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魚喃キリコが描いた、90年代の東京で生きた「わたし」 『魚喃キリコ未収録作品集』を読む

リアルサウンド

20/6/29(月) 8:00

わたしの仕事は、白を黒で汚すこと。
真白な誰かを、もしくはわたし自身を、汚すこと。
愛しながら、とてもとても愛おしみながら。
(「わたし。」より,『魚喃キリコ未収録作品集【下】』(東京ニュース通信社発行/講談社発売)収録)

 90年代から’00年代にかけて、若い女性を中心に絶大な支持を受けた漫画家・魚喃キリコの、単行本には収録されていない作品を集めた『魚喃キリコ未収録作品集』上・下巻(東京ニュース通信社発行/講談社発売)が、17年ぶりの作品集として5月22日に発売された。今年3月、過去作品9冊が限定新装版として復刊すると共に、魚喃キリコ本人による解説本『魚喃キリコ作品解説集』(東京ニュース通信社発行/講談社発売)も発売されたこともあり、近所の本屋の書棚の一区画が魚喃キリコで埋め尽くされていて、思わず足を止めてしまった人もいるのではないだろうか。

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 学生時代から20代にかけて魚喃キリコワールドにどっぷりと溺れたことのある人は、これを機にもう一度読み返してみるのも面白いだろう。

 魚喃キリコは、自分自身の経験を漫画の中に閉じ込めるように描いていた。彼女の物語に多くの人が心を震わせずにはいられないのは、彼女が描く、上京し、90年代の東京で小さな愛を頼りなげに抱いて生きる「わたし」の姿が、魚喃キリコ自身だけでなく、多くの同時代を生きた「わたし」たちの姿と重なるからではないだろうか。頁を捲れば、きっと「あの時のわたし」と出会える。あの時の、辛く切ない、どうにもできない感情と出会える。それは90年代、’00年代に限らず、今、登場人物たちと同世代の若者たちも同様だ。

 3年前の映画『南瓜とマヨネーズ』(富永昌敬監督)のヒロインの心情に、多くの20代女性が悶えたように、彼女が描く「オンナの人生」には、震えるほどの共感と、儚いほどの憧れがある。

 『魚喃キリコ未収録作品集』上・下巻は、月刊漫画『ガロ』(青林堂)に掲載された1993年のデビュー作『HOLE!!』のみならず、デビュー以前の作品から、未完の連載作『ハイタイム』、休筆に至るまでに描かれた複数の短編等の未収録作品を辿ることによって、魚喃キリコの軌跡を楽しむことができる2冊になっている。

 怖いぐらいの濃淡で表現する鮮やかさ、毒々しさに目を奪われる初期の筆致が、後半にさしかかるにつれて、より繊細さを帯びた美しい線になっていく様は興味深く、下巻に収録されている、魚喃キリコ作品では珍しい、カラーのイラストレーションはファン必見である。

 また、愛犬にまつわるエピソードを描いた『うちの犬らぶらぶ日記』や、酔って前歯を折ってマスク生活を強いられてもポジティブな姿が衝撃的な『ナナナン。』等のエッセイも楽しい。

 興味深いのは、上巻で垣間見ることのできる、魚喃キリコ作品の登場人物の分身たちの姿である。

 まずは、市川実日子、小西真奈美で映画化もされた『blue』。同級生の女の子への憧れともどかしく淡い恋心を抉るように描いた傑作だ。ただ好きになった子が同性だったというだけで、不安定で繊細な、それでいて爆発しそうな心情は、だれしも通ってきた思春期特有の感情を思い出さずにはいられない。年上の男性に恋をした少女と、その少女に恋をしている少女の物語。

 自身の女子高在学時代の実体験をベースにしているという物語の原型とも言える少女たちの姿を垣間見ることができるのは、上巻掲載の未発表作品『fault』、そして後日談とも言える、1995年発表の『すべては壊れるためだけに』である。『fault』のヒロインは卒業式まで「好き」という感情を胸に抱いたまま、表に出せずにいる。魚喃の体験により近いのはこの『fault』 なのではないだろうか。

 『すべては壊れるためだけに』は、高校時代に好きだった子を忘れられないまま上京し、寮生活を始めた「桐島カヤコ」の物語。1997年に発売された『blue』のヒロインの名前が「桐島カヤ子」であることから、1995年の時点で、魚喃の中で「キリシマカヤコ」は既に生まれ、物語よりも先の人生を歩んでいたということになる。

 次は、臼田あさ美、太賀(現・仲野太賀)で映画化もされた『南瓜とマヨネーズ』の断片。登場するのは、上巻掲載の『大好きなチャリ男』。発表された年月は初出に記載がないため定かではないが、ヒロインが恋焦がれる、「毎朝8時15分に必ずすれちがう」チャリ男こと「ハギノマサフミ」は、『南瓜とマヨネーズ』でヒロインが忘れられない昔の男「ハギオ」を思わせるキャラクターだ。

 『大好きなチャリ男』にはチャリ男とヒロインと、ヒロインの同僚しか登場しないのにも関わらず、チャリ男の部屋の中に漂う「オレンジのにおい」だけで別の女性の存在を感じさせる手腕は素晴らしい。

 『南瓜とマヨネーズ』のハギオは「情なんかいっしょにいれば誰にだってわく」と言い、『大好きなチャリ男』のハギノは「情ってゆっても、それって同情かもよ?」と突き放す。一つところに留まることのできない、情で「繋ぎとめる」ことができない男ほど、女が執着せざるを得ない存在はない。

 冒頭に引用した、魚喃が自分自身について語った言葉は、身を削るように、人生全てを注ぎ込むようにして描いてきたのだろう、あまりにも真摯な彼女の漫画そのものである。読者は、彼女の生み出した作品を辿ることで、魚喃キリコ自身の人生を垣間見る。だからこそ、続きが読みたい。40代になったヒロインの、新たな恋物語を。魚喃キリコの本当の意味での新作を、待ち望んでいる。

(文=藤原奈緒)

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