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フランス映画を楽しむ秘訣は“おしゃべり”にあり!? 『冬時間のパリ』が描く大人の恋愛観

リアルサウンド

19/12/20(金) 18:00

 会話、会話、会話。恋愛や夫婦の関係、仕事の悩みなどが描かれたフランス映画『冬時間のパリ』は、邦題のとおり冬のパリを舞台に、大人の会話が全編を彩る、楽しい作品だ。

 恋愛と会話劇との組み合わせは、人によってはそれほどピンとこないかもしれない。日本においては、“恋愛感”を強調することが恋愛映画の基本であり、そのためには、会話シーン以外に恋を盛り上げるロケーションやロマンティックな音楽などがバランス良く配置されるべきだという考えが根強く、仕事(学生であれば勉強)の話は、あくまで添え物に過ぎないことが多い。登場人物たちが、なんとなく会社勤めをしているシーンがあるだけで、何の業界で働いているのか最後まで分からない場合すらある。

参考:オリヴィエ・アサイヤス監督、映画と出版業界を語る 「バーチャルなものと共存して残っていく」

 だが本作は、出版業界がデジタル化に直面することで起こる危機や、小説家の作品に対する悩みなどの話題が、言葉によって交わされていくのだ。なので、直球の恋愛映画を期待すると違和感を与えられるかもしれない。だが、誤解をおそれずに言うなら、このような表現こそが、“大人のフランス恋愛映画”の真骨頂なのである。ここでは、そう言える理由を、本作『冬時間のパリ』の内容を追いながら説明していきたい。

 本作の監督を務めたのは、数々の国際的な賞を獲得してきた、オリヴィエ・アサイヤス。香港の女優マギー・チャンを主演に、キャットウーマンのような姿にした彼女を、パリを舞台に映し出した『イルマ・ヴェップ』に代表されるように、“ちょっと変わった映画”を撮ってきた監督だ。今回は趣を変え、ウディ・アレン監督作を彷彿とさせる、洒脱な会話を主体にした作品に挑戦している。だが、この新しい試みは驚くほどフィットしている。というのも、アメリカ人のウディ・アレン監督の作品には、もともとヨーロッパ映画のテイストが含まれており、近年はヨーロッパ各国で映画を撮ることも多い。この手法が、フランスのアサイヤス監督に合うのは、むしろもっともなことなのかもしれない。

 そして、いまフランスを代表する女優といえば、多くの人が思い浮かべるのがジュリエット・ビノシュ。本作では、編集者の夫を持った女優・セレナを演じている。目を引くのは、“冬仕様”のビノシュの可愛らしさだ。清楚で凛としたイメージのあるビノシュだが、ここではロシアン帽や襟ボアのジャケット、ニットなど、全体的にモコモコ感のある服装が様々に登場して、目を飽きさせない。

 ギョーム・カネが演じるアランは、セレナの夫で、颯爽とした中年の敏腕編集者だ。彼はSNSや電子書籍など、デジタル化の波が押し寄せるなか、出版業界で奮闘している。くわえて登場するのは、もう一組の夫婦。アランの友人で小説家のレオナール(ヴァンサン・マケーニュ)と、その妻で政治家の秘書を務めているヴァレリー(ノラ・ハムザウェイ)。

 じつはこのふたつの夫婦、ヴァレリーを除く3人までが、夫婦関係にない相手と秘密の関係を持っていた。編集者のアランは出版社のデジタル担当を務める、若い女性ロール(クリスタ・テレ)に手を出しているし、あろうことかセレナはレオナールと、レオナールはセレナと浮気していたことが明らかになる。

 観客は、早い段階で二組の夫婦の秘密を知ることになるが、登場人物たちはそれぞれ秘密を隠しているため、秘密の全貌を把握しているのは観客だけである。その前提で交わされる、言い訳や誤解が混じった登場人物たちの会話が、全てを知っている観客にとってニヤニヤできるものとなっているのだ。

 彼らの会話の口にする話題は様々ながら、やはり書籍に関連することが多い。「ツイッターで作家以外に誰もが発信者になったこと」「電子書籍で既存の本が売れなくなること」「インターネットにはびこるフェイクニュース」……つまり、デジタル化という新しい波によって出版業界がどうなってしまうのかという不安が語られるのである。最も脅威を感じているのは、もちろん編集者のアランであろう。

 アランはプレイボーイ風ではありながら、マラルメの詩や、ルキノ・ヴィスコンティ監督によって映画化された『山猫』の一節を咄嗟に暗誦することができる、知識に優れた、仕事上は真っ当な編集者である。だが、デジタル担当のロールは、生身の人間を必要としないロボット検索を積極的にとり入れることによって、編集者不要論ともとれる“出版改革”を提案し始める。アランのようなノウハウや文学知識は、これからは要らないというのである。『山猫』で、権勢を誇っていた貴族が時代に合わせて変わらざるを得なかったように。

 さて、これらの話がどう恋愛に関係してくるのか。アランは、書籍の文化を守りたいと考えつつも、じつは浮気相手のペースに引っ張られ、電子化をはじめとしたインターネットを利用するサービスを進める荷担をする事態に陥っており、またセレナも、アランがレオナールの小説をけなすと、レオナールに助け船を出し、出版させてあげようとしていることが、注意深く見ていくと分かってくる。そして登場人物たちは、自分の恋愛している相手に強く影響されていて、それが会話の端々に見えてくるのだ。レオナールの妻のヴァレリーもまた、自分が仕事で奉仕する政治家に、強く肩入れしているのである。

 「恋か仕事か」というフレーズがあるが、そのふたつは、まったく切り離されているかというと、そうでない場合もあるだろう。映画解説を長く務めていた、日本を代表する映画評論家・淀川長治は、フランス映画を「恋」と表現した。つまり、フランス映画には恋愛の要素がつまっている場合が非常に多く、恋愛体質が染み込んでしまっているというのだ。

 恋愛の本質とは何だろうか。それは突き詰めると、“お互いを理解し合う”ということであろう。では、どうやって分かり合うのか。肉体的な接触という意見もあるだろうが、もっと深く相手を理解するためには、やはり言語によるコミュニケーションが不可欠である。相手が仕事で悩んでいるという事実を知ることなく、外見の良さや表面的な態度ばかりに終始していては、「相手を理解した」とはいえないだろう。そして、互いに意志を疎通することで、影響を与え合う。それが大きければ大きいほど、互いの仕事や人生に変化を与えるはずなのだ。

 そして恋愛を描き続けてきたフランス映画は、そのことを知り尽くしている。さらにその土台にあるのは、論理を重んじるヨーロッパ文化である。その意識には、日本語を、どこか情緒的なものだと思いがちな日本人の言葉へのそれとは、根本的な違いがあるように思える。

 ある種のフランス映画においては、恋は恋で終わるのでなく、人生そのものであるといえる。だからこのような作品では、恋愛描写において、ことさら恋愛を恋愛としてショーアップすることはない。人生を映し出せば、それが自動的に恋を描くことになるのである。そして、本作で大きな事件となる、出版社をめがけた買収劇ですら、恋愛を象徴するもののよう感じられるのだ。

 この“さりげなさ”は、ロケーションにも表れている。本作は、パリの中心部から東にかけての場所が多く登場するが、パリを絵はがきのように、観光的なものとしてとらえてはいない。屋根の見えるアパルトマンや、バー、カフェ、アイリッシュパブなど、登場人物たちの生活に根ざした光景が、あくまで自然に映し出される。ここではパリ旅行ではなく、パリの生活者の視点が味わえることになる。このような気取らない態度が、恋と人生の深い味が染み込んだ本作を、さらに大人の味わいにしている。 (文=小野寺系)

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