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『鬼滅の刃』鬼殺隊はなぜ“日輪刀”を武器にする必要があったのか? 刀鍛冶たちの誇りと情熱

リアルサウンド

20/6/15(月) 8:00

 本稿では、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴)の主人公たちの使う武器が、なぜ日本刀(日輪刀)でなければならないのか、ということを書こうと思っているのだが、その前に「鬼」についての話をしたい。

 「鬼」という言葉を聞いて、あなたがいまパッと思い浮かべたのはどういうイメージだろうか。おそらくは、頭に角が生えた筋骨たくましい人型(ひとがた)の怪物のビジュアルではないだろうか。そう――この、普段は山奥や孤島に隠れ住み、時おり人里に現れては悪事を働く(あるいは地獄で罪人を懲らしめる)想像上の怪物のことを、多くの人々は「鬼」だと思っていることだろう。無論、それは間違いではない。ただひとつ補足することがあるとすれば、その角が生えた人型の怪物は、あくまでも狭義の「鬼」であり、広義の「鬼」は「妖怪」という言葉に置き換えられる、ということだろうか。つまり「鬼」とは、広い意味では「人外の怪物」の総称でもあるのだ。たとえば「百鬼夜行」という言葉が、「さまざまな妖怪の群れ」を意味することからもそれはうかがえるだろうし、『鬼滅の刃』の作者が描いているのも、基本的にはこの広義の「鬼」だと考えていい。

参考:『鬼滅の刃』胡蝶しのぶ、美しき「毒娘」の魅力とは? 陰と陽の混じりあった“個性”に迫る

 そしてもうひとつ。歴史をひもとけば、いま述べた想像上の怪物(妖怪)だけでなく、実在の人間でありながら「鬼」と呼ばれた人たちもいる(こちらは「オニ」と書くべきかもしれないので、以下、カタカナで表記する)。この場合の「オニ」とは、具体的にいえば、「山の民」と「特殊な技能を持った者」(この2つは重なり合う場合が少なくない)、あるいは、「中央の政権の支配に抵抗した人々」のことである。

■「刀鍛冶の里」で暮らす名匠たち=「オニ」

 とりわけ『鬼滅の刃』を読み解くうえで注目すべきなのは、「特殊な技能を持った者」ということになるだろう。ここでいう「技能」とは、おもに金属を鍛錬する技――「鍛冶」のことだと考えていい。そしてその技を持った鍛冶師には当然、刀鍛冶も含まれる。そう、大量の火を操り、鋼(はがね)の塊から強靭な日本刀を作ることのできる彼らは、常人にはない不思議な力を持った異能者――まさに「オニ」であった。

 「毒をもって毒を制す」という言葉があるが、「オニ」が作った武器だから「鬼」を退治することができる、という原理がここに成り立つわけである。たとえば、鬼退治といえば、大江山の酒呑童子を討伐した源頼光が有名だが、彼は「鬚切」と「膝丸」という源氏の宝刀を2本所持していた。「鬚切」は鬼の腕、「膝丸」は蜘蛛の変化(へんげ)を斬ったという伝説があり(注・「鬚切」で鬼の腕を斬ったのは頼光ではなく配下の渡辺綱)、それが――つまり、魔物の血を吸ったことが、これらの宝刀の霊力をさらに高めたといっていいだろう。のちに「鬚切」は「鬼切」、「膝丸」は「蜘蛛切」と名を改めることになるのだが、いずれにせよ、この2本の刀についても、「オニ」が作り、「鬼」の血を吸ったから「鬼」を斬ることができる、という原理が成り立つわけである。

 そしてこの原理は、『鬼滅の刃』に出てくる鬼殺隊の剣士たちの武器――「日輪刀」の設定にもそのまま活かされている。そう、同作では、「刀鍛冶の里」で暮らす名匠たち=「オニ」が、太陽に最も近い山「陽光山」の砂鉄と鉱石を原料にして鍛えた日輪刀だからこそ、鬼舞辻󠄀無惨配下の「鬼」たちを斬ることができる、という原理のもとに「鬼狩り」が行われるのだ(注・陽光は鬼の弱点のひとつ)。ただしその刀の使い手たちは、「育手(そだて)」のもとでそれぞれの「呼吸法」を体得せねばならず、そういう意味では刀鍛冶だけでなく、剣士たちにも人間の潜在能力を極限まで高めた「オニ」になることが求められているといえるだろう(余談だが、「上弦の鬼」の黒死牟や獪岳は、自らの心の闇に負けて、「オニ」ではなく「鬼」になってしまった悲しい剣士たちである)。

※以下、ネタバレあり

 それにしても、あらためて『鬼滅の刃』を読み返してみて気づかされるのは、“お館様”を頂点とする鬼殺隊という組織の構造が、末端までとてもよく考えられていることだ。前線で戦う剣士たちを支える「隠(カクシ)」や「育手」の存在はもちろんだが、なかでも読者の心に強く残るのは、日輪刀を鍛える刀鍛冶たちの生きざまではないだろうか。特に単行本の12巻から15巻にかけては、鬼殺隊と上弦の鬼との戦いと併行して、刀鍛冶の仕事に対する誇りと情熱が描かれている。

 これは12巻でのエピソードだが、担当の刀鍛冶・鋼鐵塚蛍の所在がわからないため、「刀鍛冶の里」を訪れていた主人公の竈門炭治郎は、そこで「柱」(鬼殺隊剣士の最高位)のひとりである時透無一郎と出会う。無一郎は冷たく言い放つ。「刀鍛冶は戦えない。人の命を救えない。武器を作るしか能がないから」。だがこの言葉に対して、炭治郎は「刀鍛冶は重要で大事な仕事です。剣士とは別の凄い技術を持った人たちだ。だって実際、刀を打ってもらえなかったら、俺たち何もできないですよね? 剣士と刀鍛冶はお互いがお互いを必要としています。戦っているのはどちらも同じです」と反論するのだった。

 このやり取りを木の影で聞いていた鋼鐡塚は発奮し、炭治郎のために、渾身の力で、戦闘用絡繰(からくり)人形から発見された錆びた名刀を甦らせようとするのだが、この研磨の様子が壮絶だ。一心不乱に刀を研いでいた鋼鐡塚に上弦の鬼(玉壺)が襲いかかるのだが、彼は、その攻撃を受けて血を流しながらも、作業の手を止めようとはしない。というか、目の前の刀を研磨する作業に没頭するあまり、片目を潰されても鬼の存在に気づかない。その様子を見て玉壺はさらに逆上するのだが、この刀に対する執念はまさに「オニ」そのものだと言っていいだろう。

 結果、その刀で――鋼鐡塚としてはまだ第一段階までしか研いでいないので不満のようだったが――炭治郎は上弦の鬼のひとり(半天狗)を討つことができたのだが、そんな炭治郎の想いに触れたことで、無一郎も刀鍛冶に対する考え方を改めるようになる。いや、そもそも彼には彼のことを心配する鉄井戸(故人)と鉄穴森という担当の刀鍛冶がおり、小鉄という里の少年との心の交流も含め、そのことにようやく気づかされたというべきか。

 いずれにせよ、本作で描かれている、戦う者とそれを支える者の関係性は美しい。先に引用したセリフの最後で炭治郎はこうも言っている。「俺たちはそれぞれの場所で日々戦って」いるのだと。そう――これは剣士や刀鍛冶に限らず、多かれ少なかれ、現実社会を形成するすべての「働く人々」についても言えることであり、だからこそいま、『鬼滅の刃』という虚構の物語に多くの人たちが共感しているのではないだろうか。

※ 本稿で引用した漫画のセリフは、読みやすさを優先し、一部句読点を打たせていただきました(筆者)

参考文献:『鬼と日本人』小松和彦(角川ソフィア文庫)/『鬼の宇宙誌』倉本四郎(講談社)

■島田一志
1969年生まれ。ライター、編集者。『九龍』元編集長。近年では小学館の『漫画家本』シリーズを企画。著書・共著に『ワルの漫画術』『漫画家、映画を語る。』『マンガの現在地!』などがある。

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