徴されるように、『若草物語』では感情の機微が、俳優のジェスチュアと交錯する視線の数々によって映画の文法として華開いている。

 それはローリーをめぐる二人の女性の対比にも見出せる。エイミーは陽だまりの下でローリーを発見する。ジョーは暗がりの部屋でローリーを発見する。この二つのシーンで、グレタ・ガーウィグは、ローリーの二人の女性に対する感情の躍動にコントラストを加えている。大きな光に照らされて登場したにも関わらず、その恋がほとんど報われないように見えてしまうエイミーは、これまでのフローレンス・ピューが演じてきた肖像の在り方に倣っている。しかし、グレタ・ガーウィグとフローレンス・ピューは、エイミーという肖像にジョーとはまったく違った形で、独立した一人の女性としての光を当てる。絵描きになる夢を諦めたエイミーに「自分を描いて(素描して)ほしい」とお願いをするローリーのジェスチュアこそが新たな光の絵の具になっていく。冒頭でエイミーを照らした陽の光が、思いの成就をそう簡単には導いてくれなかったように、それは必ずしも完璧な幸せを照らしてくれる光ではないかもしれない。しかしだからこそ、四姉妹それぞれに当てられた光は、それを見る私たちそれぞれの肖像を浮かび上がらせる光として返還される。グレタ・ガーウィグと素晴らしいキャストたちが描く『若草物語』は、「わたしやあなた」を素描する光として記憶されるのだ。 (文=宮代大嗣)

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