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黒沢清監督が『スパイの妻』で達した新境地 “とてつもなさ”を秘めた、新しいメロドラマの完成形

リアルサウンド

20/10/29(木) 10:00

 ヴェネチア国際映画祭コンペティション部門において、日本人としては北野武以来17年ぶりとなる、最優秀監督賞にあたる“銀獅子賞”を獲得した『スパイの妻』。日本映画界で圧倒的な異彩を放ち、海外からも長い間注目を浴び続けている黒沢清監督だが、今回の受賞は本作を鑑賞した多くの観客にとって、大いに納得できる結果だろう。それほどに、精緻に作られた人間ドラマの出来の良さにくわえ、いろいろな意味で“とてつもなさ”を秘めている作品だ。

 蒼井優を主演に、高橋一生を共演に描かれていくのは、ある女性の視点から捉えられた、1940年の日本の姿。第二次世界大戦が勃発して間もない頃、真珠湾攻撃によってアメリカと開戦する前年のピリピリとした緊張感ただよう時代である。

 高橋一生が演じるのは、若くして神戸で貿易商を営み、洋風の豪邸に住んでいる優作。蒼井優演じる聡子は、その妻として日々を送っている。二人の生活が急変するのは、優作が満州から帰国してからだ。彼の態度の変化や行動に不審なものを感じた聡子は、一人でその理由を調べ始める。そんな聡子の究明は、戦時中における“日本の闇”という、より大きな真実を暴き出すことにつながっていく。

 もともとNHKのTVドラマ作品として製作され、放送とは別に映画版として作り直されている本作は、NHK大河ドラマ『いだてん~東京オリムピック噺~』で使用された大規模なオープンセットを使用し、さらには、ドイツ系アメリカ人の貿易商が明治期に神戸に建てた「旧グッゲンハイム邸」でカメラを回している。このような撮影条件にも恵まれたことにより、本作は黒沢作品のなかでも、とくにスケール感と説得力を獲得しているといえる。

 黒沢監督は、コンスタントに映画を撮り続けながらも、他の監督たちとは全く異なる文法、様式によって、異様ともいえる世界を表現してきた。その核となっているのは、監督自身がいわゆる“シネフィル”といわれる、様々なジャンルを横断する映画マニアであること、立教大学時代に映画評論家でもある蓮實重彦の薫陶を受けていること。黒沢監督はいわゆる“立教ヌーヴェルヴァーグ”といわれる日本の映画のある世代、あるカテゴリーの中心的存在である。

 そこから得た映画作品に対する幅広い理解を基に、日本の廃墟や工場などを中心とした荒涼とした風景のなかで、小津安二郎、ジャン=リュック・ゴダール、リチャード・フライシャー、スティーヴン・スピルバーグなど、多くの映画監督の作風のパロディを自作で行いながら、日常のなかに突発的に現れる暴力や不気味な存在がもたらす恐怖を描く……というのが、ごく簡単に説明した黒沢監督の作風である。そして、ヌーヴェルヴァーグの中心であったジャック・リヴェット監督のように、ときに物語が要請するリアリティを破壊してまで、違和感を生み出す情景を切り取り、分かりやすい娯楽表現の枠を意図的にはみ出していく。

 黒沢監督が、そのように一見でたらめにも見える表現を行いながら、それでもコアな映画ファンから評価されているのは、やはり映画への優れたリテラシーが存在するからであろう。映画史への理解が薄い作り手は、すでに多くの映画人たちが試行錯誤してきた道をふたたび通り、同じ試行錯誤をそのまま行うことになる場合が多い。だが歴史を知っていれば、その功績を踏まえた表現に踏み出すことができるのである。

 とはいえ、そのような知識にこだわることで、表現が映画マニアの遊びの範疇にとどまってしまい、人間の普遍的感覚から離れてしまうことで、作品が本来持つべき強靭さを損なってしまう場合もある。黒沢監督自身も、とくにここ十数年は、これまでひたすら自由に遊んできた自作へのアプローチに変化を与え、より自然なドラマのなかで自らの作風を活かそうとしてきたと思えるところがある。そんな過渡期ともいえる十数年間、普遍的な要素をとり入れることで、黒沢作品の本来の“違和感”は、ただの違和感として、作品の勢いを阻害する性質を持ってしまっていたように思えるのだ。

 そんな歳月に、とくに変化の兆しが見られたのが、前作『旅のおわり世界のはじまり』(2019年)だった。この作品は、前田敦子を主演に、人生の目標に向かうことに積極的になれず悩む一人の女性がウズベキスタンを彷徨するといった内容で、同時に日本の震災という要素を取り込みながら、日本人が無自覚的に持っている傲慢な世界観や、偏見が生み出すコミュニケーション不全といった、これまでになく分かりやすくメッセージが前に出るものとなっていた。ここで物語とテーマに強い芯が通ることで、従来の違和感ある描写が魅力的に輝き出したと感じるのである。

 この道程は同世代のクエンティン・タランティーノ監督と近いといえよう。タランティーノ監督も、邪道といえるような作風で、いろいろマニアックな映画作品のパロディ、オマージュを繰り返すことで、真に個性的な作品を撮っていた。彼はその作風を、次第に“本格”へと移行させていったのである。これは当然の流れと言えるかもしれない。黒沢監督やタランティーノ監督が憧れ、模倣する多くの映画作品自体は、彼らのような映画マニアの遊びが前面に出たものではないからである。

 自分の作品が、自分の愛する古典のような“本格”でありたい……おそらくはその想いが、この両監督にスタイルの変更をもたらしていたのではないか。『ヘイトフル・エイト』(2015年)でタランティーノ監督が、昔のマカロニ・ウェスタンの音楽をオマージュするのでなく、エンニオ・モリコーネ本人に新しく音楽を依頼したのも、その一環であったといえよう。それでいて、『ヘイトフル・エイト』や『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019年)は、タランティーノ監督の作風が殺されているわけではない。この塩梅こそが、新しく手に入れた黄金のバランスなのである。

 黒沢監督の分かりやすい変化は、やはり俳優の扱いについてであろう。例えば『カリスマ』(1999年)や『回路』(2000年)のような鋭さが前面に出ていた時期の作品では、俳優を俳優として撮る、風景を風景として撮るというよりは、極端な言い方をすると、“空間の中で肉塊が動いている”ような、おそろしく客観的な冷たさがあった。そして、そこに作品としてのコンテンポラリーな面白さがあった。

 本作では、そのような描写が多用されてはいないが、例えば冒頭で貿易商が逮捕される場面や、憲兵による拷問の残酷な描写をそのまま見せずに、後ろ姿と音で表現するという不気味な演出、または空襲の轟音と炎の光が外に見える室内を聡子がゆっくりと歩き出す描写など、要所において黒沢監督の個性際立つ作風が見られるのである。そして、それが本格的なサスペンス演出の文脈としても十分に機能している。その意味で、シーンには二重の価値が付与されているといえるのである。

 さて、本作は前述した『旅のおわり世界のはじまり』同様に、メッセージ性が強い作品である。その試みの一つは、日本の戦争犯罪を見つめるという行為である。日本軍が満州において、捕虜に対して国際法上違法な人体実験を行っていたという話は、様々な証言によって裏付けられてきた。日本では一部でこれを否定するような声もあったが、近年ロシアでも新しい物証が見つかり、NHKの番組で、その事実が特集されている。

 劇中で優作が「コスモポリタン(世界主義)」と表現するように、彼は人類全体の正義を考えて、そんな日本軍の行為を告発するべきだと考える。それは、戦争へ向かい多様な考え方が許されない時代の日本国内においては犯罪行為である。そして、優作はもちろん、それに賛同し告発に協力していることを知られてしまえば、聡子もまた大罪人だとみなされることになる。捕まれば確実に死刑に処されるだろうし、運が良くても牢獄か精神科病院に入れられることは免れないだろう。日本の罪を暴こうとする優作や聡子のような人物は、大逆人であり異常者だとされるのである。

 しかし、実際にはどちらが異常なのか。劇中で聡子によって語られるように、事実を知ったとき、人道に反する行為を見過ごし加担することこそが異常なのではないのか。牢獄や精神科病院の外と内が逆転しているのではないか。これは、中井英夫の推理小説『虚無への供物』(1964年)でも、印象的な言葉として語られていた言葉だ。正常が異常に、異常が正常となってしまう。まさに、真におそろしいホラーとは、このことではないだろうか。そして、現在の日本もまた、次第にそのような様相を呈し始めているとしたら……。

 同時に本作の物語は、もう一つのサスペンスとしても捉えることができる。まず、聡子の優作に対する疑心。彼女は、愛する夫が自分のことを本当に愛しているのか、他の女性のことが好きなのではないかと考える。その結果によっては、聡子にとって天地がひっくり返るかもしれない一大事である。サスペンスの帝王といわれる、アルフレッド・ヒッチコックも、『レベッカ』(1940年)や『断崖』(1941年)で、夫への疑念や愛情の有無がサスペンスとして表現されていた。

 聡子がその疑念を乗り越えると、物語は壮大なメロドラマの様相を呈し始める。夫が日本政府を裏切ろうとすることを知ることで、自らも「売国奴」「非国民」としての汚名を着て、他の全てを捨てて優作の計画に加担しようとする。しかし、その表情はむしろ以前よりも明るく輝くように見える。聡子は優作と同じ目的を持ち、多大な犠牲を払って共同で作戦を遂行することで、彼に対して真の意味で寄り添う存在となれる……そのように考えるのである。一人の人物を極限まで愛することとは、確かにこのようなものかもしれない。

 そして、ついに神戸が爆撃される瞬間、聡子はその想いを一部遂げることとなる。優作の最終的なねらいは、日本がアメリカと戦争し、敗れることであった。それはまた、日本人という共通項でくくられた「同胞」の命を犠牲にすることである。愛する人物の目的の達成が、日本人の大量死へとつながる。それは、当事者にとっておそろしいほどの罪悪感に身を浸すことだろう。しかし、その罪悪感が重ければ重いほど、被害が大きければ大きいほど、彼女の愛は深まっていくのである。この愛の物語が生んだ凄まじいほどの地獄の情景が、蒼井優の見事な慟哭によって両義性を持って表現されることになる。

 それは、“世界の終わりの風景”にフェティッシュを持つ黒沢作品らしい場面といえるが、同時に蒼井優の演技力に頼る、過剰にウェットにも感じられる演出だともいえる。それは、前田敦子をわざとらしくオーバーアクトさせた演出によく似ていて、黒沢監督本来の作風とは異なるかもしれない。しかし、これこそ俳優を俳優として撮る、照れや表面的なかっこよさを捨てた、ある意味で本格の映画であるともいえよう。

 太平洋戦争開戦後に公開された映画『カサブランカ』(1942年)は、アメリカ映画の重要作として知られている。それは、近年でも多くの映画作品に引用されたり、ワーナー・ブラザース作品のイントロ・ロゴ映像で『カサブランカ』の挿入曲「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」が流れることからも実感できる。だが、この作品がとくに重要視されるのは、作品そのものの出来以上に、それが大衆の喜ぶハリウッド映画の一つの完成形といわれるものになっているからである。

 第二次大戦のさなかに戦争を題材にしながら、直球のロマンスを前面に押し出して、ユーモアのあるセリフを散りばめながら、センチメンタルかつ軽快にドラマを描いているのである。同時期の日本やドイツの軍部がこの映画を観たら、「なんと惰弱な」と笑ったことだろう。しかし、こんな時勢に、軽薄さを感じるまでに恋愛や娯楽をてらいなく描いたアメリカ映画の強さに、現在の目から見ると、むしろ畏敬の念すら感じるところがある。『スパイの妻』もまた、何よりもメロドラマであろうとするということが、戦争や、価値観を強制しようとする社会や時代の動きに対して、自由を掲げる一種の反撃になっているのではないだろうか。

 本作の脚本は、黒沢監督が教えていた東京藝術大学の生徒たちである、野原位と濱口竜介との共同で書かれている。本作のような規模の作品を、オリジナル脚本で撮ることができたのは、様々な尽力があってのことだろうが、それだけに黒沢監督の持ち味が十分に活きるものとなっていた。

 最も分かりやすいのは、「映画」が重要な意味を持つ部分であろう。優作は、溝口健二監督への憧れがあり、自分でも聡子を主演に劇映画を撮ってしまうほどの映画マニアである。そして、その趣味こそが重大な証拠を握ることへとつながるのだ。そう、ここでは「映画」が世界を動かし、一国の運命を決するのである。ここまで“映画本位”な物語も珍しいだろう。

 そして見逃せないのは、山中貞雄監督の映画作品が上映されるシーンである。山中監督といえば、満州に出征して、帰らぬ人となってしまった映画監督だ。まだ若くして世を去ったため、彼が監督した作品は比較的少なく、フィルムが現存し鑑賞できる作品はわずかしかない。だが、日本を代表する世界的な監督である、小津安二郎や黒澤明をも凌駕するセンスがあり、生きて映画を撮り続けていれば、世界で知らぬ者はいないほどの存在になっていたはずである。

 『スパイの妻』が、山中監督の作品を登場させたメッセージは、明らかである。映画が至上のものである黒沢監督らにとって、才能ある映画監督を死なせるということは悪に他ならない。つまり、ここで描かれる戦争に正義などないことを、怒りをこめてスクリーンに映し出しているのである。

 そして『カサブランカ』や、ヒッチコックやハワード・ホークス監督のサスペンス作品がそうであるように、本格の映画とは、スターが存在してこそである。蒼井優と高橋一生は、幾度となくバストアップのツーショットで撮られ、ときにわざとらしいまでに、ハリウッドスターのような美しさを湛えている。さらに、蒼井の時代がかった喋り方や、いまは全く見られなくなった、正義に燃える熱血漢としての演技を披露する高橋。この二人の演技に、演出も照れを捨ててしっかりと応えている。

 『スパイの妻』は、このように表面的なオマージュやパロディを超え、普遍的な感覚のなかで、それでも黒沢監督の持ち味を効果的に活かした、新しい本格サスペンスであり、新しいメロドラマの完成形となっている。黒沢清監督が、この境地へと達したこと、そして日本映画がこの作品を生み出したという事実、そして世界で評価されたことに、あらためて賛辞を贈りたい。

■小野寺系(k.onodera)
映画評論家。映画仙人を目指し、作品に合わせ様々な角度から深く映画を語る。やくざ映画上映館にひとり置き去りにされた幼少時代を持つ。Twitter映画批評サイト

■公開情報
『スパイの妻<劇場版>』
新宿ピカデリーほかにて公開中
出演:蒼井優、高橋一生、坂東龍汰、恒松祐里、みのすけ、玄理、東出昌大、笹野高史ほか
監督:黒沢清
脚本:濱口竜介、野原位、黒沢清
音楽:長岡亮介
制作著作:NHK、NHK エンタープライズ、Incline,、C&I エンタテインメント
制作プロダクション:C&I エンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
配給協力:『スパイの妻』プロモーションパートナーズ
2020/日本/115分/1:1.85
公式サイト:wos.bitters.co.jp

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