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伊藤健太郎×玉城ティナ『惡の華』は誰もが共感できる“青春映画”に 浮かび上がる名作との共通項

リアルサウンド

19/9/27(金) 15:00

 「あの頃、こんなことを考えていたな……」と、懐かしく中学時代や高校時代をふと振り返るとき、恥ずかしさや切なさなどが混ぜこぜになった複雑な気持ちに襲われることが、誰でもあるのではないだろうか。

参考:場面写真ほか多数

 漫画家・押見修造による同名の代表作を実写映画化した、本作『惡の華』は、ときに「中二病」「黒歴史」などとも揶揄されるような、若者に訪れる不安定な自意識や個性的な趣向、そしてそのときに感じた燃え上がる炎のように熱い想いを、共感を持って描いていく映画作品である。

 本作が描くのは、一見すると普通の感覚とは違った、屈折した学生の“イタい”物語だ。しかし、ここで映し出されていく主人公の青春は、本質的な意味で、多くの人々の学生時代の体験と重なるような普遍的魅力をも持っている。つまり、じつは誰もが共感できる、まっすぐで純粋な“青春映画”になっているのだ。ここでは、そんな本作がなぜ深い感動を与えるような映画になっているのかということを考察していきたい。

 日本の国土の7割以上は山地だ。日本の多くの子どもたちが、そんな山々に囲まれた地方都市の一般家庭に生まれる。そしてそんな閉塞感のなかに大都市発の支社やチェーン店が並ぶ独特な風景を目にしながら、親や教師という身近な大人と接して育っていく。本作もまた、そのような舞台からスタートする。

 中学生といえば、自我が急速に目覚める時期でもある。自分の育った環境に順応し、身近な大人たちと同じような人生を送っていくことに対して、疑問や反感を覚える学生は少なくない。人によってその感情の表現方法は異なり、ある者はグレて反社会的行動に出たり、ロックやラップなどの反逆的メッセージに耽溺したり、学校をサボって海を見に行ったりするわけである。

 本作『惡の華』の主人公である、伊藤健太郎が演じる春日高男は、“文学作品を読む”という、比較的地味な方法で、“教室の密かな反逆者”となっている学生だ。ボードレールの詩『惡の華』や、バタイユの小説『眼球譚』、それから澁澤龍彦のエッセイなどを読み、内心で「この町でこんな作品を理解できるのは自分くらいだろう」という優越感を心の支えにして、退屈な決まりきった日常をやり過ごしている。読書という行為は他者が見れば地味な行為に過ぎないが、本人にとってーーとくに物事の道理を考え始める年頃には、人生に影響を及ぼすような衝撃だったりする。

 ここで、ボードレールの『惡の華』の冒頭、読者にあてて記されている“序詩”の一部を紹介したい。

「殊に意地ぎたなく、腹黒く、不衛生な怪物が一匹。
目に立つほどの身振りはせず、大げさに吼えることもしないそいつが、ついその気になれば、地球は瓦礫の山になるかも知れぬ。
そいつが大きな生あくびをひとつすれば、宇宙も丸呑みされてしまうかも知れぬ。
それ、それが倦怠というやつ。長い煙管(きせる)をくゆらし、麻薬にうるんだ目をして、死罪に相当することをあれこれ、いつまでも空想だけしているやつ」(杉本秀太郎訳)

 ここに書かれた“倦怠”と名付けられた怪物は、教室の隅で退屈に耐えながら、頭の中で不道徳な妄想をして楽しむ、春日のような人物ではないのか。ボードレールはここで読者に、この感覚を共有できる“自分たちこそが宇宙を丸呑みするほどに最強な存在なのだ”と語りかけてくれる。さえない地方都市の中学校の教室で、教師に従順で勤勉な生徒たちだけが評価されるような環境に不満を感じている者にとって、それは救いの光であり、パンクロック的に既存の価値観をひっくり返す生き方を提示する“精神的革命”である。

 さて、「青春映画」とは何なのだろうか。その答えは人によって様々だろうが、筆者が考えるそれは、様々な制約のなかで“損得勘定”や大人の常識に縛られない行動をすることを選び取る主人公を描いた作品のことである。だから、年をとった主人公でも、純粋な気持ちで生きている姿を映し出すことができれば、それは青春映画だし、学生の主人公を描いたとしても、損得勘定や常識に従う生き方を描くような作品は、青春映画とは呼べないだろう。

 本作で誰からも好かれるような優等生・佐伯奈々子(秋田汐梨)と交際することになる春日だが、同時に彼は、玉城ティナ演じる、教師を「クソムシ」とののしり、学校内で不気味がられている仲村佐和が気になって仕方がない。破滅的な狂気を持った仲村とつるんでいるよりも、佐伯と付き合って地元で結婚し、安定した仕事と家庭を持つことを目指すのが、理性的で建設的な判断であろう。だがそれは、ボードレールの『惡の華』に圧倒的高揚を感じ続ける自分を捨て去り、自分自身が見下している“普通の人々”に同化していってしまうことを意味する。本作は、「特別でいたい」と願いながら、周囲の環境に揺れる心の葛藤が、複数の女性のかたちで現れるのである。

 本作で描かれる三角関係のモチーフと進路の問題は、同じく漫画原作の青春映画『翔んだカップル』(1980年)を想起させる部分がある。本作『惡の華』の監督・井口昇は、このように語っている。「『惡の華』は、大好きな『翔んだカップル』の鶴見辰吾さんに出演して頂き光栄でした。個人的裏ネタでは、鶴見さんのシーン直後の、健太郎さんが廊下を歩くカットは『翔んだカップル』ラストシーンのオマージュのつもりなんですよ!」

 『翔んだカップル』は、相米慎二監督のデビュー作である。“ちょっとエッチな”学生時代のドキドキを題材にしながら、その映像世界は衝撃的なまでにみずみずしく美しい。本作もまた、同級生の体操服にドキドキし、思わず自宅に持ち帰ってしまうという、サイテーな行為からスタートし、自意識をめぐる壮大なテーマへと接続していく。

 春日と仲村が、他に誰もいない教室のなかで狂態を繰り広げるシーンは、同じく相米監督の『台風クラブ』(1985年)の刹那的な表現に通じているところがある。学校を破壊するという一種のテロ行為は、大人のルールのなかで生きたくないという願望の発露でもある。

 倫理から逸脱した反社会的行動に走るという部分では、古くは三島由紀夫の小説『金閣寺』を映画化し、歴史的な建造物を燃やすという行為に純粋な若者の想いを重ねた市川崑監督の『炎上』(1958年)があった。本作にもやはり“炎上”する場面があるのが興味深い。その意味で、若者の社会への嫌悪ややりきれない想いが暴発していく『青春の殺人者』(1976年)や『十九歳の地図』(1979年)、『太陽を盗んだ男』(1979年)などの系譜にも本作はつながる。

 そして、青春時代にお別れを告げる切ない場面では、『真夜中のカーボーイ』(1969年)や『サタデー・ナイト・フィーバー』(1977年)、『ブギーナイツ』(1997年)などの、アメリカの名作青春映画を想起させられるのだ。

 一見、アブノーマルな趣味を愛する特殊な少年の“理解しづらい”物語だという印象があるかもしれない本作は、このような視点で見ると、普遍的な青春映画の流れに沿った作品だといえよう。

 近年は、「中二病」「黒歴史」といった言葉がよく使われているように、損得を無視した若い時代の純粋な気持ちを、「それに何の意味があるの?」と、バカにする風潮があるように思える。しかし、それらをみんなが排除していった先には、個性が欠如した、既存の権力やルールに従順な社会が残るだけである。

 生活の問題などから、いつかは社会と折り合いをつけなければならないとしても、一度は“青春”という名の狂気に身をゆだねることも、人生には必要なのではないだろうか。そして、そんな青春を過ごした覚えのある人々にとって、本作で描かれるすべては、純粋な気持ちを持った当時の自分を思い出させることになるだろう。本作はそんな時代の自分から、いまの自分への復讐でもあるのかもしれない。
(文=小野寺系(k.onodera))

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