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2010年代の東京インディーズシーン 第1回 ライブハウスが持つ「偶然の可能性」

ナタリー

20/8/31(月) 19:00

2010年、東京大学で行われた「東京BOREDOM」の様子。

新型コロナウイルス感染拡大の影響により、多くのライブハウスが営業自粛を余儀なくされてしまった2020年。無観客配信や、入場者数の制限や衛生面の管理ほかさまざまな対策を施したうえでの営業など、現状に対応するために各ライブハウスは試行錯誤しなければいけない状況が続き、閉店を発表する店舗も増えている。この状況は、ライブハウスを起点としたインディーズシーンの在り方の分水嶺となるだろう。

時を少しさかのぼり振り返ると、2010年前後には東京インディーズシーンにおいて“現場”が盛り上がり、さまざまなムーブメントが生まれていた。音楽ナタリーではアーティスト、イベント、場所などさまざまな観点から、2010年代の東京インディーズシーンの“現場”で何が起きていたかを検証し、連載コラム形式で伝えていく。

第1回では、8月末に閉店を迎える東京・秋葉原CLUB GOODMAN(以下グッドマン)と、新宿Motion(以下モーション)を中心として隆盛を見せていたオルタナティブシーンを追う。2020年6月22日、グッドマンが新型コロナウイルスの影響により8月末で閉店することが発表された。長きにわたり東京のオルタナティブなシーンの拠点として存在感を放っていたグッドマンの24年の歴史に突如幕が下ろされるとあって、SNSでは各方面から惜しむ声が上がり、一時はTwitterのトレンドワードにも「グッドマン」がランクイン。2000年代後半から2010年代前半にかけて、グッドマンとモーションを中心として形成されていたシーンでは、バンドと観客の熱狂が重なり合い、会場は猛烈な盛り上がりを見せていた。あの興奮はどこから来て、どこに行ったのか。その熱狂の象徴である「TOKYO NEW WAVE 2010」と「東京BOREDOM」を足掛かりに振り返る。

取材・文 / 張江浩司

「誰もやっていないことをやりたい」と「知らないものが観たい」

東京はバンドもライブハウスも数が多いため、ライブハウスごとに近しいジャンルのバンドが集まり特定のシーンが形成されることがしばしばある。東高円寺U.F.O.CLUBはサイケ / ガレージ、新宿ANTIKNOCKはパンク / ハードコア、1990年代の新宿JAMはモッズ、2000年代の下北沢GARAGEはギターロックなど。しかし、2010年前後のグッドマンやモーションに出演していたバンドの音楽性に一貫性はなく、ギターロック、サイケ、ハードコア、ジャンク、歌モノ、プログレなどの要素が混ざり合っており、言語化しづらいものが多かった。「オルタナティブ」という言葉を辞書で引くと「既存のものに取ってかわる新しいもの」(三省堂 大辞林 第三版)とあるが、そういった「まだ誰もやっていない音楽をやらなくては」という精神性(さらに言えば強迫観念)だけが彼らの共通点だったのだ……と言うと聞こえはいいが、下北沢や渋谷にすでにあったシーンになじむことができずウロウロしていたバンドがグッドマンやモーションといったライブハウスに集まることで、ジャンルレスなシーンができあがっていった、という説明のほうがしっくりくるかもしれない。

1993年の結成以来、一貫してオルタナティブシーンの前線で活動し続けるバンド・bossston cruizing maniaのボーカルであり、グッドマンのブッキングを務めるカシマエスヒロによると、そういったオルタナティブシーンの在り方はこのときに始まったわけではないという。

「90年代は高円寺20000Vがそういう場所で、どこにもなじめなくて20000Vにしか出れないようなバンドがいっぱいいたんです。俺たちも下北でライブできる気がしなかったもん(笑)」(カシマ)

カシマがグッドマンのブッキングを担当するようになったのは2005年末。前任はPANICSMILEの吉田肇(Vo,G)で、ジャンルレスかつオルタナティブな顔ぶれのイベントを組み始めていた。

「吉田さんから引き継いだときにその意志を継ごうと勝手に思って、オルタナ路線のイベントが増えていったかな。でも、オルタナ専門のライブハウスにしようとはまったく思ってなかったんだよね(笑)。ほかのライブハウスにあんまり出られないバンドが集まってきて、結果的にオルタナの受け皿みたいになっちゃったっていうか」(カシマ)

2005年、時を同じくしてオープンしたモーションはまったくの新店舗ゆえか、既存のシーンに属していないバンドを中心にブッキングしていくことになり、こちらも結果的にオルタナティブな場となっていく。nhhmbase、worst taste、tacobondsなど、グッドマンを根城としていたバンドよりも少し下の世代、後述するコンピレーションアルバム「TOKYO NEW WAVE 2010」に収録されたバンドが中心だった。

2000年代後半はアンダーグラウンドなシーンでも、長時間にわたって多数のバンドが出演し複数会場を使用するような、いわゆるサーキット形式のイベントが増えた時期だ。高円寺のレコード店「円盤」が主催し、日本中から“この人にしかできない表現”をしているミュージシャンやバンドを集めた「円盤ジャンボリー」(2004~2010年開催)。ハードコアレーベル「Less Than TV」が主催し、2005年開催の2回目以降はヒップホップやダンスミュージック、弾き語りなどを取り込んで年々出演者の幅を広げていった「METEO NIGHT」。山形のバンドSHIFTが地元の廃映画館を利用し、全国のローカルシーンで活動するバンドを集めた「DO IT」(2008年)など枚挙に暇がないが、こういったチャレンジングなイベントが内容的にも集客的にも成功したことによって、「目当てのバンドだけではなく、知らなかったバンドも能動的に楽しむ」という観客のリテラシーが向上し、それに応えるように企画する側も今までにない組み合わせやコンセプトを提示するという循環が起こっていた。

この「知らなかったけど観たらカッコよかった」という感動は、オルタナティブなシーンと非常に相性がいい。なにせ、その音楽の担い手は「他人と似ていないカッコいい音楽を生み出そう」と日夜リハーサルスタジオで格闘している連中だ。段々とこのシーンに熱量の高いオーディエンスが増え、注目度が高まっていく。そして、成果として生まれたのが「TOKYO NEW WAVE 2010」(以下TNW)というコンピレーションアルバムだった。

偶然新宿に集まったバンドたちのドキュメンタリー「TOKYO NEW WAVE 2010」

「TOKYO NEW WAVE 2010」は、当時のオルタナティブシーンの渦中にいたオワリカラのタカハシヒョウリ(Vo,G)が企画したものだ。タカハシは2008年頃からのモーション出演バンドの音楽的な充実、日に日に増えていく動員に突き動かされ、ビクター系列のレーベルに持ち込んで音源化を実現させた。タイトルは1979年に発表されたパンクコンピレーション「東京ニュー・ウェイヴ’79」に由来。参加アーティストはオワリカラをはじめ、シャムキャッツ、東京カランコロン、SuiseiNoboAz、the mornings、太平洋不知火楽団、壊れかけのテープレコーダーズ、SEBASTIAN X、Far France、ARTLESS NOTE、andymoriの11組だった。andymori以外はモーションに縁の深いバンドばかりだ。

「実は、当時のシーンを大きくしようとか思っていたわけじゃなくて。モーションにこういうバンドが集まったのも偶然だから、それを記録しておきたかった。ポケモン図鑑みたいな感じで(笑)、いろんな種類のカッコいいバンドがいるぞっていう。下北のギターロックとか、既存のシーンにはハマれなかったバンドばっかりだったから、音楽性はバラバラだったし、シニカルな性格の人が多かったですね。『みんなで盛り上げよう!』みたいに熱くはなれない人ばっかりで。よくも悪くもハングリーじゃなかったし、だからこそ生まれた音楽だったと思う」(タカハシヒョウリ)

一丸となって花火を打ち上げるのではなく、あくまで1つひとつのバンドがいいライブをし、いい音源を作る。笑ってしまうくらいオルタナティブな姿勢だが、その刹那の交錯を切り取ったのがこのコンピレーションだったというわけだ。リリース時にSuiseiNoboAzの石原正晴(Vo,G)は「シーンという言葉は好きではない」「ごっこ遊びじゃない、本気のぶつかり合いが出来ればいいと思います」とOTOTOYのインタビューにて発言しているが、このとがりにとがった姿勢がTNWを象徴していると言えるだろう。

コンピレーションの発売とそれに伴うイベントの展開は、2010年の1年間限定と当初から決まっていた。有終の美を飾ったイベント「TOKYO NEW WAVE 2010 presents『GO BACK TO SHINJUKU』」は、2010年9月11日にモーション、新宿MARZ、新宿LOFTの3会場を使って開催。向井秀徳アコースティック&エレクトリック、DMBQ、HINTO、LIZARDをゲストに迎えて、のべ800人以上を動員した。

「あのときは、このメンツでイベントを組めばこれくらい面白くなるし、これくらい人が来るだろうなっていうのが思い描いた通りになってましたね。だから逆に、驚きとか達成感もなかった。今思えば、イベントが予想通りの内容と集客で終わるなんて、そんな幸運なことはないんだけど(笑)。出演したバンドはもちろん、お客さんの盛り上がりもすごかったし、次の世代のバンドも出てきていて、いい状況だなと思っていました」(タカハシ)

この熱量の根底には、アーティスト側、観客側のいずれにも「もしかしたら音楽業界が変わるかもしれない」という予感があった。シーンの盛り上がりを受けて、音源のリリースやそれぞれのバンド主催のイベントが増えていき、レコード会社やマネージメントと共にメジャーデビューの準備を始めるバンドも現れる。タカハシ自身も2016年にオワリカラで徳間ジャパンコミュニケーションズからメジャーデビューすることになるが、TNWに携わっていた頃すでに、「メジャーに担がれるのではなく、メジャーを利用してやろう」という気持ちがあったという。それならば、1年間限定と言わずTNWをもっと長く続けていれば、より注目を浴びることができたのではないだろうか。

「TNWの顔ぶれでまたイベントをやりましょうっていうのは、2017年くらいまでことあるごとに言われたけど、やっぱりそれは違うなと。そもそも越境的なことが面白くてこういう音楽をやってるから、一度評価が確定しちゃったらもう越境でもなんでもないんです。メジャーになればなんでもいいってわけじゃないし、やりたい音楽ができていればずっとアンダーグラウンドでいいとも思わない。メジャーにオルタナティブな価値観を持ち込んだり、アンダーグラウンドでメジャーなものを再構成したりするっていうことが自分のやるべきことで、そういう白でも黒でもないグレーゾーン、いわゆる“中庸”ってやつに価値があると今でも思ってる」(タカハシ)

燻ったオルタナティブの逆襲 「東京BOREDOM」

時間は少しさかのぼり2009年、カシマはグッドマンに出演しているオルタナティブなバンドたちと共に「東京BOREDOM」(以下、ボアダム)というイベントを立ち上げる。10組のバンドが1万円ずつ出し合い、深夜の渋谷LUSHを借り上げて入場無料のイベントを開催するというものだ。

「グッドマンに出てたバンドはどれもカッコよくて面白いことをやってたんだけど、お客さんが入らなくて、燻ってた。だったら、なりふり構わず金払ってでもまずは人に観てもらうことをやらなくちゃと思って、みんなに声をかけたのが始まりです」(カシマ)

現場の盛り上がりから発生したTNWとは対照的な成り立ちが興味深い。

「もちろんお客さんが入ってるイベントもあったし、一緒にボアダムを立ち上げたtacobondsとかworst tasteは少し下の世代になるから彼らがどう思ってたかはわからないけど、例えばスペカン(スペースカンフーマン)、U.G MAN、MONG HANG、54-71とかがライブハウスに出てた90年代に比べると、やっぱり個人的には盛り上がっていないと感じてた。ライブハウスがカルチャーの中心にいないというか。なんとかして人を呼び戻さないとっていう気持ちが大きかったな」(カシマ)

2009年1月30日、「東京BOREDOM」初回の開催日。真冬の深夜に雨が降っているという最悪な状況の中、カシマらがLUSHに機材を搬入しにいくと、入場列ができていた。LUSHの隣のHOMEというライブハウスの客かと思っていると、全員がボアダム目当て。LUSHはすぐ満員になった。

「満員になるなんて誰も予想してないから、みんなテンパっちゃって、『これは30人は入ってますね』とか言ってて。100人以上いるのに、普段そんなにお客さんがいるところでライブをやってないから、数えられなかった(笑)。『名前は知ってるけど、観たことないバンドがいっぱい出るし、タダなら行ってみよう』っていう潜在的なお客さんがこれだけいるんだ、って手応えを感じましたね」(カシマ)

きっかけは違えど、シーンを支えるファンの熱狂がTNWの展開を盛り上げたのと同じくボアダムも「知らないカッコいいバンドを観たい」という観客の熱量によって湧き立っていった。

初回を成功に収めたあと、worst tasteのコジマ(B)が東京大学大学院に在籍していたことから、学内のホールを使ってボアダムを開催するプランが浮上。熱が冷める前に開催すべく急ピッチで準備が進められ、2009年9月19、20日の2日間にわたって開催されることになる。ULTRA BIDE、Melt-Banana、ECD+Illicit Tsuboi、Qomolangma Tomato、埋火など出演アーティスト数は2日間で2ステージ30組を超える規模に拡大したが、イベンターなどを一切介さず、出演者とボランティアスタッフによって制作、舞台設営、警備、撤収すべてが行われる、完全DIYなイベントだった。大学側との調整も難航し、手探りでの開催、しかもフリーではなく観客からカンパを募る形になったが、蓋を開けてみれば予想以上の音楽フリークが東京大学に詰めかけた。翌2010年9月25、26日も東大で開催し、のべ1000人を超える動員を記録。オルタナティブシーンの1つのピークになったと言って差し支えないだろう。

その後も「東京BOREDOM」は勢いに乗り、さまざまなスタイルのイベントを年に2、3回のペースで展開していったが、2014年以降ペースがガクッと落ち、3年に1度ほどの開催になってしまう。

「2回続けて東大でのボアダムが成功したから、このあとはボアダムがブランドにならないようにということを考えてました。毎回コンセプトを変えて、それが馬鹿馬鹿しければ馬鹿馬鹿しいほどいい。東高円寺の中華料理店を会場にしてみたり、台湾まで行ったり。いろんなところでいろんなことをやった。そのうえで『ボアダムってこうだよね』っていうクオリティが安定してきた印象があって、自ずと「やらなくていいかな」っていう感じになったんです」(カシマ) 

時代の趨勢は“インディー”に

TNW以降、東京カランコロンは2012年、SuiseiNoboAzは2013年、SEBASTIAN Xは2014年、TNWには参加していないがふくろうずは一足先の2011年と、モーションで活躍していたバンドたちは続々とメジャーデビュー。その後はトリプルファイヤーやotori、THIS IS JAPANなど、TNWやボアダムに影響を受けた世代が台頭し、モーションやグッドマンを行き来して次のオルタナティブシーンを作っていった。

2010年は「Shimokitazawa Indie Fanclub」が初めて開催された年でもある。ここから、カクバリズムが1レーベルを超える存在感を東京インディーズシーン全体で発揮するようになったように思う。TNW、ボアダムの両方に参加し、カクバリズムとも縁の深い元シャムキャッツの夏目知幸(Vo, G)は、2020年8月15日に開催された「東京BOREDOM #13」のトークパートでこう語っていた。

「2013、4年くらいから、もともとは同じ意味で使われていたアンダーグラウンド、オルタナティブとインディーっていう言葉が分かれていって、インディーのほうが間口が広くなっていったと思う」(夏目)

また元うみのての早瀬雅之(B)は、ASIAN KUNG-FU GENERATIONが企画するコンピレーション「NANO-MUGEN COMPILATION 2013」に参加した際、一緒に収録されているシャムキャッツやスカート、cero、Turntable Filmsなどと比べてうみのてが「浮いている」と感じたという。ASIAN KUNG-FU GENERATIONが開催するフェスと連動して何作もリリースされているこのコンピレーションだが、例年と比べてもこの年はブレイク直前の勢いのある日本の若手バンドが多く起用されている。TNWのコンピレーションでは、爆音で複雑な音楽性の曲が多く、いわゆる歌ものは少なかったが、本作ではそのバランスが逆転しているのだ。

夏目や早瀬の感覚を明文化することは難しいが、ライブハウスシーンのタームがオルタナティブな“混沌”から“洗練”へと移行していったということではないだろうか。聴いたことがない音楽を知る興奮より、ポップスの歴史を踏襲したウェルメイドな音楽に触れる感動。夏目の言う“インディー”とは、そういった「誰が聴いてもよさが伝わる」間口の広さだろう(もちろん、ceroの強固なグルーヴや、スカート澤部渡の根底にあるパンクな精神性をウェルメイドの一言で片付けられないことは十分承知の上だ)。シャムキャッツの音楽性はオルタナティブシーンの中にいた頃から大きく変化していったわけではないが、徐々に“インディー”的な文脈で評価されていくようになる。また、トリプルファイヤーがスカート、ミツメと共に“東京インディー三銃士”と呼ばれ始めたのはその直後の2015年だ。

大型夏フェスに顔を見せるのも、cero、スカート、思い出野郎Aチームなどのカクバリズム勢、Yogee New Waves、never young beach、Awesome City Club、初期のSuchmosなど、のちに“シティポップ”として括られるバンドたちになっていく。こうして、時代の趨勢はいつしか移り変わっていった。

モーションは2019年に経営体制が変わり、スタッフが一新された。そして2020年8月にグッドマン閉店。これによって、モーション、グッドマンを中心とするオルタナティブシーンは1つの時代の終わりを迎えたと言えるのかもしれない。

それでも「オルタナティブ」と「ライブハウス」にある価値

とは言え、そもそもオルタナティブとはメインストリームになじめずウロウロしている者たちが生み出す音楽なので、時代の趨勢とは関係がない。形を変えつつまだ続いているバンドも、解散や活動休止をしたバンドより多い。

こうして2010年代に1つの盛り上がりを迎えたオルタナティブシーンを振り返ると、そこに浮かび上がってくるのは、“場所”というものが内包する“偶然の可能性”だ。モーションやグッドマンに集まったバンドにはジャンルなどの共通性はなかったが、たまたまそこに居合わせて同じ舞台に立ったことでお互い刺激し合い、発展して1つのシーンが生まれた。そして、それを支えたのは観客の「知らないものを観たい」という欲求だった。YouTubeでは自分が知っているワードを入力しないと検索できないし、SNS上では基本的に自分がフォローしている人からの情報しか目に入らない。サブスクのオススメも自分が再生したビッグデータが元になっている。なんでも知ることができるネットよりも、フラッと立ち寄った100人しか入れないライブハウスのほうが「知らないもの」に出会える可能性が高いのだ。

また、カシマはボアダムについてこう語っている。

「ボアダムはライブハウスに人を呼び戻すことが目的だったけど、東大に1000人入った後に同じようなメンツでイベントを組んでも、グッドマンにはそんなにお客さんは来なかった。だからまだ全然成功じゃないんです。ライブハウスは日常のものだから、それが豊かにならないと意味がない。ボアダムはそうして日常的にライブハウスにお客さんが来るようになるまで続けなきゃいけないなって思った」(カシマ)

祭というものが日々の農耕の成果としての収穫を祝うものであるのと同じように、フェスや大きいイベントを成立させるには“日常”であるライブハウスが必要だ。祭だけをしていては収穫物は育たず、先細ってしまう。

2020年8月31日、グッドマンのTwitterアカウントにて、一旦は閉店を迎えるものの、営業再開に向けて動いていく旨が発表された。インディーシーンの”日常”を支えてきた場所は、まだまだ終わる気はないようだ。ライブハウスが今後どうなるのか、なんとも言えない現状だが、10年後、20年後の音楽を支えるのはライブハウスが持つ“偶然の力”である。例え時代が変わっても、その力がインディーズシーン、ひいてはその先にあるメジャーシーンを支える意義が薄れることはないだろう。

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