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佐々木俊尚 テクノロジー時代のエンタテインメント

パンデミックをきっかけにより“抽象的な概念”に左右される時代が到来

毎月連載

第38回

感染症をテーマにした小説や映画などの作品はたくさんある。たとえばガブリエル・ガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』やアルベール・カミュの『ペスト』、SFだと小松左京の『復活の日』やグレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』。

しかし、ちょうど100年前に起きたスペイン風邪は、世界で5000万人から1億人以上も亡くなったとされるのにもかかわらず、直接的にこのパンデミックを描いた作品は案外と少ない。日本文学では、志賀直哉の『流行感冒』や菊池寛の『マスク』などいくつかの作品があるだけで、それほど知名度が高いわけでもない。海外でも似たようなもので、スペイン風邪をテーマにした最も有名な書籍は歴史学者アルフレッド・W・クロスビーの大著で、タイトルは『史上最悪のインフルエンザー忘れられたパンデミック(America’s Forgotten Pandemic)』と名づけられている。

この背景には、当時は第一次世界大戦のさなかであり、その後の大恐慌、第二次世界大戦のインパクトがきわめて強く、時代の奔流に埋もれてしまったことがある。さらにスペイン風邪は死者は多かったけれども、コロナや赤痢などの他の感染症などくらべれば死亡率が低かったことで、印象が薄かったという指摘もある。志賀直哉の小説のタイトル『流行感冒』にあるように、“流行の風邪”ぐらいにしか捉えられていなかったのかもしれない。

加えて、SFで描かれるような“路上で人がバタバタ倒れていく”わかりやすい疫病と異なって、描かれる具体的なイメージが乏しいというのもあっただろう。そこが地震や火山、水害などの物理的な災害と大きく異なるところだ。2011年の東日本大震災はその映像的なインパクトの巨大さもあって、無数の作品がつくられ、今も生み出されつづけている。

しかし今回の新型コロナ禍では、人が目の前で命を落としたり、あるいは間一髪の救助がされたり、というような劇的な場面はほとんど目にしない。たくさんの人が亡くなっているが、それらの死は病院の奥深くの隠された場所で進行しているだけで、家族との最後のやりとりさえ行われないままのケースが多かった。

だから今回のコロナ禍では、ソーシャルディスタンスやリモートワーク、オンラインでの出会いといった日常社会の延長線を描く作品は出てきているが、実際の病室の場面を描いたものはいまだ非常に少ないのが現実だ。一般社会には病床の様子はほとんど共有されておらず、それを知っている人も少なく、映像にもなっていないということなのだろう。

そういうパンデミックの生々しさが、これからはどのように作品化されていくのだろうか。このコロナ禍についてわたしは、人間と人間の距離やコミュニケーションのありよう、都市封鎖と私権制限の問題、科学技術へのリテラシーと信頼、さらにはライフ/ワークスタイルの変化にいたるまで無数と言えるほどの気づきがあったと感じている。

しかしそれらはどれも高度に抽象的な話であって、わかりやすい映像にはなりにくい。言い換えれば、物理的な災害や戦争によるインパクトだけでなく、わたしたちはパンデミックなどをきっかけにしたそういう抽象的な概念の展開に社会を左右される時代に生きているということも言える。

これは情報通信テクノロジーが高度化すればするほど、テクノロジー自体が見えなくなっていき抽象化するということと近似している。いまはまだわたしたちはスマホの画面を睨んで操作しているが、数十年後にはかたちのある電子デバイスなど消滅しているだろう。身体埋め込みのテクノロジーとバックエンドの高性能なシステムによって、見えないテクノロジーが人間や社会を駆動するようになっているはずだ。その先の未来では、何もかもが抽象化した概念となり、それを理解しなければ社会や人間を本当に理解したとは言えないというような社会が到来するだろう。

その時に果たして“物語”はどう変わっていくのだろうか。

プロフィール

佐々木俊尚(ささき・としなお)

1961年生まれ。ジャーナリスト。早稲田大学政治経済学部政治学科中退後、1988年毎日新聞社入社。その後、月刊アスキー編集部を経て、フリージャーナリストとして活躍。ITから政治・経済・社会・文化・食まで、幅広いジャンルで執筆活動を続けている。近著は『時間とテクノロジー』(光文社)。

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