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【ネタバレあり】『フォードvsフェラーリ』がラストシーンで到達した“マン映画”からの解放

リアルサウンド

20/1/21(火) 10:00

 アメリカのフォード・モーターとイタリアのフェラーリが、会社同士のいさかいをきっかけにして、60年代にレースで火花を散らした史実を基に、奇跡のようなレースカーの開発を成し遂げた男たちのドラマを描く、映画『フォードvsフェラーリ』。アカデミー賞作品賞へのノミネートを果たすなど、すでに高く評価されている一作だ。

参考:『フォードvsフェラーリ』が描いた“どこまでも企業化していく世の中”で生きる術

 しかし本作は、そう聞いてイメージする、実際の開発秘話を描いた映画とは、かなり違った印象のものとなっていた。ここでは、そんな『フォードvsフェラーリ』が、何を描いていたのかを、できる限り深く考察してみたい。

 ハリウッドの大手スタジオには、“眠っている企画”がいくつも存在する。例えば、デイミアン・チャゼル監督作品『ファースト・マン』(2018年)は、もともとクリント・イーストウッド監督が撮るはずの企画だったが、内部的な事情により製作に入らず、そのまま手付かずとなっていたところを、チャゼル監督が手をあげたことで再び始動することになったのだ。

 同様に、本作は当初、マイケル・マンが監督するはずの企画だったという。それが流れた後、『トップガン マーヴェリック』(2020年予定)のジョセフ・コシンスキー監督とトム・クルーズのコンビに移り、さらにはブラッド・ピット主演企画となるなど、二転三転したのち、今回のジェームズ・マンゴールド監督、マット・デイモンとクリスチャン・ベールのダブル主演というかたちに落ち着いた。

 マイケル・マンといえば、監督作『ヒート』(1995年)に象徴されるように、男と男の熱いドラマを描かせれば随一の監督だ。そう聞くとこの企画は、まさに文字通りマン監督の“マン(男の)映画”であったのだろう。

 本作を実際に手がけたマンゴールド監督も、ある意味そんな“マン映画”を撮りあげている映画作家だ。クリスチャン・ベール出演の西部劇『3時10分、決断のとき』(2007年)や、死にゆく男の精神を描いたヒーロー映画『LOGAN/ローガン』(2017年)は、アウトローの生き様を描いている。『LOGAN/ローガン』の予告編や主題歌にジョニー・キャッシュの曲が使われていることも象徴的である。

 この企画は、短期間で優れたレースカーを開発した事実を、様々な開発者の視点から描く、例えばNHKドキュメンタリー『プロジェクトX 挑戦者たち』のようなアプローチの方が、一連の出来事をより正確に語れたはずだ。当初の企画でも、本作の最終的なかたちよりも多くの登場人物にスポットライトが当てられ、アンサンブルを構成する予定だったという。

 しかし、本作ではあくまで、キャロル・シェルビー(デイモン)とケン・マイルズ(ベール)の物語を描く内容へと舵をきっている。事実よりも娯楽性と男たちの孤高の存在が前面に押し出されている。つまり、その意味ではマンゴールド監督は、本作をより“マン映画”へと押し上げようとするのだ。企画が新しい監督に移る際、それにあわせて脚本も新しく一新されるケースがある。これも、チャゼル監督の『ファースト・マン』と同じ経緯である。

 同時に本作では、登場人物ができる限り省略・脚色され、レースの責任者に就任したフォード上層部のレオ・ビーブも、悪役として史実以上に醜悪な存在として描写されている。良くも悪くも、エンターテインメントとして極度に単純化された、典型的なハリウッド娯楽作品となっているのだ。

 そうやって収斂されていくのは、シェルビーとマイルズ、ふたりの男が生きた“ひとつの世界”である。マイルズの影響によってレースのことしか頭にない息子が、あるエンジニアにレースの経験があるかと問う場面がある。当時は、現在と比べてレーサーに対する安全性が低かった。一瞬の判断ミスや、ちょっとした車体のトラブルが即死を招くことになる可能性が非常に高い危険な状況下で、極限的なスピードに挑むドライバーたちは、フォード二世がその世界の片鱗を体験しただけで泣きじゃくってしまうシーンが象徴していたように、一般の人々からすると異次元の存在といえる。

 経営や開発など、車に人生を懸ける人々であっても、一瞬一瞬に命を懸けられる人間と、そうでない人間の間には、高い壁があるのだ。本作のなかで語られる、車体の機能や安全面で不安のある当時のレース界で、レッドゾーンを踏み込んだ“7000回転の世界”を体験した者となれば、さらに限られることになる。それを経験したことのあるシェルビーとマイルズの繋がりは、戦場を経験した兵士たちが、「同じく地獄を見て死線をくぐり抜けた仲間同士でなければ真に分かり合えない」と感じる感覚に近いかもしれない。

 エンジン、スキール、エキゾーストパイプから放たれる音を、マシンと一体化しながら自らの鼓動のように身体に感じているドライバーは、猛スピードのなかで逆に引き伸ばされゆったりと流れる時間のなかで、命を運命に差し出しながら、コース上に現れる“何か”を見るのである。それは、彼らにとって神の姿なのかもしれない。 ケン・マイルズが、夕闇のコース上で、その経験をうっとりとしながら息子に語るシーンは、本作でも最も美しく撮られている。

 マット・デイモン演じるシェルビーの見せ場となるラストのシークエンスは、さらに素晴らしい。シェルビーはマイルズを亡くした後、彼の家を訪れ、妻のモリーに挨拶しようとする。おそらくは、ケン・マイルズの人生が幸福だったということを伝えるために。しかし、その内容がどうしても言葉にできない。心にあるものを口に出したとしても、それはケン・マイルズにしか理解できないだろう。だから、彼女とは離れた場所で声を交わさずに別れるしかなかった。

 そこに現れた、マイルズの息子に対しても、彼との関係を言いよどんでいると、息子は、「パパはおじさんの“友達”だったんでしょ」と言葉を投げかける。息子もまた、“7000回転”の世界を知らない。しかし、父親があのとき語りかけた話によって、その世界は存在し、限られた者だけがそれを体験できることを知っているのだ。

 そのときシェルビーは、ケン・マイルズとの出会いこそが、心臓病のためにあきらめた、第2のレース人生だったことに気づく。彼の死が、シェルビーの青春に終わりをもたらしていたことに。そのことに気づいていなかったからこそ、彼は事業に身が入らないまま半年を過ごしてしまっていたのだ。

 目をつぶり、エンジン音に耳をすませながら、自分にとって最も輝かしい時代へと別れを告げるシェルビー。遅かれ早かれ、いつかは誰もが経験する一瞬である。世界は美しい。そして同時に残酷なものである。この瞬間、本作は“マン映画”から解き放たれ、誰もが共感することのできる普遍的な力を持つことになる。ここに到達したことで、本作は身勝手な男の狂騒だけには終わらない、力強さを得た映画になったのではないだろうか。(小野寺系)

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