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『午前0時、キスしに来てよ』にみる、“おとぎ話”としてのリアリティ

リアルサウンド

19/12/14(土) 8:00

 「午前0時」というと、それは小さな子どもたちが夢の中にいる時間であり、うら若い少年少女にとっては恋慕の情を育む時間でもある。または、日々の生きづらさに頭を抱える者たちはやがて訪れる朝のことを考え涙をこらえ、またある者は「地獄通信」へのアクセスを試みる。そしてシンデレラは魔法が解け、そして夜の世界に生きる者たちにとってははじまりをも意味するのだろう。『午前0時、キスしに来てよ』のヒロイン・花澤日奈々(橋本環奈)は、この二番目に当てはまる。

 誰しも一度は憧れたことがあるであろう、“おとぎ話”的な人生の展開。この物語のヒロインである高校2年生の日奈々は、周囲から見て疑う余地のない優等生であり、マジメさが売りともなっているが、まさにこの“おとぎ話”的な人生への憧れを、日々ふくらませている。彼女は恋に恋する夢見がちな乙女で、王子様の登場に胸を焦がしているのだ。

【動画】“焦らしキスシーン”も 『午前0時、キスしに来てよ』予告編

 個人的な話になるが筆者も学生時代、あるまじき妄想に胸を高鳴らせていたことがあった。たとえばそれは授業中、学校に悪いヤツらが押し入ってきて、“気になるあの娘”を人質に取られ、私はどうにかヤツらを化学実験室や図工室に誘い込み、薬品だとか彫刻刀を手に一戦を交え、彼女を助け出す……といったものなどである。私の場合は日奈々と反対に、王子様(あるいはヒーロー)なるものに憧れていたのだ。

 同じように思春期を通過してきた方々にとって、大なり小なり似た経験があるのではないだろうか。だがここで重要なのは、「妄想」とだけあって、それはリアリティを欠いているという事実である。いまの物騒な世の中を思えば、いつ、どこで、どんな非常事態が起きても不思議ではない。しかしだからといって、十代中頃の身体的にも精神的にも未成熟な少年が、いくら武器を手にしてみたところでそうそう勝ち目はないだろう。理想のあの人が、理想どおりの人間であるとは限らないし、妄想で思い描いていた振る舞いをしてくれるとは限らないのと同じである。実際に触れてみないと、それは分からないのだ。そして、本作で面白いのは、日奈々の「妄想」が簡単に打ち破られるということである。

 ある日、彼女の学校に、誰もが憧れる大スター・綾瀬楓(片寄涼太)が映画の撮影にやってくる。まさに夢のような展開! “おとぎ話”的な人生のはじまりの予感! ブーツのヒールを鳴らし、颯爽と校内を歩く彼こそ王子様。そして日奈々は、奇跡的に彼と交流を持つことができるようになるーー。ここまでは、楓は「妄想」の中の王子様なのだ。ところが、彼は大の“お尻好き”。それも女子高生のお尻を眺めては、『ドラゴンボール』のベジータのように、対象の戦闘力(サイズ)までも当ててみせるほどの異常さをもっている(ちなみにベジータも“王子”だ)。少々呆れてみせる日奈々は、彼のことを「お尻星人」と言ってのけるが、彼は「星人」なのか、それともやはり彼女にとって「聖人」なのか。いや、あくまで彼女にとっては、恋する「成人」男性でしかないのである。はために見て完璧だと思える人が、じつはそうでないことは多々ある。人間だもの。これは妄想の世界に、ささやかな笑いとともに与えられたリアリティなのである。

 とはいえ、恋は盲目。そんな王子様のちょっとした愛嬌混じりの欠点なんてなんのその。日奈々の脳内のお花畑は満開となり、甘い香りを放ち、“おとぎ話”感は強まってくる。ここで本作の新城毅彦監督の演出面に注目したい。本作の主だった舞台は高校とあって、とうぜんながらそこには多くの生徒たちが存在する。しかし彼らは、「恋は盲目」な状態にあるヒロインにとって外野の存在でしかない。彼らが唐突な楓の登場に対し、「個」ではなく「全体」として動き、反応を取ることで、楓の“王子様”としての魅力は倍増する。あくまでこの生徒たちは、日奈々と楓の二人が逢瀬を重ねる“舞台装置”でしかないのである。彼らが“しゃべる背景”と化したとき、日奈々と楓の存在は、よりくっきり浮かび上がるのだ。“おとぎ話”ということを前提としたとき、それはかえってリアリティを獲得しているように思えるのである。

 それからもう一点、現実感を欠いたおかしな場面を挙げておきたい。二人が遊園地を貸し切って(!)、デートをする場面である。これは“スターと普通の女子高生”が、“大人と未成年”の禁断の恋路を歩む二人が、はじめて人目をはばからずデートをするという特別な瞬間。二人の笑顔は輝き、それを祝福するかのように好天である。にもかかわらず、ふいに夜へと時間が変わると、まるで夕立にでもあったかのように地面が濡れているのだ。これは遊園地の(メリーゴーラウンドの)照明の煌めきを画面いっぱいに広げるための、手の込んだ装置演出なのではないだろうか。よくよく見てみるとおかしいのだが、先に述べたような“おとぎ話”としてのリアリティは得ているように思えるのだ。

 本作は「午前0時」に幕切れとなるが、シンデレラの魔法が解けないように、脳内のお花畑が枯れることがないように、そして、お相手の名前を「地獄通信」に書き込むことがないように、祝福し、ただ祈るばかりである。

(折田侑駿)

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