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心揺さぶる『すばらしき世界』 この純粋な男が生き抜ける優しい世界を願ってやまない

リアルサウンド

21/2/12(金) 18:00

 リアルサウンド映画部の編集スタッフが週替りでお届けする「週末映画館でこれ観よう!」。毎週末にオススメ映画・特集上映をご紹介。今週は、通っていた保育園を見に行ったら記憶にあるよりもずっと小さくて驚いたアナイスが『すばらしき世界』をプッシュします。

『すばらしき世界』

 どんな人にとっても、幼少期の記憶というものはこの世界を手探りで生きていく上での命綱なのかもしれない。それが幸福な記憶でも、不幸な記憶だとしても。それがその人のアイデンティティの形成に大きく関わることなのだから。過去に人を殺めた罪で13年間の刑期を経て、鉄格子の外の世界に足を踏み出した主人公の三上。本作は、少年院を含め人生の大半を刑務所の中で過ごしてきた彼が、自分の過去をたぐり寄せながらも一般社会に溶け込もうと努力する姿を描いた作品です。三上を演じる役所広司の微細な表情の作り方に、ただひたすら圧倒され、心打たれる。本当に説得力のある演技をされる役者さんだなと、改めて痛感させられました。

 主人公が出所する日、「もう戻ってくるなよ」と声をかけた刑務官たちが三上の乗ったバスが発車しても、姿が見えなくなるまで見送っていたシーン。そんな冒頭だけで、すでに三上が厄介ではありながらも人に愛される男だということがわかります。そして彼は東京にやってきて、弁護士であり身元引受人の家にお世話になる。すき焼きをもてなされ、「ご飯おかわりする?」と奥さんに聞かれた三上は泣いてしまうんですね。三上が泣くと、もう私もつられて泣いてしまう。確かに人を殺してしまった。その事実に変わりはなく、その殺人の背景なども後に明かされるわけですが、もうこの時点で既に私はこの純粋な男に泣いてほしくないと思っているんです。そしてそれ以降映画の中で彼に向けられる、優しさの価値を実感し、また胸が苦しくなってしまう。

 この社会の在り方は、三上のような存在にとって簡単なものではありません。刑期を終え、カタギになることを誓ったは良いものの、反社と関わりのあった者は職につくことさえ難しい。生活保護も受けられない場合がある。近所からは白い目で見られ、軽蔑される。システムからの補助もなく、環境からも切り離されてしまえば戻るところは昔の仲間の元なわけで、出所後の再犯率が高いこともこれに起因しています。そういった問題を三上の視点から実直に撮った本作で印象的だったシーンは、数えきれないほどあります。

 例えば公衆電話で必死に雇先を探しながら、ふと見上げた先の歩道橋の階段をサラリーマンが忙しそうに電話対応しながら登る姿を、三上が苦虫を噛み潰したような顔で見つめるシーン。彼が「お金が欲しい欲しい」と言いつつも、それ以上にその先にある社会の一員になりたいんだ、と感じる場面です。そして刑務所生活の名残できちんと整理整頓し、規則正し生活を送る彼の素朴な朝ごはんのシーン。白米のうえに生卵を落として食べるだけなのですが、私はこの朝日に照らされた卵かけご飯のあまりの美しさに咽び泣いてしまいました。ああ、すごい、この人はとても“生きている”と思ったんですよね。私たちよりも、ずっと生きている。鉄格子の外側のこの世界で、生き抜こうとする三上の美しい生命力に心揺さぶられるのです。

 世界とは己ではなく、他者であることを実感させられる本作。三上も、三上のことを理解し、なんとか応援してあげたいという周りの人間との繋がりがあったからこそ美しいその生命力を発揮することができたのだと思います。ケースワーカーの人も、近所のスーパーの店長も、最初は彼を「元殺人犯のヤクザ」としか見ていませんが会話をしてその人となりに触れ、考えをかえていく。その優しさが、三上を極道の世界に戻らせまいとするわけです。

 そして社会・他者との繋がりを考えたうえで、最初で一番重要である繋がり、つまり母と子の関係性を、三上は物語の冒頭から欲しています。養護施設に預けられていた彼は、仲野太賀演じるディレクターの津乃田の力を借りて、施設に母の手がかりを探しにやってくる。彼はそこで、施設の子供たちとサッカーをして遊ぶんです。ひとしきり子供のようにはしゃいでいた三上が、突然泣き崩れる。ここで、子供たちが「どうした?」と思いつつ、誰も一切彼が泣いていることを囃し立てないし、笑って馬鹿にしない。みんなジッと、泣いている彼を見守るんです。それは恐らく彼の涙のわけを知っているからで、その優しさにまた私も泣いてしまう。本作で一番心に残ったシーンです。

 そんなピュアな三上が、なぜ人を殺してしまったのか。それは彼なりの正義感によるもので、瞬間湯沸かし器のような人だから間違ったものを見てしまうと暴力で解決してしまおうとするのです。しかし、そんなことをしていたら社会の適応できないと、三上は劇中何度か「勇気ある撤退」について説かれます。そして、自らとある出来事をきっかけに初めて「撤退」という選択肢を選ぶことができるようになって、我々は心底「良かった」と思うんですね。以降、彼はこれを肝に銘じて自分の思う“すばらしき世界”に溶け込もうとする。しかし、三上がそこまでして生きようとした世界は、果たして本当に“すばらしい”のか。私たちの日常は、他人への憎悪と卑下で満ちている。三上のような人が、傷ついてほしくないのに、そんな世界である。そのギャップに気づき始めて、再び観客である私たちの胸が苦しくなっていくのです。しかし、それでもラストはやはり、彼にとっての“すばらしき世界”が映し出されていて、圧巻でした。

 誰かを独りにさせてはいけない。隣人とのコミュニケーションが一層減った現代だからこそ、他者への思いやりと優しさを忘れない心持ちの人が多く増えれば、そこは“すばらしき世界”である。美しい空をしばらく見上げていた時の三上の顔が、忘れられません。

■公開情報
『すばらしき世界』
全国公開中
出演:役所広司、仲野太賀、橋爪功、梶芽衣子、六角精児、北村有起哉、長澤まさみ、安田成美
脚本・監督:西川美和
原案:佐木隆三著『身分帳』(講談社文庫刊)
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)佐木隆三/2021「すばらしき世界」製作委員会
公式サイト:subarashikisekai-movie.jp

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