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『エイス・グレード』はSNS時代の『ライ麦畑でつかまえて』? 作品に宿る普遍的なメッセージとは

リアルサウンド

19/9/19(木) 12:00

 作品の送り手はピッチャーであり、受け手はバッターであるという比喩がある。社会に向けて作品を送り出す作家は球種を選び、コースを狙い澄ます。ストレートかカーブか。インハイで観客の胸元をつくのか、批評家の手の届かないアウトローに決めに行くのか。アメリカ映画界がメジャーリーグだとしたら、あらゆる映画監督がピッチャーとして観客の意表をつき、批評家のバットに空を切らせ、ストライクアウトを取るためにしのぎを削っている。

参考:『エイス・グレード』場面写真はこちらから

 撮影当時28歳のボー・バーナムはこの『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』が初の監督作品になる。まったくのルーキー、新人投手がアメリカ映画という世界最大のメジャーリーグのマウンドに上がったわけだ。アメリカの観客は新人にやさしくはない。最大の映画批評サイト「ロッテントマト」は、つまらない作品に投げつける腐ったトマトという意味である。少しでも甘く入ればたちまち批評家のバットがうなりをあげ、観客からは腐ったトマトとブーイングが降りそそぐ。YouTube出身の新鋭は、果たしてどんなクールで尖った、SNSネイティブ世代のティーンネイジ映画を見せてくれるのか? そういうプレッシャーの中で彼が投じた監督人生の第1球がこの『エイス・グレード』だった。

 結論から言うと、この映画はとてもストレートな映画だ。それも160kmのうなりをあげる豪速球ではない、とてもゆるやかでまっすぐなボールだ。主人公はどこにでもいる、YouTubeで一生懸命に人生の教訓を語りかけるけど、誰にもいいねをもらえない冴えない13歳の女の子。でも映画はその「冴えなさ」を強調して「こいつこんなに冴えないんですよ」とネタにするわけでもなく、ただ彼女に繊細に寄り添っていく。主人公は確かにSNSに傾倒しているが、この映画の目的は「SNSの承認欲求に狂っていく10代」を残酷に描き出し、批評することにはない。では何のために物語を語るのか? もちろん彼女、主人公ケイラのために語られるのだ。美少女でもなく、スポーツや勉強でもぬきんでることのない、それでも何か輝ける場所を探すケイラ。劣等感を抱きながらもクラスのろくでもない少年に簡単に恋してしまう彼女は、国連でフェミニズムを説くエマ・ワトソンの輝きからなんて遠く離れたところにいるのだろう。それでもこの映画は彼女を批評したり批判したり啓蒙したりするためではなく、彼女を勇気づけるために語られる。

 僕がガキだったころ、いやその何世代も前から、学者や評論家は子供たちをネタに世代論を語ってきた。僕が覚えているだけでも生まれ年を数年単位で区切り、やれジェネレーションなんとか世代はどういう感性をもっていて、やれどこからどこまでが新しい人類でそのあとはポストなんとか世代でとかそういった類も、最終的にはペラペラとしゃべる大人の著書を売り込むためのたわごとだ。でもそういう若者論の中で、ケイラみたいな女の子はいつも見向きもされず存在しないことになっていた。これはそういう見捨てられた子どもたちのためのティーンネイジ映画、ずっと存在してきた見えざる子どもたちのためのジェネレーションムービーだ。

 かつてYouTuberだったこの新鋭監督の特筆すべき才能は、「クリエイターとしてのエゴ、承認欲求を捨て去ることができる」ということだと思う。この映画からは、新人監督のティーンネイジ映画に観客が期待する、これ見よがしのハッタリ、映画をドラマチックに、センセーショナルに盛り上げそうな描写が断固として注意深く取り除かれている。スクールカーストやいじめの描写はもっと露骨で過激な方が話題を呼ぶだろうし、YouTube出身の撮影当時28歳の監督なら、先鋭的なSNS文化描写で観客をあっと言わせたいという誘惑にもかられるだろう。でも彼はあくまでも「どこにでもいる」「不幸さえもバズらない、平凡さの悩み」に足をつけたまま、主人公ケイラに繊細に寄り添っていく。彼は批評家受けする「恐るべき子供たち」の物語を語ろうとしない。「病んだ現代」の肖像画を描こうともしない。

 シンプルで、真っすぐな軌道を描いた映画がエンドロールにたどり着く時、観客はこのルーキー監督がバッターを打ち取るためではなく、最初からキャッチボールをするためにボールを投げていたことに気がつく。そのキャッチボールの相手はもちろん主人公、13歳のケイラであり、彼女の思春期の悩みをみごとに演技で表現した主演女優エルシー・フィッシャーであり、その向こうにいるであろう無数の13歳たちである。これまでの、若きスターが演じるスタイリッシュでセンセーショナルなティーンネイジ映画にバットを振ることもできず見送りながら、必死にクールを装って「そうね、とても共感したわ」とわかったふりをしてこなければならなかった子供たちである。この映画はたぶん、彼らが初めて世界から受け取ることのできるボールになるだろう。ボー・バーナムにとってこの映画を作る時、映画評論家にどう言われるか、ロッテントマトでどんな評価がつくかなんてことはどうでもよかったのだと思う。そんなことを恐れてボールにスピンをかけ、世界に見向きもされずに途方にくれている13歳の女の子がキャッチできないような変化球を投げてしまうことの方を、たぶん彼はずっと恐れたのだ。

 結果から言えば、この映画には公開後、無数の絶賛が降り注いだ。公開初日にたった4館だった上映館は3週間で1084館に拡大され、ローリング・ストーン誌からニューヨークタイムズ紙にいたるまで映画の激賞が並んだ。ロッテントマトの「FRESH(腐ってない新鮮なトマトという意味の肯定評価である)」は99%を叩き出した。映画賞の名前を並べていると文字数で原稿が終わってしまうが、主演のエルシー・フィッシャーは映画新人賞を総ナメにし、ゴールデングローブにまでノミネートされた。果てはバラク・オバマ元大統領が2018年のベスト映画に名を挙げるまでの社会現象にまでなった。

 でもそれは、当時28歳のボー・バーナムが観客の胸のど真ん中に投げたスローボールを全米の批評家やネットの辛口映画ブロガーたちが誰一人打てなかったからではない。神様に見捨てられた(少なくとも本人はそう感じている)13歳の女の子のために投げられたボールを、多くの観客が批評のバットではなく、コミュニケーションのグローブで柔らかく受け止めることができたからである。そして、涙で前が見えなくなっている13歳の女の子がキャッチできるボールを投げることは、160kmの豪速球を投げるよりもはるかに繊細な映画的技術とコントロールが必要であることを彼らが知っていたからである。そういう意味では、アメリカの映画批評や映画観客はまだ腐っていない、FRESHな感性を保っているのだ。

 J・D・サリンジャーによって書かれた、『ライ麦畑で捕まえて』という伝説的なティーンネイジ小説がある。今ではすっかり社会的文脈がわかりにくくなっているが、ここに描かれたホールデン・コールフィールドという少年は当時としてはまったく「陰気でイケてない」、社会や学校のカーストから落ちこぼれた少年像だったのだ。サリンジャーはついに死ぬまで、どんな大金を積まれてもこの小説の映画化を許可しなかったのだけど、『エイス・グレード』のケイラは映画という言語に翻訳された、21世紀の女の子としてジェンダーリライトされたホールデン・コールフィールドなのだと思う。そして、「ライ麦畑で遊ぶ子供たちが崖の奈落に落ちそうになるとき、僕はその手をつかんで捕まえる、ライ麦畑のキャッチャーになりたい」というあの有名な一節は、 YouTubeというライ麦畑から現れ、下の世代の奈落、SNSの裂け目を知っているボー・バーナムになんと似ているのだろう。

 アメリカはベースボールを続けるだろう。社会に対立性や批判性はあってしかるものだし、この映画の批評的・興行的な大成功をマーケティングして作られたような模倣作に対しては、明日からも批評家のバットがうなりをあげ、観客が腐ったトマトを投げつけるのかもしれない。でもこの『エイス・グレード』という映画に関しては、観客はベースボールを一瞬忘れ、初めてキャッチボールをした、世界とコミュニケーションが成立した日の記憶を呼び起こされて13歳に引き戻されてしまうような映画になっていると思う。そしてもちろん、すべてのベースボールはキャッチボールから始まるし、辛辣な批評や激しい批判はコミュニケーションが支えているのだ。

 映画の中で描かれるケイラと父親のコミュニケーションは、親子と言うよりもまるでそれぞれの時代のホールデン・コールフィールドが、次の世代が崖から落ちないように手をさしのべているかのように見える。それはきっとサリンジャーの時代から、いやもっと前からずっと続いてきた、時を超えた13歳同士のコミュニケーション、ライ麦畑のキャッチボールなのだ。ボー・バーナム監督がサリンジャーが好きかどうかは知らない。でも彼はかつて、きっとケイラくらいの年齢で、どこかの誰かから、あるいは名もない作品のなんということはないシーンから、生まれて初めてボールを受け取ったのではないかと思う。それは続いていく。この映画の中に出てくる数々のSNSの名前は5年もすればたちまち過去のものになるだろうが、この映画に描かれるケイラの悩みは50年後の13歳が見てもきっと自分のことのように受け取ることができる。ジェネレーションZのあとが何という名前で呼ばれようと、人間はいつも0歳で生まれ、やがて生まれて初めて13歳になるのだから。 (文=CDB)

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