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【ネタバレあり】善悪が無効化されたヒーロー映画『ミスター・ガラス』を徹底考察

リアルサウンド

19/1/28(月) 12:00

 ※本記事には、『アンブレイカブル』、『スプリット』、『ミスター・ガラス』についての重大なネタバレがあります。

参考:観客の心理を操る『スプリット』 ヒッチコックに通じるシャマラン監督の演出の秘密

 M・ナイト・シャマラン監督の映画について語るときに困ってしまうのは、意外なラストを描く“ドンデン返し”が、監督のトレードマークになるほど恒例となっているからだ。だからシャマラン監督の他の映画の内容を引き継いだ、本作『ミスター・ガラス』に至っては、あらすじを説明するだけで、『アンブレイカブル』(2000年)や『スプリット』(2016年)の重大なネタバレになってしまう。

 だが、本作の本質を語るためには、この3作の展開に触れないわけにはいかない。ここでは、次々にネタバレをしながら、異端の映画『ミスター・ガラス』とは何だったのかを、可能な限り深いところまで掘り下げて考えていきたい。

■予想の“斜め上”を行く前衛的続編

 多重人格の連続殺人犯に監禁された少女たちの恐怖を描いた『スプリット』のラストは、シャマラン監督の『アンブレイカブル』を観たことのある観客には、とくに衝撃をもたらした。この2作、じつは同一の世界の物語であり、さらにはスーパー・ヒーローの映画だったことが明かされるのだ。そして同時に、その2つを本格的につなぐであろう続編『ミスター・ガラス』が公開されることも、『スプリット』の上映のなかで発表された。

 ヒーロー映画といえば、「マーベル・シネマティック・ユニバース」に代表されるように、複数の作品で描かれる出来事を同じ世界のなかのものとして、部分的にクロスオーバーする試みが支持を受けている。だから、シャマラン監督の新たなヒーロー・ユニバース映画が、マーベルのように大スケールで展開していくのかもしれないという期待が広がったのだ。

 それは半分当たっていて、半分間違っていた。たしかに本作『ミスター・ガラス』は作品世界をつなげた新しい物語を描く内容だった。だが本作の衝撃的な結末を見れば分かるように、物語は3作目のラストであっさりと幕を閉じてしまった。さらには、クライマックスの対決を作中で予告し、盛り上げるだけ盛り上げておきながら観客の期待に肩すかしを食わせる。本作にはマーベルのような大スケールの戦闘シーンは存在しなかったのだ。そして彼らの戦いは、なんとも後味の悪い地味な結末を迎える。ある意味、さすがシャマラン監督といったところだ。

 しかも、本作の舞台は精神病院。ブルース・ウィリス演じる、「アンブレイカブル(壊れざる者)」こと無敵の肉体を持つデヴィッド。ジェームズ・マカヴォイ演じる、「ザ・ホード(群れ)」こと、 24の人格を持つ多重人格者ケヴィン。そして、サミュエル・L・ジャクソン演じる、先に収容されていた「ミスター・ガラス」こと、並外れた知能を持ちながら極度に壊れやすい肉体を持つイライジャ。いままでの作品に登場した3人の異能者たちが精神科医によって「全ては妄想だ」と指摘され、治療を受けていくのが本作の主な内容なのだ。集められたヒーローやヴィラン(悪役)は次第に追いつめられ、自分の力は本当に妄想なのかもと疑い始める……。いったい、誰がこんな内省的な展開のストーリーを予想しただろうか。

■狂気の世界をさまよう異能者たち

 ヒーローにおける狂気の問題は、既存のいくつかの作品のなかでもすでに指摘されている。例えば、コミック『バットマン:アーカム・アサイラム』は、精神に異常をきたした囚人を収容する施設が舞台だ。そこにはジョーカーをはじめ、狂気のヴィランたちがバットマンを待ち構える。そこでバットマン自身も、いつしか狂気の世界に迷い込んでいくことになる。また、クリストファー・ノーラン監督の映画『ダークナイト』も、バットマンがジョーカーの狂気に満ちた行動に引きずられ、倫理観を逸脱し違法な捜査をしてしまう作品だ。

 『バットマン』シリーズに登場するヴィランたちが狂った者として描かれるように、彼らと戦うためコウモリのような格好をして、夜な夜な街に繰り出すバットマンもまた、狂気に足を踏み入れる存在だというのが、それらの作品の提示する恐怖だ。これは、他の多くのヒーロー作品の裏でも、絶えず不気味にうごめいていた潜在的問題だともいえよう。

 だからノーラン監督による『ダークナイト』の側面を突き詰めれば、最終的には精神鑑定にまで行き着くのかもしれない。私自身、そういう作品が制作されれば面白いと夢想することがあった。しかし、そんな企画を思いついたとしても、いま実際に映画化することは難しいだろう。本作は、シャマラン監督が創造したヒーローを使用し、それを実現させてしまった作品なのだ。

 シャマラン監督は『スプリット』において、用意周到に多重人格のヴィランを創造している。“群れ”を演じるジェームズ・マカヴォイの達者な演技は素晴らしかったが、このキャラクター設定は、シリーズの世界観と精神病とのつながりをスムーズにつなぐための布石でもあったはずである。

■ヒーロー作品は“自作自演”?

 シャマランは、彼ら3人に共通点を持たせた。それは幼少時につらい経験をして、心に深い傷を負っているという事実である。“群れ”に至っては、苦痛を与えられてこなかった人間は「不純」だとすら語っていた。これによって、彼らが自分に突出した能力があると思っているのは、その痛みから逃避するためだ、という、医師の指摘する可能性は、説得力を帯びてくる。

 本作で、ヒーローとヴィランが同種のものとして扱われているように、その他大勢の市民とは異なるという意味において、彼らは互いに近しい存在として描かれている。そしてそれは、ヒーローを題材としたコミックの多くが宿命的に持っている問題だといえる。

 ヒーロー世界の創造主たるコミック・アーティストや映画の脚本家の立場からすると、災害や事故に遭った人をただヒーローが助けているような内容だけでは、人気作にはなりづらいと考えるはずだ。インパクトのある悪役のいない世界の、スーパーマンやバットマンの異様さを想像してみてほしい。ここでは強大な力を持った悪が存在するからこそ、ヒーローの活躍がより際立ち、存在価値を持つのだ。つまり、ヒーローを創造するためには、悪を生み出さなければならない。彼らは相互に依存する関係にある。本作は、そのような「自作自演」の構造を暴いてしまう作品でもある。ちなみに映画では、『レゴバットマン ザ・ムービー』が、すでにその問題を扱っていた。

 ミスター・ガラスは、少しの衝撃でも骨折してしまう身体を持って生まれた。苦痛に耐え絶望のなかにいた彼は、コミックの世界に救いを見いだした。そして、自分が他人より弱い身体で生まれたのは、逆に他人より強い身体を持ったスーパー・ヒーローがいるかもしれないと考えた。もしそれが真実だとするなら、自分には生まれてきた意味がある。いや、多くの一般の市民よりもはるかに重大な存在だったのだと思うことができる。彼は、それに賭けたのだ。

 世界を決定的に変える人間は、ある意味で狂信者に見えるものである。ガリレオ・ガリレイが地動説を唱えたことで、宗教裁判にかけられたように、いままでの常識から外れる考え方は、多くの人間に排除されることが少なくない。いまでは人類史における最も大きな罪の一つだと見られている、アメリカの黒人奴隷制度にしても、それが実施運用されていた当時のアメリカで、「こんなことは犯罪だ!」とわめいてみたところで、大勢の“普通の”人々によって、頭のおかしい人物だと決めつけられてしまうだろう。

 自分が狂ってるのではない。世界の全てが間違っている。精神病院は、むしろ病院の外側全てなのだ。ミスター・ガラスはそう信じ、院内で名を訊ねられると、「名前はミスター、姓はガラス」と、威厳を持って答える。このとき、本作はやはりミスター・ガラスのための映画だということが分かるのだ。

■早過ぎたヒーロー映画

 そして、ガラスの悲願は最高のかたちで実を結ぶことになる。本作のストーリーは表面的には、ヒーローの存在が大勢の市民に知れ渡るという結末を迎える。しかし最大のどんでん返しは、考えようによっては、本作の作中世界の人物全員が、この事態によって、じつは自分たちが名もなき脇役として映画のなかに存在しているという事実に気づき始める、ということなのかもしれない。なぜなら本作こそ、ミスター・ガラスが作中世界で命をかけて証明しようとしていた「ヒーロー作品」そのものだからである。しかも、そのタイトルは”GLASS”(『ミスター・ガラス』)。彼こそが主人公の映画だったのだから。ここまで考えると、本作はもはや哲学的ですらある。

 だが、彼が『アンブレイカブル』で行ったことは、あまりにも悪魔的だったことを忘れてはならない。デヴィッドが超人であることを明らかにするため、多数の無関係の人間たちを列車事故に巻き込んだのだ。にも関わらず、本作はガラスに深く感情移入させるように作られてある。

 シャマラン監督は、これまでいくつもの作品で、“信じること”の重要性をテーマにしてきた。様々な試みが見られる本作のなかでも、最も実験的なのは、その信念が、もはや善悪の境界すら超えて、より純化されたものとして、称えられてしまっているということだ。つまり本作は、善悪が無効化されたヒーロー映画ということになる。それが本質的にヒーロー映画なのかどうかは議論が必要になるところだろう。だが少なくとも、本作が新しい映画だということは確かだ。

 本作がもし存在しなかったとしても、おそらく、このような病的な内容を映画で描くことは、ヒーロー映画がおそらくは飽和状態を迎えるかもしれない数年後、もしくは十数年後に、様々な映像作家によって段階的に、必ず撮られていたはずである。それをシャマラン監督は、一人の創造力によって、ひと足もふた足も先にやり遂げてしまったように、私には思える。M・ナイト・シャマラン、やはり天才的な監督だ。(小野寺系)

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