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村井邦彦が語る、LA交遊録と若き音楽家への伝言「西洋音楽をよく知る必要がある」

リアルサウンド

18/12/18(火) 17:00

 名曲「翼をください」などを世に送った作曲家として活躍する一方、荒井由実、赤い鳥、YMO、ハイ・ファイ・セット、ガロなど錚々たるアーティストのプロデュース、そしてアルファレコードの設立者としても知られる日本の音楽界の立役者、村井邦彦。彼の初エッセイ『村井邦彦のLA日記』が音楽業界を中心に注目を集めている。1990年代前半から活動の拠点をLAに移した村井邦彦の交友録が、貴重なエピソードと共に明かされた同書は、日本のポピュラー音楽史における証言としても重要性を持つ。一時帰国したタイミングで、村井邦彦本人にインタビューを行い、同書の中でも特に興味深い話を中心に、現在の日本の音楽シーンについての感想や、実子である映画監督/映像作家のヒロ・ムライについても話を聞いた。

参考:チャイルディッシュ・ガンビーノ「This is America」MV監督、ヒロ・ムライの作家性に迫る

■「年上の方から昔話を聞くのが大好きだった」

ーー本書『村井邦彦のLA日記』は、同人誌『月刊てりとりぃ』(2018年夏に終刊)に2011年から連載していた「LAについて」を書籍化したものです。そもそも、この連載が始まった経緯は?

村井:『月刊てりとりぃ』の連載陣の多くは、昔からの仲間です。学校の先輩で作曲家の桜井順さん、作詞家の山上路夫さん、『村井邦彦のLA日記』の表紙の絵を描いてくれた宇野亞喜良さんもそうですし、日本アニメ界の元祖みたいな古川タクさんもそう。僕より若い人だと、ヒップホップのことは何でも知っている大学教授の大和田俊之さんとか。そういう色々な方が書いている同人誌です。何か書きませんかと濱田高志編集長にいわれて書き始めたら、あっという間に7年半くらい経ってしまいました。『月刊てりとりぃ』は面白い同人誌だったので、僕の本以外にもこれから何冊か書籍化されるものがあるかもしれませんね。

ーー『月刊てりとりぃ』の連載は、後続となるWebサイト『週刊てりとりぃ』で続けられるとのことなので、楽しみにしています。村井さんは、赤い鳥「翼をください」をはじめとした数多くの名曲の作曲・編曲で多くの方に知られる一方、アルファレコードの設立者として荒井由実やYMOを世に送り出すなど、稀代のビジネスマンとしての顔もお持ちです。もともと、音楽のビジネス的な側面にも関心を持っていたのですか?

村井:僕は最初、1969年にフランスのバークレイ音楽出版社からフランク・シナトラの「マイ・ウェイ」の出版権利を得たところから、音楽著作権の仕事を始めました。そのバークレイ音楽出版社やバークレイ・レコードを設立したエディ・バークレイという人はピアニストでありながら、レコード屋をやったり、オーケストラをやったりしながら、会社もやっていたんですね。作曲もやっていました。バークレイ・レコードはクインシー・ジョーンズ、ミシェル・ルグラン、ジャック・ブレル、シャルル・アズナヴールなど、錚々たるアーティストの作品を世に送り出して、一時はフランス最大のレコード会社になりました。そういうのを見ていたから、音楽をやることとレコード会社をやることが、それほど違うことではないと思っていたんです。普通、会社というのは利益を出すことが第一目的になっていますが、僕の場合は自分が面白いと思う音楽を世に出したくてやっていた。そのためには利益を出さなければいけないという点では結局一緒ですがね。

ーー本書では、アトランティック・レコードの創業者であるアーメット・アーティガンとの交流についても書かれていて、大きな読みどころとなっていますね。彼もまたそうした両面を持った方だったのでしょうか?

村井:アーメットの場合はまず、自分自身が熱心な音楽ファン/音楽マニアですね。お父さんが駐米トルコ大使で、大使館でデューク・エリントンなどの有名なジャズミュージシャンを集めてパーティーや演奏会をしていたそうです。そういう趣味が昂じてレコード会社をはじめたのです。作曲家としてもレイ・チャールズに「メスアラウンド」という曲を書いています。1970年頃、僕が25歳の時に知り合って、彼はその時は47歳でした。年齢は離れていましたが、アーティガン兄弟(兄はネスヒ・アーティガン、元ワーナー・インターナショナル会長)が作ってきたレコードには、MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)やチャーリー・ミンガスなどの素晴らしい作品がたくさんあって、僕はそういうレコードを子供の頃から聴いてたから話が通じたんです。それで付き合いが深くなっていきました。

ーー本書の後半では、アーメット氏を介してフィル・スペクターと一緒に食事したエピソードもさらりと紹介されていました。偉大なプロデューサーですが、彼はどんな方でしたか。

村井:うーん、ちょっと問題のある人でしたね。普段はとてもおとなしい人なのですがドラッグをやると人が変わって狂暴になる。歳を重ねるほどに酷くなっていって、とても本には書けないようなこともありました。心配したアーメットが僕に、「もう二度とフィルを食事に呼ばないようにする」と電話をしてきました。

ーー本当に様々な交流があったんですね。ヘンリー・キッシンジャー元国務長官ともお会いしたとか。

村井:そうですね。キッシンジャーさんはアーメットと大親友でしたから。それでいろいろなところでお見かけしましたが、ちゃんとお話したのは一度きりです。

 キッシンジャーさんはソニー創業者の盛田昭夫さんと交流があって、盛田さんに日本の若者と話をしてみたいと言ったそうです。それで盛田さんが東京のご自宅に僕を含めた5~6人の若い日本人を呼び歓談したことがあったのです。“あなたはどんな仕事をしているのですか?”と聞かれたので、“アーメットと同じ仕事です”と言ったら大変興味を持たれていました。ちょうどその頃、YMOの『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』(1979年)が出たばかりだったので、後日、彼の事務所にレコードを送ったら、ちゃんとお礼状が届きました。

 キッシンジャーさんはNYのアッパー・イーストサイドにあるカーライルホテルというところに住んでいました。アーメットのタウンハウスも近所にありました。そのあたりに住んでいるジェットセッターと呼ばれる裕福な人たちは、年中ヨーロッパとアメリカを行き来していました。ジェット機に乗って飛び回ってるからジェットセッターと呼ばれたのです。ロナルド・レーガン大統領夫人のナンシー・レーガンさんの大親友ジェリー・ジプキンや、後にエージェントとしてニクソン大統領のインタビューを仕切ったアーヴィング・ラザールなどが中心的な人物でした。アーメットがローリング・ストーンズと契約してからは、ストーンズのコンサートの楽屋はこういったジェットセッター(キッシンジャーさんを含め)の社交場になりました。僕はパリでストーンズの楽屋に行ったことがありますが、演奏より楽屋のパーティーのほうが面白かったです。

ーーこの本の交友録でいうと、駐仏大使を務めた古垣鐵郎(てつろう)さんなどは50歳近く年上でしたよね。それくらい年が離れた方から学んだこととは。

村井:僕は25歳の時、70歳の古垣さんと会いました。ですから45歳年上ですね。古垣さんは学生のような天真爛漫さをお持ちで、毒舌家でユーモアがあり僕の大好きな人でした。それでお亡くなりになる1987年まで17年間ずっとお付き合いさせていただきました。

 鹿児島に生まれた古垣鐵郎さんは、1923年にフランスのリヨン大学法学部を卒業し、すぐにジュネーヴの国際連盟に就職しました。その後、朝日新聞社欧州局長、NHK会長、駐仏日本大使などを務めました。

 戦前、戦中、戦後にかけて世界情勢をよく見てこられた方で、自分は生涯ジャーナリストだとおっしゃっていました。シャルル・ドゴール大統領にもっとも信頼された日本人だったと思います。王位を捨ててアメリカ人女性のウォリス・シンプソンと結婚したウィンザー公と親しく付き合っていらしたようで、そのお付き合いも戦前のロンドンから始まり、戦後ウィンザー公が亡くなるまで続いていたようです。学んだことはたくさんありますが、どんな国のどんな人々とも等しく接しておられる姿を見て自分もそうしなければと思いました。

■「ユーミンのレコードを作っていた頃に録音の技術革新があった」

ーー村井さんは大きな時代の移り変わりを体験されている世代です。70年代から80年代にかけては特に過去から脱却しようという風潮が強かったと思うのですが、村井さんは新しいものを生み出しつつも、過去の良きものを継承していこうという意思も同時に抱いていたように感じました。

村井:それが僕の一番やりたいことです。僕は、全部がちゃんと続いているんだよって、みんなに伝えてまわっています。例えば、戦前はただただ暗い時代だった、民主主義はアメリカから教えられたものだと考えている人がいたりするけれど、とんでもない。大正デモクラシーと呼ばれる時代があったのです。そうした文化的、精神的な潮流は一貫して流れています。音楽でも同じことが言えて、僕がやっていた慶應義塾大学ライトミュージックソサイェティは、戦後間もない1946年からスタートしているんです。それはつまり、戦前の1910年代から脈々と日本のジャズの歴史があったということで、一時は弾圧されていたけれど、時代が変わって地下水が表面に出てくるように世に出てきたのです。

ーー戦後になって、急にジャズが出てきたわけではない、ということですね。70年代には村井さんは荒井由実などを世に送り出し、ニューミュージックと後に呼ばれる新しいポピュラー音楽の流れを築き上げますが、その時もやはり過去の良き部分を継承していこうとの意識があったのでしょうか?

村井:ユーミンも過去の良いものが好きです。ユーミンのレコードは彼女のものだから、彼女が何を感じてどう表現しようとしているのかを周りからサポートしてあげるような感じでした。細野晴臣みたいな良いミュージシャンをくっつけてあげたり、良い録音設備を整えてあげたり。

ーーアルファレコードの専用スタジオ「スタジオA」ですね。アルバム『ひこうき雲』(1973年)を聴くと、当時のミュージシャンたちが作り上げた空気が生々しく感じられて、今なお古びない作品だと感じます。

村井:ちょうどその頃、録音の技術革新があったんです。簡単にいうと、ステレオ録音から多重録音に変わった。仕組としては現在のプロ・ツールスも一緒です。だから今聴いても古くならないんです。僕は外国をぐるぐる周っていたから、向こうの人たちがどんどん多重録音に切り替えていくのを見ていて、これは日本でもやらなければダメだって、いち早く取り入れたんです。

ーー村井さんは、その後も多くの名盤を世に送り出していますが、一方で制作に対して厳しい姿勢で臨み、一定の水準をクリアしていない作品は決してリリースしなかったと伝えられています。当時、どのような見極めをしていたのかを教えてください。

村井:まず、音が狂っているとか、問題外のものはもちろんダメです。あと、レコードは作るのもお金がかかるけれど、マーケティングにもお金がかかるんですね。だから、レコードとして形になっていたとしても、どうやったってマーケットに乗せるのが難しい作品の場合、出さないほうが損失が小さいという考え方もあるわけです。ユーミンのレコードを作っていた頃はたった30人くらいの小さな会社でしたから、そういう判断が必要な時もありました。

■「息子(ヒロ・ムライ)は子供の頃から絵が大好きだった」

ーー時代の移り変わりの中で、音楽業界も大きく変化してきました。村井さんが見てきた中で、もっとも大きな変化だと感じたことは?

村井:一番大きかったのは、誰でも録音ができる、誰でもタダで音楽が聴けるという、デジタル技術とインターネットによる革命だと思います。これによって、レコード会社のあり方も完全に変わってしまったし、音楽の聴き方もずいぶん変わったと思います。1990年代ぐらいまでかな、アメリカの音楽が全世界の指導的なポジションを取っていたけれど、どうも20世紀末から21世紀になってからは、みんな蛸壺に入っていったような気がするね。例えば日本の場合、僕らがアルファをやっていた70年代頃、洋楽と邦楽が半々くらいで聴かれていたけれど、今は9割方の人が邦楽しか聴かない状況です。日本なら日本の蛸壺、フランスならフランスの蛸壺、カントリーならカントリーの蛸壺という感じになってしまった。ずっと昔の話だけれど、1967年にビートルズが衛星中継で「All You Need Is Love」の公開レコーディングを全世界に流した時は、世界中の若い人がそれを観て熱狂していました。今はそういう感じがないですよね。

ーー村井さんご自身は、2000年代以降の日本のポップスを聴いていますか。

村井:きっと、いい人もいるんだろうけれど、なかなか接する機会がない。特にアメリカに住んでいると、観られるのはNHKの歌番組ぐらいですから。残念だけれど、ああいった番組に出ている人で良いなと思える人はいませんね。たぶん、僕が歳を取ったからなのでしょうけれど。日本の若い人にとっては、共感できるものがあるのかもしれない。アメリカではむしろ、K-POPがすごい人気で、ティーンエイジャーの若い女の子たちが熱狂していますね。この辺りの現象は、大和田俊之さんに聞くとわかるかもしれない。僕にはよくわかりません。

ーー現在はほとんどアメリカのロサンゼルスで生活しているとのこと。村井さんにとっては、向こうの方が快適ですか?

村井:間違いなく気候はLAのほうが快適です。だけど食べ物は日本が最高ですね。しかし両方に家を持っているとコストがかかりますからね。どちらかを選ぶとなったら、子供たちがいるし、音楽の仲間もいて、すっかり暮らしの体制が出来上がっているので、向こうを選ばざるを得ません。

ーーそんな村井さんから見て、現在の日本の社会はどのように映っていますか。

村井:日本は経済的に元気がないというけれど、例えば地下鉄に乗って人々を見ているとまず驚くのは、その身なりの良さだよね。みんな清潔で、正直そうに見える。LAの服装はもうめちゃくちゃ(笑)。ホームレスの人たちや、ちょっと危ないなと思う人がたくさんいる。そういう意味では日本はとても暮らしやすい国だと思います。急に銃を発砲されたりすることは、まずないですからね。僕が移住した90年代前半は、ロサンゼルス暴動の直後でしたから、今よりもさらに大変でした。最初、背広を着てネクタイを締めていたら、周りの友人から「それじゃあ旅行者に見える」と注意を受けたこともあります。

ーー昨今では、村井さんのように、LAで活躍する日本人が増えている印象です。特に村井さんのご子息である映画監督/映像作家のヒロ・ムライさんも、大変な活躍ですね。ヒロさんが手がけたチャイルディッシュ・ガンビーノの「This Is America」のMVは、昨今でもっとも話題になった作品の一つです。

村井:随分いろんな方が来て活躍していますね。作曲家のヒロイズムとか、B’zの松本孝弘さん、ソニーのプロデューサーだった高田さんという人もアメリカの出版社で頑張っています。LDHもなにかやろうとしていますね。息子は、最近は色々な脚本を読んで、自分が次に撮る映画を選んでいるみたい。来年は、『アトランタ』のシーズン3をやるんじゃないかな。それと、「This Is America」の次作となるMVも制作中みたいですよ。彼は9歳の頃にLAに来たんだけれど、子供の頃から絵が大好きで、ずっと描いていたから、いずれはこういう世界で活躍するんじゃないかと思っていました。黒澤明さんも絵が得意だったというしね。

ーーもともとそういう素養があって、お話を作る才能もあったということですね。村井さんと、例えば文化についての話などもされますか。

村井:話しますよ。僕が知っている日本の話だとか、歴史の話をすると、「ふーん」と言って聞いて、彼なりの解釈をしているようです。

ーーヒロ・ムライさん含めて、現在の20代~30代の若いデジタル世代は、それ以前の世代とは異なる感覚を抱いているように思います。村井さんは若い世代をどのように見ていますか?

村井:20歳ぐらいの生徒と話をすると、ちゃんとコミュニケートできているのかなと疑問に思うことがあります(笑)。我々とは違う感覚を持っているように感じますね。うちの息子でも「最近の若い奴らは何を考えているのかわからない」というくらいで、彼が20歳前後だった15年前と今では、テクノロジーにも大きな差があるみたいです。

ーー村井さんが、若い世代の人に伝えたいことは。

村井:昔のことをよく勉強しなさい、歴史から学びなさい、ということですね。それは、僕が古垣鐵郎さんのような年上の方々から教わってきたことです。音楽でいえば、ヨーロッパが生み出した西洋音楽がどのように完成して、それがどのように破壊されてきたか。西洋音楽が民俗音楽を取り込む、あるいは民俗音楽が西洋音楽を取り込むことによって、今の混沌とした状況になっていることを理解することが大切なんです。これから先、音楽がどのように変化していくのかはわからないけれど、継承するにせよ、否定するにせよ、まずは今の音楽のもととなっている西洋音楽をよく知る必要があると思います。(取材=神谷弘一)

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