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仏教界のインフルエンサー・松﨑智海が語る、仏教の面白さ 「見えていないものが実はそばにあったんだという気づきが大事」

リアルサウンド

21/2/19(金) 12:00

 お坊さんは、お釈迦様のファンのようなものーー。難解に思える仏教を、そんなわかりやすい言葉で語るのが、松﨑智海(まつざき・ちかい)氏だ。自身、福岡県にある永明寺(浄土真宗本願寺派)の住職で、TwitterやYouTubeで積極的に発信している。

 堅苦しいイメージがある仏教を柔らかく伝えようと、『だれでもわかる ゆる仏教入門』(ナツメ社)を上梓した松﨑氏に話を聞いた。身近なようで、よくわからないことが多いお寺と仏教。「悟る」ってどういうこと? ごく基本的な質問から投げかけてみた。(土井大輔)

もとは「仏道」だった仏教「面白がっていい」

ーーそもそも、お寺の人とかお坊さんに話しかけるとき、なんと呼べばいいのでしょうか。

松﨑:普通に「さん」付けでいいですよ。とくに僕ら浄土真宗の場合、お坊さんは特別な存在ではないんです。偉くはないんですね。修行で徳を積んだ人ではなくて、お釈迦様の1ファンと同じなんです。ただ、役割が与えられているというだけで。それはお寺の管理であったり、勉強をしたことを伝える役割だったりですね。

 これが日蓮宗だったら名前に「上人(しょうにん)」というのを付けるんですよ。浄土真宗では「しょうにん」というと親鸞聖人と法然上人しかないので、そういう意味では宗派間で違和感があったりもします。

 基本的にお坊さんに対しては変に構えず、いつも通り話していただければと思います。

ーー人と人との付き合いとして接すればいいということですね。

松﨑:お寺って、付き合うのはめんどくさいと思っている方が多いですよね。これをしないといけないのかとか、あれをしちゃいけないのかとか。僕としては、そういうのは気にしなくてよくて。逆にそんな風に考えさせてしまっているところが、今のお寺の良くないところだと思っています。そういうのはお坊さん同士、僕らが気にしていればいいだけの話なので。

ーー智海さんはSNSなどを通じて相談を受けることが多いと思うのですが、どのような悩みが多いと感じていますか。

松﨑:お墓や法事といったお仏事に関する質問はありますけれども、人生の悩みのようなものは、あまりないですね。僕みたいなやつに相談しようと思わないみたいで(笑)。ただ、いろんな話を聞いていると、どの世代も不安ですよね。それはもう、どの世代の人も抱えているものです。歳をとれば穏やかな生活ができるかといえば、そんなことはなく、若い時は若い時の不安、歳をとってからは歳をとってからの不安がある。人間、それを抱えて生きていくんだなっていうのは思います。でもそれは、2500年前に仏教が始まった頃から変わっていないんですよ。

ーー新型コロナで不安を抱くようになったとか、そういうのは関係ないということですか。

松﨑:みなさんコロナ前と比較するんです。今、窮屈だと思ってる人たちは、コロナの前と比較して今の生活が窮屈だと思うんですね。でも、コロナの前に悩みがなかったかといったら、みんなあったんです。コロナがなかったら、癌とか脳卒中とか心筋梗塞で悩むんですよ。最終的に人の悩みというのはあまり変わらない。ただその毛色が変わっただけで。今はみなさんのなかで共通するものが増えて同じ方向を向いたから、みんなで不安になっているだけであって。本質的には2500年前にお釈迦様がおっしゃった「生老病死」、つまり生きること、老いること、病にかかること、死ぬことの不安。そこになんの変わりもないんじゃないかなと僕は思います。

ーーお坊さんも不安になることはあるのでしょうか?

松﨑:お坊さんというと、不安がなくなるとか達観してるんじゃないかと思われるんですが、そんなことはありません。僕も同じ不安を抱えているから仏教をやっているんです。不安がなければ僕は仏教には出合っていなかったし、不安があったからこそ仏教に進んでいるんです。僕はお寺の子なので「将来はお寺を継ぎなさいね」と言われたんですけれども、一度学校の教員になって、そこからはずれてるんですよね。そのまま教員として生きても良かったんです。けれども、こっちに戻ってきたというのは、やっぱり僕にとっては仏教が人生に必要だったからなんです。

 仏教を必要としているのは、苦しい人たち、苦しいことを苦しいと気づいている人たちなんです。苦しいことを苦しいと思えている人たちは、解決を求めようとする。そのひとつが仏教だったり、仏様の教えだったりするんですね。

ーー仏教と他の宗教との大きな違いはなんですか。

松﨑:他の宗教との大きな違いは、自分が仏になるということです。これが一番大きいと思います。僕らは仏になっていく。そして「仏になれるんだ」と説いてくださっていること、「君はどこまでいっても人間のままだよ」ではなく、「君は今の存在よりももっと素晴らしい存在になる可能性を持っている」って言ってくれているのが、僕としては嬉しいんです。 

ーーでは「悟る」とはどういうことなんでしょうか。わかるような、わからないような。

松﨑:もちろん、わからないです。わからないから、やっているんですね。ただひとつわかっているのは、今の自分ではダメだということです。みなさんに「仏様になりたいですか」って聞いた時、「いや別に」ってなると思うんですけども、「今の自分でよいと思いますか」って聞いたら、だいたいの人は「うーん。そうではないな」となる。だったら、どうしたらいいと思いますか? っていうところから始まるんですね。

 じゃあどんな状態を目指せばいいのかというと、2500年前にお釈迦様が伝えてくれたから、そこを目指そうと。それはどんなのですかっていうと、難しくてわからないんですね。

 大事なことは、仏教って昔は「仏道」だったんです。仏の教えではなく、道だった。明治ぐらいに西洋からキリスト教や宗教学が入ってきたときに、名目上、仏教というのができたと言われています。それまでは「道」だったんですね。道は、そこにいること、そこを歩むことが大事なんです。そちらに向かっているということが重要で、最終的にどうなってなきゃいけないということではないんですね。

ーー目指していることが重要であると。

松﨑:『ゆる仏教入門』ではいろんな宗派の人に話をうかがいましたが、みなさん仏道に立っていることが一番大事ですと言われました。「悟り」ということがわからなくても、そこに立っているということ自体が、大きな「悟り」のなかに入っているんだよと。

 「悟り」という小さな点のようなものがあって、そこに向かっているというイメージをしがちなんですが、そういうものではない。「悟り」はものすごく大きなもので、いつのまにか自分がそこに含まれていたということに気付かせてもらうこと。僕はそれが「悟り」のひとつの答えなんじゃないかなと思います。

 仏教ってよく「気づきの宗教」、「気づきの教え」だっていうんです。そういう風に、見えていないものが実はそばにあったんだという気づきが大事なところなのかなと思います。

ーー面白いですね。「面白い」と言っていいのかどうかわかりませんが。

松﨑:いや、面白がってください。それが一番です。僕も「面白いな」と思いながら仏教をやっていますから。

「相談したい」という人が、すぐ飛び込めるお寺であってほしい

ーー『ゆる仏教入門』を書くなかで想定していた読者像はありますか?

松﨑:これは僕のポリシーというか、いつも意識していることなんですが、僕がターゲットとするのは、自分の年齢のプラスマイナス15歳だと思っているんです。僕は今45歳なので、15歳上となると60歳以上の人。その人たちは私の父が担当すればいいんです。15歳下にあたる30歳以下の人は、うちの息子が担当すればいいと思っています。だから僕はプラスマイナス15歳の人のお話しかわからないんです。無理にああでもない、こうでもないと偉そうに言わないようにしています。

ーーSNSやお寺の掲示板のユニークな文言を書くとき、特に意識していることはありますか? 

松﨑:僕らお坊さんの仕事は、届けることだと思っています。届ける時には箱をきれいにする。相手が受け取りやすいように梱包するわけですね。ただの怪しいダンボールはなかなか開けないですよね。でも箱に「Amazon」って書いてあったら開けますし、プレゼントの箱だったら何だろうなと思って開けますよね。ただ開けやすい箱を作っているというだけなんです。いろいろデコっているところがあるんですけれども、中身は一緒です。

ーーSNSでは感情、特に怒りをコントロールするのが難しいなと感じています。智海さんはどうコントロールしているのですか。

松﨑:怒りって、娯楽なんですよね。一番お金がかからない娯楽なんです。だからとっつきやすいし、面白いんですよね。でも一時楽しくなったとしても、それが収まれば「元の木阿弥」で。根本的な解決にはなりませんよね。

 僕もTwitterをやっていますけれども、人生のメインストリームではないと思っています。よく他のお坊さんから、「Twitterのやり方を教えてください」なんて言われるんです。そのときには「目的を明確にしたほうがいいですよ」と言っています。自分とTwitterでの発言をわける。別々にしましょうねと。

 僕の場合、仏教やお寺を知ってもらうことを目的に発信しているので、それを伝えようとしている自分と、素の自分は別の人間なんです。だから「別の人間」がいくら批判されても腹は立たないわけです。悪いのは自分自身ではなく、自分の表現の仕方であって。「これでは仏教の良さは伝わらないな。謝ろう」とか「やり方を変えよう」と変えられるんですよね。でも発言を自分の分身にしちゃうと、自分が攻撃されるし、自分はそうそう変えられない。すると辛くなる。これは仏教の教えとは関係なく、SNSの使い方としてそうしています。 

ーー仏教の面白さ、魅力はどこにありますか。 

松﨑:楽ですよね。僕はやっていて楽しいんです。よかったなと思うことがある。それが皆さんにとっての魅力になるかどうか分からないんですけれども。もちろん苦しいこともいっぱいあるんです。楽になる部分なんてのは、ほんのちょっとで。人生が180度変わるようなことは僕にはなかったんです。でも、それが積み重なっていく。長く生きれば生きるだけ積み重なっていきますから、するとだんだんその違いは大きくなっていくなと思います。

ーー一方で、お寺にはどのような課題があるのでしょうか。

松﨑:お寺の一番の課題は、お坊さんの自信のなさだと思います。今、日本のお坊さんって、尊敬されていないんですよ。僕はベトナムの方とよくお付き合いがあるんですが、ベトナムの方はお坊さんの前を絶対に横切らない。大切にするんです。大切にされると、お坊さんのほうも「しっかりしなければ」と思うんです。自分もこの人たちを裏切らないように、自分の人生を大事に生きていかなければいかんなと思うんですよね。

 そういうことが日本の仏教にはなくなってきている。「お坊さんなんて」とか「どうせ悪いことを考えているんでしょう」といったことばかり言われていると、お坊さん自身も「どうせ俺は」となる。仏教の教えが一般の人には受け入れられないのではと、一番思っているのが、実はお坊さんなんです。

ーーその自信のなさが人に伝わってしまい、仏教ばなれみたいなことが起きると。

松﨑:自信がないから外に出て行かない。みんなお寺にいて、お寺に来る人たちだけを相手にするんです。仏の教えが求められていて、それを伝えていかないといけないんだっていう思いを僕らはきちっと持っていないといけないと思います。

ーーお寺を頼りたいと思った人はどうすればいいのでしょうか。

松﨑:そこなんです。どうすればいいの?から一歩を踏み出す場所をお寺が今まで作って来なかった。「開かれたお寺」という言い方をする人はいっぱいいるんですけども、本当に開けているかといえば、そうではないんです。だから、お坊さんの話を聞きたいというとき、どこに行けばいいのかわからないというのは、日本の仏教の大きな問題のひとつだと思います。

 『ゆる仏教入門』でゲストとして来てくださった各宗派の人たち、その共通点としては、みなさんその第一歩を、敷居を低くする活動されている方ばかりなんです。そういうお坊さんたちが今、いろいろなプラットフォームで一生懸命に頑張っています。

ーーよく知らないお寺に飛び込んで、「相談に乗ってほしい」というようなことはできるんですか?

松﨑:僕は「できる」と言いたいんです。言いたいんですけれども、それをしないお寺がいっぱいあります。これも大きな問題なんですけれども、お寺の住職って「一国一城の主」なんですね。そのお寺の方針は、全部住職が決めてしまうんです。だから堂々と「うちは開かないよ」って言うお寺さんもありますね。「来てもらったら困る」って。

 僕は「いつでも来てください」って言うんですけども。「うちの近くにもそういうお寺さんはありますか」って言われると、「きっとありますよ」としか言えない。だから『ゆる仏教入門』には、そんな僕の葛藤が出ています。これは「そうあってほしい」という、お坊さんに対するメッセージを書いた本でもあるんです。

■書籍情報
『だれでもわかる ゆる仏教入門』
著者:松﨑智海
出版社:ナツメ社
発売日:発売中
定価:1170円(税抜)

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