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宮台真司の『TENET テネット』評(前編):『メメント』と同じく「存在論的転回」の系譜上にある

リアルサウンド

20/11/15(日) 12:00

 リアルサウンド映画部にて連載中の社会学者・宮台真司による映画批評。今回は10月17日放送のミュージシャン・ダースレイダーとのライブ配信企画「100分de宮台」特別編の一部を対談形式にて掲載する。“時間の逆行”が大きなテーマとなっている現在公開中の映画『TENET テネット』から「記憶と記録の構造」を読み解く。宮台は、その複雑な設定が話題を呼ぶ『TENET テネット』の決定論的構造から生まれる倫理の問題を指摘。クリストファー・ノーラン監督が本作に込めたある問い、そして監督独自の作家性が浮かび上がってきた。

 クリストファー・ノーラン監督が下した「究極の決断」

ダースレイダー(以下、ダース):今回はクリストファー・ノーラン監督の『TENET テネット』(以下、『TENET』)をメインに、「時間」や「記憶と記録の構造」というテーマでお送りします。

宮台真司(以下、宮台):SFに限らず従来の映画の中で「時間というもの」がどういうふうに扱われてきたかというと、明示的ではなくても「誰かが死ねば/死ななければ、どうなったか」という形で扱われることが多かったですね。つまり「過去は未来を前提づける」=「過去は未来の可能性を開く」という考え方です。

 例えば、僕が突然いま心臓発作で死ぬ。それは不幸だと感じられるかもしれない。しかし、まだ若い妻は、その後誰かと出会って結婚するでしょう。それは幸福だと感じられる。つまり、どんな幸福も、あまたの過去の不幸が切り開いたものだということです。実際、僕が死ななければ、あり得たかもしれない妻の新しい出会いの可能性は閉ざされる。

 その意味で、皆さんの存在も、あまたの死の上に成り立ちます。誰かが死なずに生きていれば、皆さんのご両親がそれぞれ別の方と出会っていたことは確実です。さらに遡った皆さんのご先祖様夫婦も、同じです。このモチーフは、時間を扱う映画のドラマツルギーにおいて基本中の基本。つまり、不幸を単に不幸として描く映画は、考えが足りません。

 これは、初期ギリシャ哲学の創始者でミレトス学派(イオニア学派)のタレス(紀元前6世紀前半・生没不詳)の「万物は水である=全ては流れので生じた渦のようなものだ」という思考に既に含まれています。同じ学派のアナクシマンドロス「万物は無限である」やアナクシメネス「万物は空気である」では失われたもので、むしろ原始仏教に近い。

ダース:例えば、たまたま道を右に曲ってみたら知らない雑貨屋さんを見つけて、そこで置き物を買って家に帰った。それを暖炉の上に置いておいたら、地震で揺れたときに落下して、おじいちゃんの頭に当たって……となると、分岐点は「道を右に曲がったこと」と捉えることも、論理構造的にはできる。話を作る上では「死」くらいインパクトのある出来事で枝分かれした方が構造が見えやすくなるというだけで、細かな分岐がブワッとつながっていく状況を俯瞰すれば、実はいろんな見方ができます。

宮台:そう。皆さんもよくご存じの量子力学の「ハイゼンベルクの不確定性原理」を待たなくても、実存的には世界は確実に非決定論的です。ふと雑貨屋さんの看板が目に入ってしまったこと、ふと女と目が合ってしまったことが、想定外の枝分かれをもたらし、今の取り返しがつかない世界・あるいは・掛け替えのない世界につながるわけです。

 しかし今回扱う『TENET』が前提としているのは決定論的な世界観です。ノーラン監督は物理学に詳しいので、今日のどの分野の学問にも反するこの設定は、いわば敢えてする「究極の決断」です。なぜ、この「とてつもない選択」を決断したのか。今回の話はそのことが軸になります。

 僕はこの映画を4回観ています。海外も含めて膨大に行われた「謎解き」もほぼ全て確認しました。でも学問を装った謎解きには意味はないことを断言します。なぜなら最初から学問に反することを宣言しているからです。僕たちが本作を観て受け止めるべきことは、この反学問的世界観が、我々に何を訴えるために選択されたのかということです。

 幾何学でいう補助線を引きます。ノーランの2作目『メメント』(2000年)が『TENET』とよく似ます。『TENET』では、時間順行シーンが赤、逆行シーンが青のモチーフで描かれます。『メメント』でも、順行シーンはモノクローム、逆行シーンはカラーと、描き分けられます。手法の選択は「まったく同じ」です。

 また、『TENET』で用いられた「銃弾が逆行して拳銃に収まる」という映像のアイデアも、『メメント』の冒頭ですでに使われています。そこも「まったく同じ」です。「時間の順行でだんだんと像が浮かび上がってくるポラロイド」が「時間の逆行でだんだん消えていく」という映像もまた、逆行の映像です。そこも「まったく同じ」です。

「捏造された記録 」への<閉ざされ>

ダース:つまり、ノーランが『メメント』でやりたかったことを、もっとお金を使ってやると『TENET』になる。『メメント』で描かれたアイデアをより練って、ある種の娯楽的な構造にきちんと落とし込んでいます。

 『メメント』は、妻を“殺害された”事件で記憶が10分しか保たない前向性健忘症になった主人公が、自分が残した記録をもとに“犯人”を追い詰めていくというある種のサスペンス・スリラーです。記憶はないが、この記録だけは絶対的な真実だという前提で、物語の3分の2くらいまで進む。主人公本人も、自分が残した記録は正しいのだと信じます。

宮台:そう。話の起点である妻の死から間もなく、主人公は直前の記憶を10分で失うようになり、それを補うために「事実の記録」を残すようになります。ここで究極のネタバレをすると、主人公は、実は自分が妻を事実上殺害したのたという「不都合な真実」を隠蔽すべく、前向性健忘症になって以降の「最初の記録」に、不記載と捏造を加えます。

 以降の記録は「捏造された最初の記録」の分泌物に過ぎないものになります。つまり、それ以降の全ての記録が「捏造された記録」の自己増殖になるという恐ろしい現実が描かれます。つまり、主人公は「捏造された記録」とその増殖物の内側に、<閉ざされて>しまったわけです。僕らの現実を考えるとき、これは極めてメタファリカル(隠喩的)だと思います。

ダース:ただ起点が間違っているというだけで、最初に捏造した記録のもとに行われているさまざまな出来事には、真実性があるんですよね。また、コメントがつけられたさまざな人のポラロイドが並んでいるなかに、自分が楽しそうに写っている写真が一枚あり、これには何も記録されていない、というのもポイントになっていて。

宮台;そう。自分を「捏造された記録世界」に<閉ざす>ことに成功するだろうという喜びのショット。重大な伏線です。この映画が2000年に撮られたことに、注意する必要があります。実はその数年前に、学問がそのことを明確に記しているからですね。今日の思想界隈における「存在論的転回」につながるスリリングな話なので、ざっと説明しましょう。

 90年代半ばにフランスの人類学者ダン・スペルベルが『表象は感染する』(原著1996年)を出します。表象とは記録のことです。人間は、主体(選択の起点)として記録を書き、それを引き継いでいるように見えるが、錯覚だ。実は、記録が、人間たちをシャーレの培地のようにして、自己増殖し、変異してきたのだ、と。

 加工品について、スペルベルと同じ図式で説明したのが、ブリュノ・ラトゥールの『虚構の近代』(原著1993年)です。人間は、主体(選択の起点)として加工品を製作し、それを道具として、再び主体となって更なる加工品を作るように見えるが、錯覚だ。実は、加工品が、人間たちをシャーレの培地のようにして自己増殖し、変異してきたのだ、と。

 これらの業績が「存在論的転回」と呼ばれる理由は明らかです。僕らは主観次第・主体次第でどうにでもなるような、人間中心主義的・相関主義的な世界を生きていないということです。世界に厳然と存在する加工品や表象の自己増殖や変異の歴史が、紛うことなく僕らを方向づけ、僕らがそれらによって導かれているという事実を指摘するからです。

ダース:メモも、日記も、公文書や研究論文もすべて人が書いた記録ですが、その記録を参照して、記録や記憶がさらに作られていく。

宮台:そう。ポイントは「未来が過去を前提とする」という時間の構造です。記録は僕らにとって「過去が与える前提」です。僕らがそれを真実だと思っても、所詮は思っているだけ。それが記録の定義(笑)。ならば、その記録を前提に、積み増すように更に記録を書き、結果として、記録が自己増殖して変異していきます。加工品も「まったく同じ」です。

 そうした学問業績を頭に置いて『メメント』を観ると、「最初に何が記録されたのかという起点次第で、記録増殖の歴史の時空がいかようにも作られ得て、そこに僕らが<閉ざされる>」という深い含意になります。深すぎて、今ある生活世界の中でこの図式を使うことはないけど(笑)、僕らが増殖した記録の時空に<閉ざされている>ことだけは分かるでしょう。

 『メメント』と『TENET テネット』の共通項

ダース:とは言いつつ、それこそ今年話題になった公文書改ざんだったり、勤労統計の水増しについて、それ以降はその数字をもとにした記録の増殖が起こり、新しく閉ざされた檻が作られる……という視点は、『メメント』から受け取れる教訓というか。

宮台:そう。違いは、主人公のような<ヤツ>か、アベ・スカのような<ヤツら>か、というだけです。つまり、起点において「不都合な真実」を体験した<ヤツ>や<ヤツら>が、「捏造された記録」を残し、その結果、記録の自己増殖が形作る時空に<閉ざされる>という共通の形式です。他の時空から境界づけられた別の時空を生きるようになるわけです。

 僕らの社会的なゲームのプラットフォームが、捏造された「最初の記録」によって作られているので、何かの偶然で「まったく別の記録が本当はあった」という話が出てこない限り、作為的に方向づけられたゲームへの<閉ざされ>から逃れることは永久にできません。それがダースさんのおっしゃるとおり、政治領域における記録の大切さを教えてくれています。

 『メメント』の場合、主人公は起点において「不都合な真実」に突き当たりますが、自分が前向性健忘症であるのを利用して、恣意的に「捏造された記録」を残し、その後の記録の増殖に<閉ざされる>ことで、永久に「妻を殺された復讐」をメインモチーフとする時空間を生きられるようにした、というトンデモナイ話です。

ダース:重要なのは、真実に向き合うより、<閉ざされた>世界、檻のなかの方が気持ちいいから、最初にその決定をしていることです。映画の前段では、そんな主人公の性格はわからない。いつも「自分だけわかっていない」というキョトンとした表情をしていて、しかも記憶障害を持っていてかわいそうだと思わされる。実際、彼は自分が捏造した記録の檻の中だけで生きているから、ある意味で本当にかわいそうなんですが、起点において働いている悪どい計算と歪んだ性格がわかるのは、映画の中で一瞬だけなんです。

宮台:本当は徹底的に悪いヤツなんですよ(笑)。

ダース:そして、悪そうに見える刑事が、実は檻の外から呼びかけてくれている人だということがわかる。

宮台:そう。「記録」ならぬ「記憶」の喪失や新造による<閉ざされ>というモチーフは、1969年の『記憶の鍵』(ジーン・レヴィット監督)という映画以降、繰り返し描かれてきたけれども、実は「記録」への<閉ざされ>という話は、僕が知る限り『メメント』が最初で最後です。低予算のコストパフォーマンスを考えても、空前絶後の作品ですね。

 『メメント』を観た時、とにかくノーランが「めちゃくちゃ頭がいい」ことと、日常の事物の手触りを十分に感じられず、「これらは本当にあるのか」「本当にあると思える時空に<閉ざされ>ているのではないか」という懐疑に、一生を使うような性格の監督なんだなと思いました。実際、彼のその後のフィルモグラフィー(作品史)は、それを実証していますよね。

 以上が分かると、『TENET』の前提になっているプロタゴニスト[主人公という意味の英語]の、周りに展開している時空間が、ノーラン監督のどんな時空間のクオリア(体験質)に対応しているのか、明確に理解できるだろうと思います。そのクオリアを観客が自分の内側で再現できるかどうかが、あるべき『TENET』体験のキモになるということです。

ダース:言ってみると、全部が不確かな世界に生きているということですよね。

宮台:そう。『メメント』は僕らが記録に<閉ざされている>事実を、『TENET』は僕らが「時間の矢」と呼ばれる統計熱力学的非対称性に<閉ざされている>事実を描きます。「記録への盲目的依存」や「時間の矢への盲目的依存」を括弧に入れると世界体験がどう変わるかを思考実験し、<閉ざされ>から<開かれ>へとシフトすると何が可能になのかを示すわけです。

 だから、両者は「存在論的転回」の系譜上に位置するという点で「まったく同じ」です。同じく、諸学問界隈の定説に反して「世界は決定論的に創られている」と仮定した時、僕らの世界体験がどう変わるか、それで何が可能になるか、を示しています。つまり、存在論的な事実を括弧に入れたとき、自明性がどう崩れ、それが何を可能にするか、を示そうとするわけです。。

 だから、『TENET』の世界を今の物理学で説明できるかという問いはナンセンスです。「そもそも世界はそうなっている」というオントロジー(存在論的事実)を、どうせ映画なのだから変えてしまえという決断なので、むしろ物理学で説明できないほうが良いんですよ。そこでポイントになるのが、時間を逆行しても過去を変えられないという奇妙な設定です。これは何を目的とした設定なのか。

「ループ」によって支えられる世界観 

宮台:テクニカルな知識ですが、第一に、「順行世界」から「逆行世界」を見る場合は逆回しに見えます。第二に、「逆行世界」から「順行世界」を見る場合も逆回しに見えます。第三に、「逆行世界」から「逆行世界」を見る場合は逆回しになりません。車に喩えます。「逆行世界」で車が前進すると、「順行世界」で後進して見えます。なぜか。

 「逆行世界で車が前進する」とは、「逆行世界の過去=後方向にいる」&「逆行世界の未来=前方向にいる」です。然るに、順行世界と逆行世界では未来と過去が逆転します。だから、「順行世界の過去=逆行世界の未来=前方向にいる」&「順行世界の未来=逆行世界の過去=後ろ方向にいる」。つまり、順行世界では、車が前方向から後ろ方向に後進するわけです。

 今の説明で「順行世界」と「逆行世界」という言葉を入れ替えれば、「順行世界」で前進する車が「逆行世界」で後進するのが分かります。つまり「順行世界」と「逆行世界」は対称です。それが物性物理の時空です。でも統計熱力学の時空では対称性が崩れます。例えば、「順行世界」での内燃機関は酸化=エントロピー増大=無秩序化を使うので、「逆行世界」では機能しません。ただし「逆行世界」の全ての事物が反物質であれば、対称性が回復して問題はクリアできます[正確には、そう主張する学説がある]。

 だから、映画ではそうした設定です。「回転ドア」を通ると、正物質が反物質に変わります。でも、「順行世界」の車も「逆行世界」の車も、同じ正物質の地面と正物質の空気中を走り、同じ正物質の空気を使います。ならば、「逆行世界」の車が正物質の地面と正物質の空気中を走った瞬間に、広島原爆の数億個分のエネルギーを出して対消滅します。つまり地球が消滅するほどの大爆発を起こします。

 だから、カーチェイスを見た瞬間に「ありえない設定」だと分かります。ありうるとすれば地面が正物質でも反物質でもない「中物質」でできている場合です。同じことはヒトにも言えます。「順行世界」と同じ空気を「逆行世界」のヒトが呼吸した瞬間に大爆発します。だから空気も「中物質」です。同じ理由で「逆行世界」のヒトが「順行世界」で着用する防護服も「中物質」でできています。

 でも、「中物質」は理論的に存在できず、観測的にも存在しません。だから、徹頭徹尾「ありえない設定」なのです。そんなことは当たり前で、物理学的にあり得るかという問答は無意味です。そうではなく、「順行世界」と「逆行世界」の間に物性物理が前提とするような対称性が存在するとしたら……という反実仮想によって成り立つ世界を想定した映画だと考えるべきです。

 こうして全ての謎解き問答をクリアできます。実は問題はそこから始まります。そこから始めないと、作品の本質をカスることすらできません。ノーラン監督は『TENET』のインタビューで、15年前に着想したと言います。つまり『メメント』(2005)の制作時です。とすると、彼にとっては謎解き問答なんてどうでもいいことがますます分かります。

 「順行世界」「逆行世界」に隅々まで対称性が存在する。これはヒトが順行から逆行へ、逆行から順行へと、自分が生きる「時間の矢」を変えられたら、どんな自明性が失われ、代わりに何が与えられるのかという問いを立てたということです。自分が「前向性健忘」になったら、どんな自明性が失われ、代わりに何が与えられるのか、という問いと同種ですね。

 対称性が存在するだけで、森羅万象が物性物理の決定論的時空になります。エントロピーや防護服云々はオカズに過ぎません。さて、決定論的時空があるとして、ニールという男が逆行して、名もなきプロタゴニストに会いに来て、順行に戻って行動を共にする。まず、これに気付けるかどうかがポイント。逆行して過去に戻り、そこから順行できるのであれば、未来を変えられるじゃないか、という疑問が浮かぶからです。

 むろん変えられます。でも「変えない」んですよ。ニールは既に作られた歴史の上に出てくる未来から逆行してきた上で、順行する人間と共に「未来にあるはずの歴史」を「なぞるように作る」んです。そうしないと「未来にあるはずの歴史」が消えてしまうからです。つまり、歴史は一部の人間たちーーニールなどーーによる「ループ」によって支えられているのだというわけです。

 例えば、ニールがループすることで、歴史の時空が一部ループします。つまり、「一人の男が、予定されていた行動をなぞる」ことで、「あるはずの歴史を、歴史がなぞる」のです。ニールに呼び掛けられて、主人公も同じミッションに邁進することになります。その結果、この宇宙が一つの宇宙であり続け、パラレルワールド(平行宇宙)に分岐しないで済むのだというわけです。実に奇妙な話ですね。

数々の作品と共有する、ギリシャ的世界観 

ダース:あくまでこういった世界観を描くためのあれこれの装置であって。ニールは逆行してきて、順行に戻り、また少し逆行して……という中で、最後にまた逆行していくところで、彼のある種の構えというか、覚悟が見られます。最初に出てきたときのチャラいイメージから、「え、そんなに立派な人なの?」という印象に変わっていきます。

宮台:そこがこの映画の「言いたいこと」に関係するだろうと思います。物理学を離れるために宇宙を世界と呼びましょう。ニールは逆行と順行を繰り返します。なぜか。「世界は一つでなければならないから」です。だから、例えば未来人から見て、ある時点で死んだことによって歴史を作ったニールは、歴史を正確になぞるために、死ななければならないと思うわけです。

 奇妙な話と言ったけど、そこが物語上の最大の難点に見えます。そんなことがありうるのかと。ところが、あるモチーフで釣り合いを回復するんです。それが「倫理」です。ニールは、物語的にはお笑いに見えるけれども、未来人から見て死ぬことになっている時点で、きちんと死ぬことを決断するわけです。なぜか。それを考えるには、蓮實重彦が「映画は所詮荒唐無稽」と言うように、物語の荒唐無稽さに白けてはいけないんです。

 その「なぜか」が倫理です。巷では、主人公との友情のために死んだと言われています。まったく不正確です。「記録によれば」主人公との友情のために死ぬことになっている自分を、なぞって死んだんです。それだけが正解です。その部分が永久ループになっています。ループは論理的に見て無限に回ることに注意してください。ただし「記録をなぞる場合」に限り回る。つまり、「記録」は、なぞることで同じ「記録」であり続けるわけです。

 ちなみに、「起こるはずの未来を、意志してなぞる」というモチーフは、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督の『メッセージ』(2016年)にすでにあります。主人公の言語学者は「その男と結婚すれば、やがて離婚し、産まれた娘も12歳で死ぬ」ことを、夢を通じて知っています。「だから」その男と結婚した。なぜか。「そのことを知っている自分」だけが自分であり、「自分が自分であり続ける」ためです。 

 「自分が自分であり続ける」覚悟を貫徹するには、自分史が変わってはならないからです。皆さんも自分を振り返ってください。過去の不幸があっての自分でしょう。その不幸を除去したら「今の自分」は消えてしまいます。社会システム理論には、倫理は「貫徹への意志」。進化生物学的には、倫理は「悲劇の共有」から生まれた共同体的存続機能の柱。両方を結合すると「自分が自分でなくなれば、皆はどうなるのか」という配慮を発見できます。

ダース:僕がニールに感じたのは、宮台さんがゼミでよく言っているギリシャ的な生き方です。つまり、自分の結末というものが規定されているがゆえに自由であり、生きることに価値があるんだという生き方をニールはしている。未来に何があるかわからないから、人は守りに入り、右往左往するような生き方をしてしまう。未来に何があるかということを受け入れている人ほど、そのときが来る瞬間まで、自分の価値観に従って生きることができるという対比があります。

宮台:そこが非常に面白いところです。未来が未規定なものだから右往左往する。それが僕らの生き方です。それをエジプト的ーーヤハウェ信仰的ーーだとして軽蔑したのが初期ギリシャ。これをしたら死ぬかも、あれをしたら負けるかも、みたいな条件プログラムーーif-then文ーーを退け、「だからどうした! やらねばならぬことをやるだけだ!」とね。

 そこには、if-then文を取り揃えようとする主知主義に対する、端的な意志を尊重する主意主義があります。未来が未規定だとする僕らの考え方とは対照的な、未来は過去の反復であらねばならないという構えがあります。だから、右往左往ならぬ、覚悟があります。だから、線分的な時間観とは対称的な、循環的な時間観があります。出ました! ループ!

 そう。文字通りのループを描く『TENET』には、『メッセージ』と同じギリシャ的世界観があります。SFだけじゃない。マヤ暦にその構えを色濃く残すアマゾン先住民を描いたシーロ・ゲーラ監督『彷徨える河』(2017年)や『グリーン・フロンティア』(2020年)も同じです。そこには、社会意識論的なーー影響関係とは異なるーー同時代性があります。[ちなみに対談収録後に公開されたアニメ映画『鬼滅の刃』(2020年)も同じ地平上にある]

 『メメント』の「我々は記録に閉じ込められている」という感覚が、学問的先端の「存在論的転回」と共振するように、初期ギリシャ的な「条件プログラムを否定した覚悟=目的プログラム」を愛でる社会意識論的な同時代性が、映画の外にも拡がります。一つは、文明開始後の高度な占いが、フォーチュンテリング(未来の予言)ではないとする主張の拡がりです。

 それによれば、西洋占星術やマヤ暦は、「出来事の予測」ではなく、過去・現在・未来を貫徹する「型の反復」を告げるものです。「右往左往」ではなく、「覚悟」を推奨します。僕が解説を寄せた西洋占星術専門家・鏡リュウジさんの『占いはなぜ当たるのですか』(2002年版以降)や、僕のゼミにおられるマヤ暦専門家・弓玉さんの一連の発言がそれを告げています。

ダース:つまり、「覚悟せよ」ということですね。例えば、『ターミネーター』(1984年)では、未来から過去にターミネーターを送り込み、AIが支配している世界の歴史を変えようとする。同じくSF作品で、時間が大きなテーマになったものでも、『TENET』とは実はまったく違うということですね。

 『TENET』の未来人は覚悟をしている人たちだから、何も変わらないという前提で順行世界で生きていて、先にはもう何もないということがわかっているから、逆行するしかないという発想になっている。それは、同じ世界を逆に生き直すという話であって、未来の状況を変えるためではない。これは作中で説明されていませんが、非常に重要なことだと。

宮台:そう。主人公が、ニールに「お前は誰の指令でやってきたか」と尋ね、「未来のお前だ」と言われたときにも、未来の指導者になるのをやめるという選択肢が与えられている。しかし、倫理的な決断においてそれをしないんですね。指令を受けて過去に何年もかけて逆行した後に順行すれば死ぬことになる、と分かっていても過去に赴くニールと同じです。

ダース:本来はそこで右往左往して、「未来の俺が送り込まなければ、ニールは死なないじゃん」と考えてまごまごする、ということがありえますが、主人公に名前がなく、最初からある種、人を超える存在であるという含みを持たされているというか、俗人ではできないことができる、一神教世界における預言者のような役割を与えられているのではと。

(後編に続く)

■宮台真司
社会学者。首都大学東京教授。近著に『14歳からの社会学』(世界文化社)、『私たちはどこから来て、どこへ行くのか』(幻冬舎)など。Twitter

■DARTHREIDER a.k.a. Rei Wordup
77年フランス、パリ生まれ。ロンドン育ち東大中退。Black Swan代表。マイカデリックでの活動を経て、日本のインディーズHIPHOP LABELブームの先駆けとなるDa.Me.Recordsを設立。自身の作品をはじめメテオ、KEN THE390,COMA-CHI,環ROY,TARO SOULなどの若き才能を輩出。ラッパーとしてだけでなく、HIPHOP MCとして多方面で活躍。DMCJAPAN,BAZOOKA!!!高校生RAP選手権、SUMMERBOMBなどのBIGEVENTに携わる。豊富なHIPHOP知識を元に監修したシンコー・ミュージックのHIPHOPDISCガイドはシリーズ中ベストの売り上げを記録している。
2009年クラブでMC中に脳梗塞で倒れるも奇跡の復活を遂げる。その際、合併症で左目を失明(一時期は右目も失明、のちに手術で回復)し、新たに眼帯の死に損ないMCとしての新しいキャラを手中にする。2014年から漢 a.k.a. GAMI率いる鎖GROUPに所属。レーベル運営、KING OF KINGSプロデュースを手掛ける。ヴォーカル、ドラム、ベースのバンド、THE BASSONSで新しいFUNK ROCKを提示し注目を集めている。

■公開情報
『TENET テネット』
全国公開中
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス
製作総指揮:トーマス・ハイスリップ
出演:ジョン・デヴィッド・ワシントン、ロバート・パティンソン、エリザベス・デビッキ、ディンプル・カパディア、アーロン・テイラー=ジョンソン、クレマンス・ポエジー、マイケル・ケイン、ケネス・ブラナー
配給:ワーナー・ブラザース映画
(c)2020 Warner Bros Entertainment Inc. All Rights Reserved
公式サイト:http://tenet-movie.jp
公式Twitter:https://twitter.com/TENETJP

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