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『フルーツバスケット』本田透が教えてくれた、人を愛することの意味 

リアルサウンド

20/6/9(火) 17:13

 十二匹の動物と神様の宴会。そして宴会に参加できなかった猫――。

参考:『フルーツバスケット』が時代を越えて愛され続ける理由とは?

 十二支のおとぎ話をモチーフとする少女漫画がある。日本のみならず世界中からも支持を受け、昨年2019年から「全編アニメ化!」と力強く銘打たれたアニメが放送中の作品。それが高屋奈月の『フルーツバスケット』だ。

 連載終了から10年以上経った今でも愛され続けるこの作品の「愛の源」とも呼べる主人公・本田透についてを、ここで読み解いてみたい。

 『フルーツバスケット』は、「異性に抱きつかれると十二支の動物に変身する」という呪いを持つ一族・草摩家の面々と、両親を亡くした本田透の物語だ。

 十二支の物の怪の呪いを持って生まれた子供たちは、そのほとんどが心に大きな傷を抱えている。動物の姿になってしまう我が子を受け入れられない親から手酷く拒絶されたり、そのせいで家庭が壊れてしまったり、それを「おまえのせいだ」となじられたり。歪んだ環境で、十分な愛情を受けられずに育った者が多い。

 家の外でも、その生きづらさがやわらぐことはない。変身の秘密がばれないよう常に注意深く生活しなければならないし、仮に好きな異性ができたとしても、抱き合ったりすることはできない。自然と彼らは心を閉ざし、他人と一線を引いて生きるようになる。

 例えば、子(ねずみ)の呪いを持つ草摩由希。眉目秀麗で人当たりもよく、学校では王子様扱いされている由希だが、彼もまた家族から冷たくあしらわれ、自分を否定され続けた過酷な過去を持つ。

“「自分を好きになる」って…それってどういう事なんだろう”

“嫌いな所しかわからない。わからないから嫌いなのに”

“誰かに「好きだ」って言ってもらえて初めて…自分を好きになれると思うんだ”

 自分を愛す方法を知らないまま生きる由希と出会うのが、本田透だ。

 天然でバカがつくほどお人よしの透は、偶然十二支の呪いを知ってしまう。けれど気味悪がることもなく、ごく普通に由希たちに接する。普通に笑いかけ、普通に親切にし、普通に隣に座る。透はとびぬけて頭がいいわけでも、特殊な能力を持っているわけでもなく、作中でも「普通の子」と評される。けれど、「普通」に扱ってもらったことのない十二支たちにとってその「普通」は初めて出会うものであり、かけがえのないものとなって、少しずつ心を溶かされていく。

 由希にも、透の言葉は太陽のように降り注ぐ。

“お友達になって下さいね”

“草摩君の優しさはロウソクみたいです。ポッと明かりがともるのです。そうすると私は嬉しくてニッコリしたくなる”

“由希君‼ 遊びましょう‼”

 あたたかい「好き」を惜しみなく贈る透。そんな透は、由希だけでなくほかの十二支たちにとっても、「自分を好きになる最初の一歩」を与える存在になっていく。

 だが、透自身も決して恵まれた環境で育ったわけではない。幼くして父が病死し、高校に上がった直後に母も事故死。親戚からは厄介者扱いされている。

 それでも、透はいつでもひたむきで、前向きだ。一時はテント生活さえ余儀なくされながら、仲の良い友達がいることに感謝し、バイトに励み、母の望んだ高校卒業を目指す。

 透のこの強さは、母・今日子からの溢れんばかりの愛ゆえだ。

 今日子は絶え間ないほど「透は可愛い」という言葉を口にし、透が迷子にでもなれば周りが引くほどうろたえ、最後にはキレ始める。あけっぴろげなその愛情を、透もまっすぐに受け取っている。

“私はお母さんに可愛いって言われる事が嬉しかったです。大好きだぞーって言ってもらえてる事だから”

 途中で何度も差しはさまれる透と今日子の回想は、いつだって二人の幸福な笑顔で彩られている。母子家庭での暮らしは楽でも裕福でもなかったはずだが、もっと大切なもので満たされているのがわかる。

 透は満たされること、愛されることを知っている。そして、そういう相手がある日ふいにいなくなってしまうことも知っている。だからこそ、愛されることを知らず、孤独にたたずんでいる人にも自然に寄り添うことができるのだ。

 そんな透にとって、特別な存在になっていくのが草摩夾だ。

 夾が憑りつかれているのは、猫の物の怪。猫はねずみに騙されて宴会に参加できなかったはぐれ者だ。おとぎ話と同じように、「猫」である夾は草摩家の物の怪憑きの中でもさらに蔑まれ、のけ者にされている。

 そんな生い立ちゆえに、人一倍劣等感が激しく、すべてを憎んでいるような夾。彼の硬い殻を、透はゆっくりとひとつひとつはぎ取っていく。そこに残るのは、少し人見知りだけど、慣れれば人を惹きつける魅力を持った、ただの男の子だった。

 自然と惹かれあっていく二人。だがここで、透を守ってきたはずの「好き」という感情が障害となって立ちはだかる。それは、「母を忘れていく」ことへの恐怖と、罪悪感だった。

 亡くなってからもずっと「お母さんのために」「お母さんが一番」と言い聞かせて自分を支えてきた透にとって、夾を好きになって、優先順位が変わってしまうことは、母への裏切りのように思えたのだ。

 そんな透の葛藤を打ち破ったのは、クライマックスシーンでの草摩家当主・慊人との対峙だ。慊人は十二支の物語における「神様」にあたる人物で、由希や夾たち十二支を縛り、苦しめてきた元凶でもある。けれど、徐々に呪いが解けていくことで、慊人は逆に置いていかれる側になる。そんな慊人の姿が、透には薄れる母の思い出に重なっていく。

“変わっていく事が生きていく事なら、なんて残酷な優しさだろう”

 生きることは変わること。それは寂しいことかもしれないけれど、それを乗り越えて、透は前に進むことを決意する。自分の、夾への想いを受け入れて。

 その言葉はあまりにも透らしく、強い。

“大好きです、夾君”

“それはとっても、無敵です”

 「好き」は循環する。空っぽの状態から自分一人で生み出すのは難しくても、誰か一人からでも与えられたことのある人は、それをちゃんと持っている。持っている人は、別の誰かにもそれを渡すことができる。今日子から透がもらい、夾に、由希に、慊人たちに与えていったように。

 愛が欠けて停滞していた人たちに、透は「好き」を注ぎ続けて緩やかに循環させていった。その愛情は今もなお、物語を読み返すたび、読者である私たちにも差し出されているのだ。(満島エリオ)

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