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2010年代のアイドルシーン Vol.2 “アイドル戦国時代”幕開けの瞬間(後編)

ナタリー

20/6/2(火) 20:00

「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」記者会見の様子。

2010年代のアイドルシーンを複数の記事で多角的に掘り下げていく本連載。第1回に引き続き、この記事では2010年8月30、31日に東京・渋谷C.C.Lemonホール(現LINE CUBE SHIBUYA / 渋谷公会堂)で開催されたイベント「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」を題材として取り上げる(参照:最後にサプライズも!アイドル4組が渋谷で夏フェス)。

SKE48、スマイレージ(現アンジュルム)、ももいろクローバー、bump.yの4組が共演を果たし、現在も語り草となっているこのイベントについて、ライフワークとして検証を続けているプロインタビュアーの吉田豪のほか、スマイレージの元メンバーである福田花音、ももいろクローバーZの高城れにへの取材を実施。それぞれの証言をまとめ、“アイドル戦国時代”幕開けの舞台裏に迫った。

取材・文 / 小野田衛 インタビューカット撮影 / 沼田学

負けじ魂全開だった福田花音

「アイドルユニットサマーフェスティバル2010」について、ここまでの話をまとめてみる。吉田豪は「SKE48の惨敗ぶりが目についた」という見方。「スマイレージの奮闘ぶりも目立ち、そこに触発されたももクロがのちの躍進につながる体制作りを進めた」という歴史観を有している。そのももクロの川上アキラプロデューサーは「一矢報いてやろうと企んだものの、SKE48やスマイレージの勢いに飲まれた」と謙虚に振り返った。そして当時スマイレージのマネージャーだった山田昌治(現YU-M エンターテインメント社長)は「ハロー!プロジェクトが世間に届いていないという危機感が強かった」と当時の事情も含めて告白している。一方、主催したニッポン放送の増田佳子は慣れない環境に右往左往しつつも、「B.L.T.」井上朝夫元編集長(現HUSTLE PRESS社長)のサポートのもとでイベントを作り上げていた。

見事なまでに、それぞれの思惑はバラバラである。しかし「絶対に負けられない」という思いを山田だけではなく各人が抱えていたのは確かだった。では、メンバーはどのような思いを抱えていたのか? 戦闘モードに突入した山田のもと、スマイレージの中でもとりわけ“負けじ魂”を全開にしたのが福田花音だった。山田は福田の“飲み込みの早さ”と“臨機応変に対応する勘”を買っており、福田もまた山田の期待に最大限まで応えようとする。2人は師弟関係であると同時に共犯関係も結んでいた。なお福田は“アイドル戦国時代”というフレーズの生みの親でもある。

「私は9歳からハロプロエッグ(※デビューを目指してレッスンするハロー!プロジェクトの研修機関)で活動していたんですけど、スマイレージがメジャーデビューする15歳のとき、山田さんに言われたんです。『今までが部活だとしたら、これからは軍隊だ』って(笑)。でも私としては山田さんにしかマネージメントしてもらっていないわけだから、山田さんだけ特別厳しいとは思っていなかったんですよね。『アイドルってデビューしたらこんなにも厳しい世界なんだな! がんばらなくちゃいけないな!』という感じで前向きに捉えていました」(福田)

記者会見が行われるたびに、福田は挑発的かつ煽動的なコメントを繰り返した。常に自分たちの優位性を誇示し、国内アイドルはおろか、美脚で注目されたK-POPの少女時代にまで「私たちも美脚アイドルとして活動していますから。私たちのほうがフレッシュな脚だと思っています」と一方的に宣戦布告。それどころか同じハロプロ内の後輩・Juice=Juiceにも「ジュースは飲み干したら終わり。スマイルは永遠に貯まっていく」と敵意を剥き出しにし、一部からひんしゅくを買う始末だった。

「自分の役割を考えたら、それが当たり前だと思っていました。ずっと目標にしていたメジャーデビューが叶ったばかりだったし、とにかく毎日が必死で……『アイドルユニットサマーフェス』に関しては、ハロー!プロジェクトにとって初めての対バンということでプレッシャーがすごかったです。ハロプロの看板を背負っているという気持ちだったし、絶対に負けて帰れないと思っていた。本当に必死だったんですよ、あの頃は」(福田)

この福田発言に、吉田が補足説明を加える。さる2月に福田は吉田が主催するSHOWROOM番組「豪の部屋」にゲスト出演。当時の話に花を咲かせている。

「福田さんは『自分の役割は何か?』と考えることができる人なんです。それまで自分としてはかわいくて歌もダンスもできるつもりでいたけど、冷静にほかのメンバー3人を見たら自分には特に突出したものがない。隣にはとてつもなくかわいい前田憂佳もいたし、歌が上手な小川紗季もいる。そこで自分の存在価値を考えたとき、『私は見出しになるような言葉を吐き続けるしかない』という結論に至るわけです。すごくいい話だなとボクは思いました。

一方、ももクロもももクロで、いい意味でのバカさがあるじゃないですか。『なんでそんなケンカ腰でやらなきゃいけないのー?』とか口ではブーブー文句言っていても、いざライブが盛り上がったら『イエー!』と無条件で盛り上がって、ギラギラしたこともやれちゃう感じ。あの無邪気さが川上さんのプロレス的指令にハマったんでしょうね」(吉田)

高城れにが振り返る「アイドルユニットサマーフェス」

当のももクロメンバーも、吉田の意見を裏付けるような証言をしてくれた。高城れにが、「アイドル戦国時代とは言われていたけど、自分たちとしては競っていた感覚なんてなかったかもしれない」と語り始めたのだ。

「当時の私たちはそこまで大きなステージでライブをしたことがなかったし、どのアイドルさんも憧れでしかなくて……『アイドルユニットサマーフェス』ではテレビでしか観たことがない人たちがいて、めちゃくちゃ緊張していました。なおかつ芸能界の大人の人たちがたくさんいる現場というのも初めてに近くて、メンバーみんなでずっとキョロキョロしていましたね。オドオドしていました。

ただ、そんな中でも『どこかで爪痕を残そうね』という作戦というか話し合いはしていたんです。渋谷C.C.Lemonホールでライブができると決まったときから、メンバーとマネージャーさんとの間でずっと。だから当日もそういう気持ちでいたんですけど、やっぱり憧れのアイドルさんたちがたくさんいるということで、どうしてもステージを観たくなっちゃって(笑)。照明さんがいるところの隙間から一生懸命ステージを観ていたのを覚えています」(高城)

ももクロ特有の気さくな性格は、ファンのみならず同業者からも親近感を抱かれやすい。高城自身は「本番前のアイドルさんはナーバスになっているから、話しかけてはいけないはず」と考えていたそうだが、実際のバックステージでは特にSKE48のメンバーに話しかけられることが多かったという。

「『えっ、アイドルってこんなにコミュ力高いんだ!?』って驚きましたね。『アイドルってこんなに楽しいんだ!』とか思って、その日はフェスのTシャツを着て帰りましたから。ただ、大人たちが必死だったのは私たちも感じていたので、憧れではあるけど負けていられないという思いも強かったんです。セットリストも極力テンションはアゲアゲで、『なんだ、こいつら!?』と思われるようなものにしましたし。

とにかく何かしら爪痕を残さないといけないし、ももクロらしさを出さなきゃいけない……そういった面では、マネージャーさんも苦戦していたと思います。そのピリピリした雰囲気は同じ年の『MUSIC JAPAN』のときもあったし、この頃は節目節目でそういった緊張感が出ていました。なんというか、すごく引き締まった空気。正直、当時はそれが嫌で仕方なかったけど、今にして思うとグループにとっては必要だったのかもしれない。あれがなかったらダラダラいっていたと思います」(高城)

ももクロのSKE劇場乗っ取り未遂事件

こうして大人たちの野望に振り回されるようにして、少女たちは戦国時代の修羅に足を踏み入れることになった。しかし戦火は当初の予想をはるかに上回る勢いで広がっていくばかり。混乱が続く中、裏舞台では予想外のアクシデントも頻出した。特に吉田が「最重要事件」として位置付けるのは、ももクロがSKE48劇場で公演をしようとした一件である。

「ももクロが名古屋でライブをやることになったんですが、よりによってその会場をSKE劇場にしようとした。タイトルは『お留守のようなので“あたためて”おきました』。もちろん大問題になりますよね。『ケンカ売ってるのか!』という話じゃないですか(笑)。それで最終的にはタイトルを変えて、会場も変更になりました。当時の川上さんはシャレで済ませようとしていたのかもだけど、大人社会では当然シャレで済むわけがない」(吉田)

あの会場、SKE48専用じゃなくて誰でも借りられるらしいですよ──。実は川上にそう耳打ちした人物がいた。それが「アイドルユニットサマーフェス」でも名前が挙がった「B.L.T.」の井上元編集長である。

「井上さんは単純に面白がって焚きつけたんでしょうね。自分たちの利益につながるようにけしかけたとか、そういう打算的な話では決してなかったと思う。逆に川上さんは井上さんの煽りに乗ったに過ぎなかった。そしてボクはというと、せっかく盛り上がり始めたこのアイドルの火を消しちゃいけないという使命感があった。あの頃はよく居酒屋などに仲間と集まっては情報交換していたんです。かつてモーヲタ界隈にいた人たちも含めて、みんながももクロ周辺に集まり出していたから、『どうやら面白いことが始まっているらしいな。俺たちが盛り上げないでどうする?』みたいな感覚。仕事とは直接関係なくても、なんとかアイドルを盛り上げようとしていた」(吉田)

吉田はイベントでアイドルが“仕掛けた”瞬間をほかにも目撃している。特に印象に残っているのは、自分が司会を務めたイベント(2011年5月21日に東京・日比谷野外大音楽堂で行われた『アイドル・フェスティバル in ヒビヤ』)で唐突にぱすぽ☆が暴走し始めた場面だという。

「曲数や持ち時間は事前に決まっていたんだけど、本番になると明らかにそれをオーバーしてきたんです。あれはもう完全に確信犯ですね。舞台監督の人はブチ切れちゃって、『話が違うじゃねぇか!』とか、そこら中に当たり散らしていた。でも、圧倒的なライブをやって観客の評判はすごいよかった。そして出演者すべてのライブが終わると、最後はみんなで『蛍の光』を歌う段取りになっていたんですけど、そこにもぱすぽ☆だけが出てこない。あえて“格が違う感”を打ち出しているわけです。誰が焚きつけたのか知らないですけど、あの温厚なぱすぽ☆ですら掟破りなことを仕掛ける時代だったということなんですよ」(吉田)

当時は全員が本気だった

時系列は前後するが、8月末に「アイドルユニットサマーフェスティバル」が開催される前の5月30日にはNHK総合「MUSIC JAPAN」の「アイドル大集合SP」がオンエアされている。出演者はアイドリング!!!、AKB48、スマイレージ、東京女子流、バニラビーンズ、モーニング娘。、ももいろクローバーの7組。観覧応募数が6万通を超える注目の放送だっただけに、この5月30日をもってしてアイドル戦国時代が始まったと定義する者もいる。

「NHKの石原真プロデューサーも、『よし、戦国時代を作ってやるか!』とか意気込んでいたわけじゃ別にないと思うんですよ。戦国時代が始まったのは多分に偶発的な要素が強いはずです。本来なら『MJ』の公開収録で一度みんなが集合して終わり……という話だったのかもしれない。ところが、その場に仕掛けたがる人たちが混じり込んでいたことで物語として続いていった。

『TIF』(2010年8月6~8日に第1回が開催された「TOKYO IDOL FESTIVAL」。参照:総勢40組以上!品川を熱く盛り上げたアイドルフェス大成功)にしたって似たようなもので、1回目のときはYGAとアイドリング!!!の共演イベントの拡大版として始まったようなところがあるらしいんです。だから主体は吉本興業とフジテレビ。テレビ局と大手プロダクションが舵取りはしていたものの、当初はそこまで大きなものにしようという考えはなかったはずで、だからハロー!プロジェクトも48グループも最初は関わってなかったんですよ」(吉田)

吉田は殺伐しとした要素をアイドルに求めるタイプだ。戦国時代というものが言葉上だけでなく、リアルに芸能界的な興行戦争という側面もはらんでいただけに注目したのは当然だった。つまりアイドル戦国時代は単なるギミックではなく、ビジネスが絡んだ本気の潰し合いだったのである。そんな吉田からすると今はシーンが成熟しているかもしれないが、アイドルが同じ土俵で闘う時代ではなくなっていて物足りなく映るという。

「ももち(嗣永桃子)がブレイクした『めちゃ2イケてるッ! AKB48以外だらけの爆笑アイドル大運動会』(2011年にフジテレビ系で放送)、それと『第一回ゆび祭り~アイドル臨時総会~』(2012年に東京・日本武道館で開催)……ボクの中でアイドルがバトルした最後の現場というのは、この2つになるでしょうね。この2つには“勝ち”“負け”という概念があったけど、それ以降はそういう見方はされていないので。

2010年当時は業界のルールもできあがっていなかったし、運営サイドも何をどこまでやっていいのか手探りだったんだと思う。『そうか、ここまでやったら怒られるのか』と学習しながら今に至るというか。いずれにせよ、あの頃は運営はもちろんだけど、ファンも編集者もみんなが本気だった。編集者やライターとの飲み会で、本気でケンカしたり、本気で泣いたりもしたし、このアイドル戦国時代を盛り上げるために、その障壁になるような存在と本気で闘おうとして計画を練ったりもした。今、あの当時と同じ熱さは求められないでしょうね」(吉田)

2010年、黎明期ならではの熱気が現場で渦巻いていたことは間違いない。しかしアイドル戦国時代と呼ばれるブームは一過性のもので終わらず、関係者も予期しなかったほど長く続いて現在に至っている。その間には多くのグループが解散し、多くのアイドルが表舞台から姿を消し、そして多くのスターが誕生した。

それまでアイドルはどれだけセールス的に突出していても、「しょせんアイドルでしょ?」と世の中からは一段下に見られるところがあった。しかしアイドル戦国時代の幕開けから10年が経った今、そのような見方をする者はほとんどいない。これはつまりアイドルがサブカルチャーからメインストリームの場に躍り出たということ。アイドルが市民権を獲得した10年だと言い換えてもいい。果たしてこの10年でシーンはどのように変容したのか。そしてアイドルはどこへ向かっていくのか──。関係者の証言をもとに、今後もテーマごとに2010年代のアイドルシーンについて徹底検証していくつもりである。

(文中敬称略)

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