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杏沙子が届けた、最高のディナーを味わうような音楽体験 『耳で味わうレストラン』完全レポート

リアルサウンド

20/12/24(木) 20:00

 12月19日。クリスマスまであと少しという土曜の夜に、杏沙子が2度目のオンラインワンマンライブを行なった。題して『耳で味わうレストラン』。都内の某レストランで「料理を楽しむように音楽を楽しむ」スペシャルなオンラインライブだ。

 有観客のライブを開催するのが困難であるなか、多くのアーティストたちが無観客での配信ライブを行うようになった2020年。だがそれを定期的に続けていくには、ある意味で有観客のライブ以上に創意工夫と独自性が必要だったりする。有観客ライブであれば、たとえ前回と同じ構成であろうとも観客が変われば演奏もグルーブも変わるので、観る者はそれを楽しむことができる。無観客の配信ライブとなるとそうはいかない。よって、やる側はその都度趣向を変える必要性が、多かれ少なかれある。それをすることなく毎回の配信ライブで多くの視聴者を惹きつけることができるミュージシャンは稀だろう。

 杏沙子はといえば、もともと有観客であっても、必ずその回だけの趣向を凝らしたライブを行ってきたシンガーだ。元来、そうやってその日だけのテーマを設け、信頼のおけるスタッフたちとアイデアを出し合いながらひとつのライブを作りあげていくことが好きなタイプ。それをしながらモチベーションをあげ、当日に向けて気持ちを高めていくタイプなのだと思う。杏沙子は「歌うことが大好きな」シンガーであり、2ndアルバム『ノーメイク、ストーリー』で「パーソナルな歌詞を書くことの充実感」も覚えたソングライターでもあるが、もうひとつ、趣向を凝らしたステージ作りを活き活きと行う、言うなれば演出家的な側面も持ち合わせた表現者。今回のオンラインライブで、改めてそのことを感じた。

 今回のオンラインライブが杏沙子のTwitterで発表されたのは11月11日。そこには開催日時と共にこう書かれてあった。「オーダー企画 味わいたいコースはどっち? 引用リツイートで「恋」or「夜」、どちらか書き込んでオーダーしてね! ほろ甘スパイシーな「恋」のコース、ほろ苦クリーミーな「夜」のコース」。このようにふたつのコースを提示し、どちらを楽しみたいか、みんなの「オーダー」をとるところからスタートした。やがてその集計から、ほろ苦クリーミーな「夜」のコースに決まったことを報告すると、続いて12月3日には「夜カバーソング」オーダー企画として5曲の夜向きポップソングを挙げ、「1番オーダーの多かった曲を、耳で味わうレストランでお届けいたします」とツイート。9月27日に行なわれた『杏沙子 ONLINEワンマン フェルマータ、ストーリー ~21分の12~』はアルバム2作のなかからライブで聴きたい曲を投票してもらって上位12曲を歌うというものだったが、今回は述べた通り、まず「コース」を選んでもらい、そしてそのなかの一品であるカバーも選んでもらうという2段階によってファンのみんなのワクワク感を高めていったのだ。これ即ち、同じ場所に集まることはできなくとも、みんなで一緒にひとつのライブを作っていきたいという杏沙子の強い思いの表れである。

 「耳で味わうレストラン」。改めて説明すると、これは「料理を味わうように音楽を味わう」ディナー設定のライブ。スタジオやライブハウスではなく、実際、都内の某レストランがその場所となった。杏沙子はレストランのオーナー。そしてシェフが3人。山本隆二(Key)、鈴木正人 (Cb/Eb)、森本隆寛(Gt)だ。店内は明るすぎず暗すぎずといった照明の塩梅。キャンドルも焚かれ、ディナーに相応しい落ち着いた雰囲気が醸し出されている。そこに招かれた客は自分ひとり(という設定)で、つまり自分だけに杏沙子とシェフたちが心のこもった“歌という料理”をふるまってくれる、そんな特別さを感じられるあり方だ。

 シェフたちは音楽の調理に機械を使わない。コンピュータ類を用いず、生楽器で一品一品、手作りする。ドラムがないので、ビートすらない。このレストランがオーガニックな食材と調理法に拘った店であることがわかる。そして、とても親密な感覚が味わえる。なんたって自分が座ったテーブルのすぐ目の前でシェフたちが料理を作り、オーナーがコースの拘りポイントを説明しつつ温かくもてなしてくれるのだから。

 19時より少し前。自分はそのレストランをひとり訪れる気持ちで、PCにURLを入力。着席したテーブルにはお皿とカトラリー、それからキャンドルも。そのキャンドルに火がともると、「耳で味わうレストランへようこそ。私はこのレストランのオーナー、杏沙子と申します。本日は“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”をご予約いただきまして、誠にありがとうございます。今夜はあなたを、多彩で、濃厚で、そしてちょっと大人な夜の世界にお連れいたします。さまざまな夜に漂い、包まれ、たっぷり味わっていただくコース。最後の一品までどうぞお楽しみください」と、オーナー自らが挨拶。とても丁寧で心のこもったお店であることが伝わり、この時点でもう嬉しくなった。

 アペリティフ、つまり本格的な食事の前の食前酒は、「真っ赤なコート」だ。2017年の12月に可愛らしいアニメーションMVが公開されて以来、ファンの間で人気の高い杏沙子流クリスマスソング。スレイベル(そりの鈴)をシャンシャンと鳴らしながら歌う杏沙子の表情は柔らかで、9月の『杏沙子 ONLINEワンマン フェルマータ、ストーリー ~21分の12~』のときよりもリラックスしてこのライブに臨んでいるのがわかる。かなりの高音部分を目を閉じて歌い、間奏では幸せそうな表情を見せもする。曲の終わりに森本隆寛が「ジングルベル」のフレーズをさらりと弾き、クリスマス気分がふんわりと高まった。

 アミューズブーシュ(始まりの小皿料理)は、「マイダーリン」。元曲は青春時代特有の恋心とそのドキドキ感をポップに歌ったものだったが、ドラムレスで洒落たアレンジが施されたこの夜の「マイダーリン」はもう少しオトナ味。今の杏沙子が歌ってしっくりくるアレンジで、こうして更新されながら長く歌い続けられる曲になるのだろうと思った。アミューズブーシュとはフランス語で「口を楽しませるもの」の意味だが、確かにここからの料理に期待が高まる軽やかな昂揚感があった。

 ここでオーナー・杏沙子から、この夜のテーマについての説明がなされた。「“耳で味わうレストラン“というテーマ/タイトルにしたのには理由があって。ファンの方は知ってる方も多いと思うんですけど、私は食べることが大好きなんですね(笑)。で、毎日美味しいものを食べてるなかで、音楽と料理って共通点が多いなと思ったんです。例えば料理を創るとき、ひとつまみの塩だったり煮込み方や焼き方が違うだけで、味が変わる。音楽は楽器を変えたり弾き方を変えるだけで全然違うものになったりする。そうやって少しの違いで大きく変わってしまうところも似ているし、あと、料理も音楽も好きな楽しみ方、好きな感じ方をしていい、そんな自由なところも似てるなと思ってきたんです。だってね、料理も音楽も、言葉で表すときに“しっとりめ”とか“あたたかく”とか同じ表現の仕方をするときもあったりするくらいだし。今回は音楽と料理を掛け合わせた何かをしたいと思って実現したライブです。“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”ということで、夜を歌ったうたをたっぷりご用意しています。ここにいるシェフのみんなと一緒に、今そこに座っているあなたに向けて、一品ずつ丁寧にお届けしていこうと思います」。

 アントレ(前菜)は「クレンジング」だった。歌と鍵盤で同時に入り、鈴木正人のウッドベースが夜のムードを高め、森本の爪弾くギターはボサノヴァのタッチ。元曲はひんやりしたエレクトロニックの風合いだったが、このボサノヴァっぽいアレンジが楽曲そのものを生まれ変わらせ、新鮮な印象をもたらした。キャンドルの炎が杏沙子に重なって映り、グッと大人の表情に見える。もともとこの曲、杏沙子自身が2ndアルバムのなかでも特に好きだと言っていたものだが、このアレンジでさらに彼女のなかの好き度も高まったんじゃないだろうか。

 ポタージュ(スープ)は、「好きって」。インディーズ時代にライブで歌っていた切なさいっぱいのバラードで、当時、この春の曲がたまらなく好きだと言っていたファンは多かったものだが、こうして冬に聴くとなると切なさもひとしお。あの頃に比べて表現力もグンと高まっている故、特にサビ部分での杏沙子の今にも泣きだしそうな歌に揺さぶられた。桜がヒラヒラ舞い落ちる様を表わしたような山本隆二の鍵盤音は、ここでは舞う雪をイメージさせた。

 ポワソン、即ち魚料理にあたる5品目は「見る目ないなぁ」だ。「好きって」に続いて、切なさの押し寄せる曲。2020年、この曲によって杏沙子というシンガーソングライターを知ったという人も少なくなかっただろうし、今のところ間違いなく彼女の代表曲のひとつに挙げられる曲にもなった。このミニマルな編成で演奏されるに相応しい曲であり、この編成であるからこそ彼女の表現力も際立って感じられた。

 トゥル・ノルマン、つまりメイン料理の間の「お口直し」にあたる6品目は、カバー曲。先に記した通り、「夜カバーソング」オーダー企画として事前に5曲の夜向きポップソング(SMAP「夜空ノムコウ」、キリンジ「エイリアンズ」、大塚愛「プラネタリウム」、YOASOBI「夜に駆ける」、SEKAI NO OWARI「スターライトパレード」)を杏沙子が選んでオーダーがとられたのだが、接戦の末、YOASOBIの「夜に駆ける」が選ばれた。「この曲、森本さんも好きって言ってましたよね。私も初めて聴いたときに衝撃を受けて。聴けば聴くほど、主人公の気持ちが本当に繊細に変化していく、緻密なガラス細工みたいな曲だなと思いました」と杏沙子。森本のストロークから始まり、杏沙子のボーカルは次第に熱を帯びていく。違和感、ゼロ。オリジナルを知らずに聴いたら、元から彼女の歌だと思ってしまったかもしれない。杏沙子が歌えば杏沙子の歌になる。それだけそのボーカルに揺るぎない個性があるということだ。それはちょっとハッとさせられることでもあった。

 ヴィアンド(肉料理)にあたる7品目は、『ノーメイク、ストーリー』収録の「交点」だ。作詞・作曲・編曲を手掛けた幕須介人は「この曲を今歌えるのは杏沙子さんしかいない」と言ってこの曲を送ってきたそうだ。それを聴いたときには「私に太刀打ちできるんだろうかって不安になった」と話していたくらいの難曲だが、今回初めてライブで歌われたシネマティックなこの曲に、今の杏沙子のシンガーとしてのポテンシャルが最大限発揮されていた。幻想的とも言える鍵盤の音と、やがて重なるコントラバスの響き。60年代のフランス映画のようなロマンティックさと深みがある。ギターが入って曲テンポがあがったあたりの杏沙子の歌の力の抜き加減は絶妙だった。押しと引き、強と弱の加減が生命線とも言えるこの曲で、杏沙子はそれを自然に、そして見事にコントロールしながら歌っていた。「大事にしてたもの」を両手で包み、それが遠ざかっていくことも手と声で表現しながら。この日の10品のなかでも、これはとりわけ深い味わいがあり、余韻が残った。

 フロマージュ、即ちメイン料理のあとのチーズにあたる8品目は、雰囲気をガラッと変えて「東京一時停止ボタン」だ。ベースで始まり、ジャジーにアレンジされたこの曲に乗る杏沙子の歌は、どこかポエトリーリーディングっぽさもあり、オリジナルとはムードがまるで違う。まさしく夜の歌、それも東京という大都会の歌になっていた。ここでもまた歌の強弱のつけ方が見事で、どんどん感情が高ぶってピークに達したかと思えば、ふっと力を抜いて気持ちの途切れを表現する。序盤、「真っ赤なコート」を軽やかに歌ったりしていた杏沙子とは別人のようだ。

 「早いものであと2品」というところで、杏沙子はこう話した。「私は今日のこのライブが2020年のライブ収めになるわけですが、みんなは2020年、どんな1年になりましたか?   去年の今頃、私はみんなと同じ空間で、みんなの顔を見ながらうたを歌っていました。それから丸一年、みんなの顔を見ながら歌うことができなかったです。こんな1年になるなんて、私はもちろん、みんなも思っていなかったと思います。あまりひとにも会えないし、ひとりで孤独な夜を過ごしているような一年だったなと。そんななかで、こういうふうに今だからこそできることを探して、暗闇で小さな光を探した、そんな1年でした。きっとあなたや多くのひとが、悔しさだったり、もどかしさだったりを感じた1年だったんじゃないかなと思います。でも夜があれば朝がくるように、必ず夜明けはやってくるから、2021年、私に、あなたに、多くのひとに、それぞれの夜明けがやってくることを祈って、少し早いですが私からみんなへお年賀として次の曲を歌おうと思います。2021年、あなたにたくさんいいことがありますように」。

 そうしてラ・プティット・シュルプリーズ(驚きの料理)として出されたのは、この日2曲目のカバー、松任谷由実の「A HAPPY NEW YEAR」だった。まさにシュルプリーズ(サプライズ)。自分にとっても毎年1年の終わりに必ず聴きたくなる曲なのだが、それを杏沙子の歌で聴けるとは思ってもみなかった。こんな今年ももうすぐ終わる。そして2021年はたぶん、きっと、2020年よりもいい年になるんじゃないか。ニュースを見て現実を目の当たりにするとなかなかそう思うのは難しいけれど、でも、杏沙子の優しい声によるこの歌に耳を傾けていたら確かにそんな気がしたのだった。

 シェフ(メンバー)の3人が紹介され、そして彼らが順にその場を去ると、「次がコース最後の一品です。デザートですね。三日月のドルチェ。私ひとりでお届けしようと思います」、そう言ってピアノの前へと動く杏沙子。「こうしてピアノと私、ふたりで届けるのは、インディーズのときの人生初ワンマン以来なので4年ぶりですね。みんなが今日このあと、ステキな夢が見れるように、心を込めて歌おうと思います」。デザートは、「おやすみ」だ。4年ぶりの弾き語りということの緊張感なのか、ピアノを一音鳴らしてからまた少し時間をおき、気持ちを整えて歌い始める。〈声だけで繋がる夜は 私を強がりにする〉。ピアノを弾いて歌うその声と、確かに自分は繋がっているという感覚があった。三日月の夜、杏沙子の歌が、画面越しに繋がっているひとりひとりの心を確かに満たしていた……はずだ。彼女が言うように、今年ひとりでいくつもの孤独な夜を過ごしたひとも、このときひとりじゃない気がしたはず。そんなふうに思えた歌だった。

 全10品の“ほろ苦クリーミーな「夜」のコース”。オリジナル楽曲の素材を活かしつつ、大人の味覚に合うよう丁寧に心を込めて調理されたそれを味わいながら、こんなレストランがあるならまた行きたいと自分は思った。こうしてひとりでじっくりと最高のディナーを味わうことの、なんという贅沢。でも、今度は、来年は、ひとりじゃなくてみんなで一緒に行けたらもっといいかも。笑顔でまた来年。みんなと。

■ライブ情報
杏沙子ONLINEワンマンライブ「耳で味わうレストラン」アーカイブライブ映像 配信中
配信期間は、12月27日(日)23:59まで
視聴チケットも12月27日(日)21:00まで発売中
詳細はこちら

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