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【ネタバレあり】『キャプテン・マーベル』はなぜ分かりやすい直球のヒーロー映画になったのか?

リアルサウンド

19/3/21(木) 10:00

 マーベル・スタジオ初となる、単独女性ヒーロー映画『キャプテン・マーベル』。2015年にアカデミー賞主演女優賞を獲得したブリー・ラーソンが演じる、マーベルのヒーローたちのなかでもとりわけ強大なパワーを持つ女性ヒーローが悪をぶっとばす快作だ。世界中で大ヒットをとばしていて、日本でも初公開の週末までの3日間で動員40万人を超えるなど好調だ。

参考:初動3日間で6億円突破 『キャプテン・マーベル』、MCU大団円に向けて幸先の良いスタート

 そのヒットの理由にあるのは、あまりにも衝撃的な内容だった『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の存在も大きいだろう。そこで描かれた、銀河の命運がかかった戦いのなかで、キャプテン・マーベルが一筋の希望として示される場面があり、アベンジャーズの集大成として公開される『アベンジャーズ/エンドゲーム』を観るためには、『キャプテン・マーベル』をも事前に観ておかなければならないという空気が作られたのだ。ビジネスとして抜け目のないやり方だが、いままでも複数の作品をクロスオーバーさせることで相乗的な価値を生み出してきたマーベル・スタジオ作品にとっては、これは通常の対応でもある。

 では、アベンジャーズから離れて、本作 『キャプテン・マーベル』を単独として観たときの出来はどうだったのだろうか。私が目にし、聞いた限りの評判では、悪し様に言うような感想はほとんどなく、観客の評判はだいたい2つに大別されるように感じられた。それは、「最高!」と絶賛する声と、「なんか、普通だった……」という声である。もちろん、“最高”と“普通”には大きな隔たりがある。しかしその2つは、今回に限ってはたしかにその通りではないかとも思えるのだ。つまり、ある意味で“普通”であり、同時に“最高”な状態。これらが矛盾なく両立していると感じられるのである。

 『アイアンマン』より始まった、マーベル・スタジオによるヒーロー映画シリーズも、もう10年続いている。登場するヒーローが増えてきて、後続となる各作品の悩みの種になってきているのが、いわゆる“オリジン”にまつわる問題である。

 オリジンとは、ヒーローの活躍を描くアメリカンコミックにおいて、主人公がヒーローになるまでの流れを見せていく物語のことだ。シリーズを見続けている観客のなかには、一人ひとりのオリジンを個別に見届けていくのは、さすがにつらい部分があるという人も少なくない。近年、それを回避するために『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』のように直接的にはその過程を描かなかったり、『ブラックパンサー』や『スパイダーマン:ホームカミング』のように、関連作のなかで顔見せが済んでいることを理由に、オリジンをほぼ無視してしまうケースも出てきた。

 『キャプテン・マーベル』にも、そのあたりの工夫は見られる。後にキャプテン・マーベルとなる主人公ヴァース(ブリー・ラーソン)が登場時にはすでに記憶喪失になっていて、出自を自らが捜査するという、ちょっとしたミステリーのような展開が、本作にはある。とはいえ、この設定には弱点もあるのではと思える。本作がその大部分を費やして明らかにするのが彼女の経歴である。そして、その経歴の中身そのものこそがオリジンなのだ。つまり本作は、ほとんどがオリジンにとらわれた物語ということになる。

 これは、最近の多くのヒーロー作品に見られる、オリジン部分をできるだけ手際よく短めに終わらせ、そこから続く新しい物語によって観客を惹きつけるという試みと逆行するものである。だから、本作に対する「普通」という感想の一部には、ミステリー仕立てとはいえ、結局は、ヒーロー映画にありがちな、ヒーロー誕生までの過程を見せられることへの不満が幾分含まれているように感じられる。

 だが、本作にはどうしてもそれを描かねばならないという事情も存在する。そして、それこそが本作の“核”となるものなのだ。このことが理解できるかどうかで、評価はかなり違ってくるはずである。その事情とは、一人の女性として物心ついたときから差別されるという、世の中の理不尽な力と戦い続けてきた、主人公ヴァースの姿を描く必要があったということだ。ミステリー仕立てにしたのは、それをなんとか見てもらおうという工夫であろう。

 本作の背景となるのが、銀河を舞台にした、クリー人とスクラル人との星間戦争である。ヴァースはクリー人のエリート特殊部隊“スターフォース”の一員として、スクラル人に打撃を与えるミッションに従事していた。そんなヴァースがジュード・ロウ演じる男の上官と格闘訓練するシーンは興味深い。格闘術においては上官が勝り、訓練でヴァースは敗北を繰り返している。しかし、彼女は拳から圧倒的なパワーを放出するという技を持っていた。それを使えば、格闘などするまでもなく一瞬で上官を制圧できるのである。にも関わらず、彼女はその力を封印しながら戦い、戦闘能力において彼女をはるかに下回る上官に説教を受ける。

 さらにヴァースは、「感情を抑制しろ」とまで言われる。これは、節度ある指導のように見えて、「疑問を持たず俺の命令に従っていろ」ということを、体裁良く伝えているだけのようにも感じられる。そしてその事実に、彼女はまだ気づけていない。このような、何かもっともらしい理由をつけて女性の上に立とうとする男性という構図は、現実にもよく見られる。それら事例があまりにも無数にあり、既存の文化とも密接に絡み合っているために、女性の側も、なんとなくそういうものだと納得している場合がある。

 ヴァースの深層に残された記憶の断片が明らかになるにつれ、彼女がそんな経験を少女の頃から何度も何度もしてきたことが分かってくる。彼女は男性の多い環境の遊びやスポーツ、そして空軍パイロットの仕事に挑戦し、少しでも遅れをとると、「やっぱり女だ」、「でしゃばるんじゃない」と言われ続けてきたのだ。だが、その度に彼女は奮起し、「自分にはできる」と、何度も何度も立ち上がってきた。そして努力を繰り返すことで、周囲には無理だと言われ続けてきただろう、“空を飛ぶ”という夢を勝ち取ることになる。その時点で彼女はすでにヒーローになっているのだ。

 そしてその姿は、社会における“女性”の歴史の象徴でもある。人種差別同様、女性はこれまであらゆる場面で、筋の通らない理不尽な理由によって抑えつけられていた。男性があらゆる分野でのびのびと活躍するなかで、サポートに徹したり、一歩引いて男性を立てるような役割を強いられてきた。しかし、そんな現実にあきらめず抵抗することで、一つひとつ、女性は権利をつかみ取ってきたことも確かだ。だが人種差別と同じく、性差別の解消はまだ道半ばである。

 そんな偏見・差別は、本作では性差別以外にも描かれる。90年代を舞台にした物語のなかで、多くの店舗数があったレンタルビデオ店が登場する。そこで描かれる、アーノルド・シュワルツェネッガー主演のアクション大作『トゥルーライズ』の立て看板が破壊される場面が印象深い。本作の監督が述べるように、ここでの描写は、『トゥルーライズ』を批判する意図ではなく、尊敬する意味で使われているようだ。とはいえ、『トゥルーライズ』は、中東のテロリストを悪役にしたことで、アラブ系のアメリカ人のなかで批判が起こった経緯がある作品でもある。

 一方、『キャプテン・マーベル』では、はじめは危険なテロリストだと思っていた種族が、じつは難民だったことが明らかになる。そして、正義だと信じていた戦争が、じつは憎悪を煽る侵略行為だったことにも気づく。偏見を助長することで起きる人種差別も女性差別も、それがはびこる裏では、誰かが不当に利益を得ている。このシステムは根本的なところでつながっているのだ。

 女性を抑えつけようとする男性の心理というのは、奇しくも本作が世に出ることでも証明されてしまう。映画の評判をユーザーの支持によって数値化するアメリカのウェブサイトにおいて、本作は大勢の不当な嫌がらせによって、低評価をつけられるという事態に陥ったのだ。

 本作では、そんな卑劣な男を象徴する悪役が、キャプテン・マーベルによって、文字通り彼方までぶっ飛ばされる。社会のなかで力を発揮しようとする女性にとっての最大の敵は、あの手この手で彼女たちの可能性を抑えつけ、不満の矛先を違う方向へ誘導しようとする男性、そして男性優位の社会だ。そこで勝負することは、本作で述べられたように、「縛られながら戦う」ということと同義である。

 いままでヴァースは、呪縛を乗り越えて戦ってきた。だが記憶喪失になることで、そのことを一時忘れていただけなのだ。強大なパワーを得て、あらためてそのことに気づいた彼女は、覚醒したキャプテン・マーベルとして、いままでマーベル・スタジオ映画で活躍したヒーローのなかでも、最強の力を発揮する。あの超絶な怪力を誇る超人ハルクよりも、神の雷で他を圧倒するマイティ・ソーよりも強い。そんな素晴らしい可能性が、彼女の内に隠されていたのだ。

 そんなキャプテン・マーベルが活躍する、ヒロインではない、純粋な女性のヒーロー映画。こんな映画が、いままで作られるべきではなかったのか。内なる可能性を最大限に発揮し、宇宙へと颯爽と飛び去っていく彼女の姿を見つめ憧れる一人の少女は、女性の観客を代表する存在として描かれている。

 普通にオリジンが描かれ、普通に敵を倒す。たしかに本作の内容はきわめてオーソドックスだ。しかし、添え物でもサポート役でもない、そして大きなひねりもない、こんな分かりやすい直球のヒーロー映画だからこそ、本作は女性の映画として輝く。『キャプテン・マーベル』は、そのような意味から、“普通”であり、“最高”なのだ。

 マーベル・スタジオでは、マーベル初のアジア系ヒーロー“シャン・チー”映画化企画の制作も進んでいるという。先に公開されている、アフリカ系のヒーロー映画『ブラックパンサー』も同様、既存の文化に根付いた偏見の壁を、次々に壊していくマーベルの取り組みを、これからも楽しみにしていきたい。(小野寺系)

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