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映画と働く 第1回 脚本家:向井康介「脚本家とは肉屋で魚を売っているような人」

ナタリー

20/10/9(金) 12:30

イラスト / 徳永明子

1本の映画が作られ、観客のもとに届けられる過程には、監督やキャストだけでなくさまざまな業種のプロフェッショナルが関わっている。連載コラム「映画と働く」では、映画業界で働く人に話を聞き、その仕事に懸ける思いやこだわりを紐解いていく。

初回となる今回は、「リンダリンダリンダ」「マイ・バック・ページ」「聖の青春」など数々の話題作を手がけてきた脚本家の向井康介に、脚本家を志したきっかけや挫折、忘れられない特別な仕事を語ってもらった。脚本家を“肉屋で魚を売っているような人”と表現する彼の真意とは?

取材・文・撮影 / 金子恭未子 題字イラスト / 徳永明子

いい映画を作るためにはいい脚本が必要

──向井さんのルーツを知るために、学生時代のお話からお伺いしたいと思います。

中学の頃はバスケットボール部でした。でも、早生まれだから、体力的に周りに追いつけない。いじめられっ子で、よく映画を観ていましたね。高校になると友達にも恵まれました。補欠でしたけど、ハンドボール部でインターハイにも行きました。

──その後は、大阪芸術大学に進学されました。

実家が床屋で、自分も美容師になるのかな?って漠然と思っていたんです。でも、親に向いていないと反対された。進路を決めなければならなくなって、映画が好きだったので、映画関係の専門学校に行こうと思いました。周りは体育会系で一緒に映画を観てくれる友達もいなかったし、共通の話ができる仲間が欲しかったんです。

──最初は専門学校に行くつもりだったんですね。

調べるうちに大学もあることを知ったんです。4年間遊べるなと思って大学を選びました(笑)。

──その時点で、映画業界で働こうと意識されていましたか?

まったく考えていなかったです。でも周りは映画を撮りに大学に来ていた。そのときに初めて、映画って作るものなんだと思ったんです。

──大学ではどんなことを学んでいたのでしょうか?

自主映画を作るのが楽しくて、授業はほぼ出ていなかったんです(笑)。でも、4年生のときに卒業論文か2時間尺の卒業シナリオのどちらかを書かなければいけなくなった。いい機会だし、脚本を真剣に書いてみようと思ったんです。先生もついてくれて、箱書き(※各シーンごとに要点や情報をまとめる作業)から、構成の立て方、キャラクターの作り方を教わりました。先生は「まずお話は書くな、キャラクターだ」と言っていましたね。

──具体的に、どのように指導されたんでしょうか?

キャラクターがどういう経験をしたか、その経験がその人物の性格にどんな影響を与えたか、原稿用紙に書いて来いと言われました。「AとBはどんな関係なんだ? 2人の関係が変化したらどんなことが起こる?」と次々に先生の質問に答えているうちに、お話になっていく。でも今は、これだけでは厳しいと思っています。キャラクターが面白ければ映画は面白くなるとよく言いますが、どんなお話にもそれが当てはまるかと言ったらそうではない。ある人物を描くのと、ある事件を描くのとではシナリオの書き方は異なります。だからテーマとキャラクターはどっちもよーいドンで始めなきゃいけないと思っていますね。

──初めて真剣に脚本と向き合ってみていかがでしたか?

書けば書くほどイメージから離れていく。大失敗したなと思いました。でも、先生が褒めてくれたんです。「俺、書けるのかもしれない」と思わせてくれた。そこからですね、脚本を意識するようになったのは。いい映画を作るためにはいい脚本が必要だなって。

──向井さんは同級生の山下敦弘監督たちと作った卒業制作「どんてん生活」が東京国際映画祭で認められて、助成金を得ました。それをもとに作った「ばかのハコ船」を、脚本家を志すきっかけになった1本に挙げていただいています。

「ばかのハコ船」はかなりこだわって脚本を書きました。ただ、実際にターニングポイントになったのは、その次に作った「リアリズムの宿」で挫折を経験したことです。

──つげ義春のマンガが原作でしたね。

当時は、撮影監督になりたかったんです。だから照明と脚本の二足のわらじで現場に参加しました。それまでは自主映画でしたが、初めての外注仕事で、照明の助手を付けることになった。でも、俺、全然人のことを動かせないんですよ……(苦笑)。なかなか大きな挫折でした。現場に出るということに完全に心が折れちゃった……。

──撮影監督になるためには必然的に現場での下積みが必要になりますよね。

誰かの助手に付いて、5、6年やって、やっと一人前になる世界。それはきついなって。それに、自分はカメラオペレーターも、ライティングもすべてやることを目指していた。でもプロの現場はシステマチックで、カメラマンはカメラマン、照明は照明って分業なんです。加えてフィルムが好きだったので、デジタルになったら面白くないなと。集団行動も苦手で1人で何かやるほうが向いているし、だったら脚本家だと思ったんです。その頃はプロットライターの仕事もしていたので。

──プロットライター(※大まかなあらすじやキャラクター設定を考える人)の経験を積みながら、脚本家を目指している人もいますよね。自主映画でデビューされたイメージが強かったので、向井さんがプロットライターをされていたのは意外でした。

東京の小さな制作会社に仕事をもらって、ホラービデオのプロットとか書いていました。大阪には映画の仕事がほとんどないので、仲間に「ごめん、俺、先に東京行くわ」って言って上京しましたね。「どんてん生活」「ばかのハコ船」「リアリズムの宿」を名刺にして、脚本家としてやってみようかなと。それが26歳のときでした。

──脚本家を志す人の中には、プロットライターの仕事に心が折れて挫折する人も多いと聞きます。

自分も悪徳会社にタダ同然で書かされていましたね(笑)。実力がなかったのも大きいとは思いますが、作品として成立したものはなかった。そのあとに、山下くんが東京にちょくちょく来るようになって、仕事を振ってくれました。

──どんな作品を書いていたのでしょうか?

その頃は制作費300万から700万ぐらいの、ビデオ販売用の企画がけっこうあったんです。エロいシーンを3つ入れればあとは何をやってもいいっていう。何カ月も掛けて書いて、ギャラ5万とか。全然食えなかった(笑)。でも書かせてもらえるだけいいと思っていました。

──脚本家として生計が立てられるようになったのはいつ頃ですか?

「リンダリンダリンダ」が2005年に公開されたあとです。あれも山下くんが誘ってくれた。そこそこヒットして、評価もされました。まとまったギャラが入ってきたのでバイトも辞めましたね。

ほかの人と“浮気”したほうが成長する

──山下監督とタッグを組んできた向井さんですが、徐々にほかの監督ともお仕事をされるようになりましたね。

ずっと一緒にやり続けるのもよくないし、お互いほかの人と“浮気”したほうが成長するよねって話し合いました。でも内心はドキドキしていましたね。俺とやっているときより面白いものになったらどうしよう?って(笑)。向こうも思っていたと思います。まだ若くて、変な嫉妬もあったり。

──実際、同時期にそれぞれ別の方と作った作品が公開されることもありました。

山下くんが「天然コケッコー」を作ったときですね。しかもタッグを組んだのが渡辺あやさんですよ! あの作品がめちゃくちゃ評価された。実際素晴らしい映画だった。一方、俺が書いた作品は興行的にもあまりうまくいかなかった。変な気持ちになりましたね。評論家も「山下はもう向井と組まないほうが大きくなれる」と言い出した。

──そういう評価は目にしていたんですね。

業界の人がわざわざ教えてくれるんですよ(笑)。やっぱり、ショックだった。その後携わった作品もよかったり悪かったり、いい仕事ができなくて酷評されたりで、初めて円形脱毛症になりました。ほかの人が書いた作品を観て「やべえな、こんなの俺には書けない……」って凹んだり。

──ずっと順調にお仕事をされているイメージでした。

仕事はずっといただけていたんですが、失敗を続けていると仕事の質が下がっていく恐怖があった。山下敦弘の本を書いている向井康介ではなく、脚本家の向井康介として知ってもらえるように、代表作を作らなきゃなって。本当にきつかった。そこからようやく抜け出せたのが2016年公開の「聖の青春」です。時間はかかりましたが、やっと自分の代表作と言えるものが書けた。そこからは山下くんの作品も冷静に観られるようになりました。今回はこんなふうに書いたんだ?とか、俺だったらこうするなとか。また自分の好きなもんに逃げてるなとか(笑)。

──「聖の青春」は完成までに7年掛かったと聞きました。

必然的に思い入れも深くなりますよね。監督の森(義隆)くんに引っ張ってもらって、いい本が書けたと思っています。彼はロジカルな人なんで箱書きから、シーン運び、キャラクターの性格の変化、全部理詰めでいくタイプ。一緒に仕事をしてとても勉強になりました。彼には本当に感謝していますね。

──向井さんのように映画、ドラマ問わずさまざまなジャンルの脚本を手がけていらっしゃると、いろんなタイプの監督と仕事をする機会があると思います。

自分が感覚的な人間なんで、理詰めの人と組んだほうが合いますね。森くんだったり、「愚行録」で組んだ石川慶監督も、仕事がしやすかった。逆に山下くんは僕と同じタイプなので、合わない(笑)。一緒に本作りをしていても、お互い黙っていることが多いんです。具体的な話にならずに、「なんとなくこんな感じ」が続く(笑)。

──本作りをするうえでは合わないということですが、向井さんにとって山下さんとのお仕事には特別な思いがありますか?

特別ですね。山下くんと彼以外の監督という感じ。生まれが彼とだから、もうそれは仕方ないです(笑)。

──長年脚本を書かれてきて、忘れられないお仕事はありますか?

2011年公開の「マイ・バック・ページ」です。山下くんと撮影の近藤(龍人)くんと大学の同期3人が久々にそろった現場でした。成長したところ見せてやろう!って熱気がありましたね。「リンダリンダリンダ」は偶然ヒットしたけれど、この作品は意識的に狙っていった。予算もそれまでにない大きな規模だったし、妻夫木聡くんと、松山ケンイチくんという2大スターが出てくれることになって、いいものにしようと力が入っていました。毎日現場にも通っていましたね。あれをやって「ああ、俺の青春が終わったんだな……」と思いました。

フリーだと住む部屋も見つけられない(笑)

──脚本家はフリーで仕事を受けている方も多いですが、向井さんの場合は事務所に入っていますよね。

生々しい話ですけど、会社に所属するとクレジットカードが作りやすいんですよ。フリーだと住む部屋も見つけられない(笑)。駆け出しの頃は、山下くんも大学の先輩の熊切(和嘉)さんも大家さんを説得するために、自分が取材された雑誌を持って行って「こういうことやってんすよ!」って説明して、信用してもらったり。世間は厳しい(笑)。

──お仕事を受ける際は事務所が窓口になっているんですか?

俺の場合は、作品を気に入ってくれた人が直接連絡をくれますね。7割このパターン。会社には「これやることになりました」って事後報告です。お金の交渉だけ任せています。34、35歳ぐらいまでは来るもの拒まずなんでも受けていました。

──青春映画、ファンタジー、時代劇、どんなジャンルでも書いているのはそういう理由だったんですね。

とにかく腕を付けなければと思ったんです。俺は、自主映画で作っていた独特の間とか、そういうもので面白がられてきた人間なんです。脚本としていいものを書いていたか?というとそうじゃなかった。でもプロとして仕事をするようになると、急に技術を求められる。それまで感性だけでやってきたから、ヤバいなと。「リンダリンダリンダ」のあとに初めて教則本を買いました(笑)。

──プロとして働くようになってから、初めて教則本を買ったんですね。

それまでは三幕構成(※物語を設定、対立、解決の三幕で構成する方法)すら知らなかった。だから教則本を読んで謎が解けましたね。よくできてるんですよ(笑)。それまでは起承転結も嫌ってた。そんなんじゃ今までの映画は超えられないっしょ! オリジナルっしょ!みたいな。ちゃらちゃらやっていましたよね(笑)。それだと、うまくいかなくなってくる。

──シナリオ理論を学ばれて、創作の手順は変わりましたか?

少し変わりましたね。昔はちょっとした会話とかシーンから膨らませて、物語を作っていた。小さいものを大きくしていたんです。でも今はまず大きなテーマを考えて、その中にキャラクター、セリフを入れていく。プロットを書いて、同時にキャラクターを作って、そのあとに箱書きです。

──原作のある作品とオリジナル作品を書くときの違いはありますか?

原作ものをやるときは、原作からテーマを見つけて、それに付随した部分を抜き取っていく。何をやらなくて何をやるのかを選択します。実写化するときに、キャラクターにリアリティを持たせる必要も出てきますね。オリジナルの場合はテーマを考えて、そこから膨らませていきます。

──「俺たちに明日はないッス」の脚本を執筆されたときに、ちづのキャラクター造形が難しかったとインタビューでおっしゃっていたのがとても印象に残っています。生理を知らないというのは実写ではなかなかきついと……。

原作は天真爛漫でふわふわしたキャラクターなんです。お嬢さまだから、何も知らない。でもそれを実写でやるのはきつい。母親がいない家庭で育った女の子にしたらうまいこと着地した。ただ脱ぐ必要があったので、役者さんが見つからなかったんです。

──安藤サクラさんが演じていますね。

最後にオーディションに来たのがサクラさんでした。ぱっと部屋に入ってきた瞬間に全員が「この子しかいない」って思った。とにかく存在感がすごかった。サクラさんが演じてくれたことによって、よりリアリティのあるキャラクターになりましたね。脚本はスタッフと役者しか読者がいない。俳優のために書いているから、キャスティングが決まるのは大きいです。

脚本ってなんなんだろう?って、しんどくなった

──30代中盤まではどんなお仕事も受けていたということですが、それ以降はどんな心境の変化があったのでしょうか?

原作ものばっかり書いていて、脚本ってなんなんだろう?って、しんどくなってしまった。一度業界から離れたくなって、日本文化庁の新進芸術家海外研修制度を使って中国の北京に行きました。

──3年間、中国に住んでいたんですよね。

北京にいる頃に短編小説を書いて、それを運よく日本で発表できました。クソほどの反響もなかったですけどね(笑)。でも、創作に向き合うことができた。それから仕事を選ぶようになりました。

──仕事を受ける基準はありますか?

オリジナルができるかどうか。原作ものをやる場合も社会性のあるものをやりたいと思っています。あとは監督と面白い仕事ができるかどうかも重要ですね。「君が世界のはじまり」は原作にも惹かれましたし、監督のふくだ(ももこ)さんに会ったら、やる気もいっぱいあるしいいやつだった。こういう人と仕事したら俺も若返るかなと(笑)。

──年齢を重ねていく中で、書くものに変化はありますか?

ありますね。わかりやすいところで言うとTHE BLUE HEARTSつながりで「リンダリンダリンダ」と「君が世界のはじまり」は比べられる。今観ると「リンダ」の頃ってとがっているんです。なんかやらなきゃって、欲を感じる。何者でもなかったから、とにかく業界の人に認められたかったんです。「俺たちみたいなやつがいるぞ。こっちを見てくれっ!」って。乱暴な言い方をすれば、お客さんのことなんか一切考えてなかった。だからヒットしたのは偶然なんですよ。「君が世界のはじまり」は真逆で、お客さんのことしか考えてない。特に若い子たちに伝えたいという思いが強かったですね。下から上に挑んでいるのが「リンダ」、おっさんが若い子に語り掛けているのが「君が世界のはじまり」です。

──「君が世界のはじまり」を拝見して、登場人物がすごくきらきらしているのが印象的でした。

あははははは! 俺も、初号を観たときに今回、やけにきらきらしたなあって思いました(笑)。あのきらきらは基本的にふくださんのものです。でも自分で書き足したオリジナル要素も斜に構えずにストレートに書いていましたね。それに初号で初めて気付いて、俺もおっさんになったんだなって(笑)。

──書いているときは無意識だったんですね。

無意識でしたね。今は世の中にメッセージ性の強い、ストレートな物語が多い。ああいうものに触れているから俺も感化されて、まっすぐになってきているのかも。どっちがいい悪いじゃないんで、また斜に構えた作品も書くと思います。

──仕事をするうえで決めているルールはありますか?

ないですね。この場所じゃないと書けないとかそういうこともないです。ただ、まずはパソコンではなく構成とかアイデアとか、なんでも紙に書き出していきます。赤ペンをよく使いますね。飲み屋で誰かが言った一言も気に入ったらメモします。

──向井さんはセリフをとても大切にしている印象があります。

大事です。ずっとこの仕事をしていて、つくづく脚本というのはセリフと構成だなと思います。だからいいセリフを書く人には刺激を受けますね。

──影響を受けた脚本家はいますか?

倉本聰先生です。「北の国から」は、人物配置、人物の出し入れ、関係の作り方、そこから生み出されるセリフ……とにかく素晴らしい。全集も持っていて、今でもたまに読みます。

──今後、仕事をしてみたい人はいますか?

これからの人とやりたいという気持ちが強いです。逆に歳上の人は苦手ですね。上京したての頃、かなり歳上の監督と一緒に本作りをしたんですが、まあ怖かった(笑)。

作り手はどんなに苦労しても作る

──長年映画業界で働いている向井さんから観て、業界の問題点はどんなところでしょうか?

はっきりしてますよ。(きっぱりと)お金がない! なさすぎる(笑)。これはみんな言っている。韓国映画があんなに勢いがあるのは国策にしているからです。お金で現場が守られている。映画を撮るだけじゃなくて、人材を育てるのもすべてお金が掛かる。

──新型コロナウイルスの影響で、公的な補償の重要性が今まで以上に叫ばれています。コロナで向井さんのお仕事に影響はありましたか?

脚本家の場合は、次の企画開発の時間に充てられるので、仕事はありました。それに、作り手はどんなに苦労しても、お金がなくても結局は作品を作る。重荷がすべて現場に降りてくるのは危険なことではありますが、もっと危惧しているのは、映画館が存続するかどうか、お客さんが劇場に戻ってくるかどうかです。今は配信もあるので、お客さんが「配信でいいじゃん」と思ってしまう恐れもありますよね。

──コロナ禍で描くものに変化はありましたか?

この前、短編ドラマを作ったんですが、町に出たら100人中100人がマスクをしていた。そうなると登場人物にもマスクをさせるか?という話になりますよね。2020年の日常を撮るってそういうこと。キスシーンもハードルが高くなっている。何も考えなくてもコロナ後が自然と切り取られていくと思います。

──映画業界で働くために脚本家を目指している人もたくさんいると思います。向井さんは、シナリオ作家協会のシナリオ講座で講師もされていますよね。

脚本家になる方法はいろいろあります。でも、これという正解がないのが難しい。一番挑戦しやすいのはコンクール。みんなフジテレビ ヤングシナリオ大賞や、テレビ朝日新人シナリオ大賞、城戸賞を目指しています。あとは、小さな制作会社に入ってそこでちょこちょこ書かせてもらうとか。今はあまりないですが、脚本家の弟子になるという方法もあります。人との出会いは大切だと思いますね。

──自主映画を作るというのも1つの方法ですよね。

そうですね。でも、最近はチームで作らないのが残念です。自主映画だからこそ誰かが書いたものを、誰かが撮ったほうが面白いのに。若くて我が強いから、1人でやりたくなっちゃうのもわかる気はしますけどね。

──あなたにとって脚本家とは?という問いに「肉屋で魚を売っているような人」と書いていただきました。

映像の仕事なのに、使っているのは言葉。だからチグハグなんですよね。そもそも映画って、被写体とカメラさえあれば脚本がなくても作れる。でも、それだけじゃ伝わらないときにセリフを付け足すんです。脚本は本来なくてもいいものだし、それだけでは売れないもの。そのことは常に自覚しようと思っています。

──尊敬する映画人にジョン・カサヴェテスを挙げているのも、そういう理由からですか。

そうです。脚本じゃないところで何かを撮ろうとしている人なので尊敬しています。熊切さんに「カサヴェテス最高ですよね!」って言ったら、「脚本家がカサヴェテスの映画好きなんて言っちゃいけないんじゃないの?」ってツッコまれましたけどね(笑)。

──脚本は本来なくてもいいものと思っていらっしゃるのには驚きました。

映画は画(え)とアクション(動作)なんです。今は、そんなこと守って作っている人は少ない。だからキャラクターはしゃべりっぱなしですけどね(笑)。でも、本来は画とアクション。バスター・キートンだって、(アルフレッド・)ヒッチコックだってみんなそうやって作ってきた。「丹下左膳」もそうなんですよ。脚本を書き続ける限り、それは忘れたくないですね。

向井康介(ムカイコウスケ)

1977年1月17日生まれ、徳島県出身。大阪芸術大学在学中に山下敦弘と出会い「どんてん生活」「ばかのハコ船」などの自主映画をともに制作。以降は映画「リンダリンダリンダ」「松ヶ根乱射事件」「マイ・バック・ページ」「ピース オブ ケイク」「聖の青春」「愚行録」「ハード・コア」「君が世界のはじまり」やドラマ「深夜食堂」シリーズ、「歪んだ波紋」など数々の話題作で脚本を手がける。2018年には初の長編小説となる「猫は笑ってくれない」を発表した。

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