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吉田 伊知郎

1978年生まれ 映画評論家

追悼・萩原健一 銀幕の反逆児に、別れの“ララバイ”を

『八つ墓村』(6/26) 新文芸坐  特集「追悼・萩原健一 銀幕の反逆児に、別れの“ララバイ”を」(6/22〜29)で上映 過日、某誌の〈萩原健一追悼特集〉で山崎努さんを取材した。70年代後半にテレビドラマ『祭ばやしが聞こえる』(1977)を皮切りに、ショーケンと山崎さんは『八つ墓村』(1977)、『影武者』(1980)などで共演している。公私共に親しかったようだが、〈私〉の部分よりも共演作の演技について聞きたいと思った。山崎さんは『影武者』のエピソードを中心に語ってくださったが、横溝正史ファンとしては『八つ墓村』のことも聞きたいというのが人情である。しかし、ショーケンとの共演は1シーンだけなので印象に残っていなかったようだ。それならばと、山崎さんが鬼気迫る演技を見せた村人32人殺しのシーンに水を向けると、桜吹雪をバックに刀と猟銃を手にスローモーションで疾走する場面は今もよく憶えていると、少し目尻を緩ませながら語ってくれた。 実際、監督の野村芳太郎にしても、脚本の橋本忍にしても、あるいは横溝正史の映画化作品としても、この77年版『八つ墓村』は手放しの傑作とは到底言い難いが、今も名画座で頻繁に上映されるのは、大量殺戮シーンがあまりにも異様に際立っていることが理由のひとつだろう。実際、筆者などはこのシーンになると、背筋を伸ばして見入ってしまうほど何とも凄惨である。しかし、脚本を読むと、32人殺しは映画で執拗に描かれているほど細かくは書かれていない。顔を白塗りにしたのも山崎さんのアイデアだが、どうやら松竹大船撮影所のベテランスタッフたちと共に、脚本以上に過剰化させたとおぼしい。 横溝ブームの只中で公開されて大ヒットした『八つ墓村』は、1976年8月にクランクインした時点では、ATGで『本陣殺人事件』(1975)が公開されただけだった。それが1977年10月29日の公開時には、市川崑が既に同じ横溝原作を『犬神家の一族』(1976)、『悪魔の手毬唄』(1977)、『獄門島』(1977)と3本も作り終えた後だった。つまり、『八つ墓村』の製作を進めながら、次々に公開されていく市川版の金田一シリーズを横目に見ていたことになる。撮影中の野村はこう語っている。 「市川崑さんの演出を意識しないわけにはいきませんが(略)崑さんが二本の作品でみせられたモダンなところなどは大いに参考にさせてもらうつもりです」(『毎日新聞』1977年5月11日) 先輩監督を立てた殊勝な発言に思えるが、映画を観ればわかるように市川崑を見習った様子はない。専ら差異化させるために〈大いに参考にさせてもらった〉ようだ。それほど同じ横溝原作でも、市川版と野村版は異なる視点から作られている。 市川版は、もはや現代にこの物語が成立しないことに自覚的だ。そこで映像表現も演技も過剰化させ、これが作り物であることを強調する。画面いっぱいに現れるタイトルと極太明朝体のクレジット、そこに派手な音楽が重なる冒頭だけで、これから何とも愉しそうな映画遊戯が始まるのを予感させる。一方、野村は正攻法の重厚なドラマを盛り込もうとしている。そのために時代は昭和20年代から現代へと移し替え、萩原健一という自然体の演技者を主役に使ったのではないか。 もっとも、ショーケン自身は橋本忍からオファーを受けたものの、出演に迷っていたという。ちょうど『タワーリング・インフェルノ』にポール・ニューマンが出演した時期だったので、感化されて大作映画に参加する意義を見出したという。また金田一耕助を演じる渥美清との共演も魅力だった。 しかし、撮影中のショーケンはかなり苛立っていたようだ。大作映画だけあって、どこで撮影していても人だかりである。その上、日本交通公社が「八つ墓村ロケ地を訪ねて」なる撮影見学ツアーまで組んで現場に押し寄せたのだから、たまらない。 『平凡パンチ』(1977年8月24日号)が、その詳細を伝えている。8月7日、鳥取県日野郡日野町奥渡で『八つ墓村』のクライマックス――村いちばんの邸宅、多治見家の炎上シーンが撮影された。多治見家の外観は岡山県高梁市の広兼邸という元庄屋宅で撮影されたが、炎上用のセットを日野郡に建設したのだ。ここには八つ墓明神のセットも作られており、50戸ほどの村は映画の撮影隊と野次馬の殺到で蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。それが最高潮に達したのが、炎上シーンである。この日は午後1時から鍾乳洞に逃げ込んでいたショーケンが、八つ墓明神の前の洞穴へ出てくるシーンの撮影から始まったが、間近まで野次馬が迫り、ショーケンは「そこ、どいてくれよ!」「こっちがやってるときに、パチパチやらんでくれよ!」と撮影中にまで記念写真を撮る人々に怒っていたという(そりゃ怒るでしょう)。 さらに、この日は例の「八つ墓村ロケ地を訪ねて」ツアー御一行が観光バス8台を連ねてやってくる日である。これは松竹も絡んだツアーなので、オプションに渥美清とショーケンとの記念撮影が含まれている。そう無下にすることも出来ないのが辛いところで、午後3時すぎにバスが到着したときの狂騒を記事はこう伝えている。 「バスを降りるやいなや、ショーケンの隣の席目がけて殺到。まるで椅子取り合戦そのもの。『キャーッ、ショーケン!』などと黄色い声をあげながら、尻を突き出して割り込む。ショーケンもこづかれたりして、たまったものではないのだろう。憮然とした表情をしている。」 いやはや、大作映画に出るというのは、日本映画ではこうなってしまうのかという感じがするが、渥美清もショーケンも、これを観光バス1台ごとに8台分、総勢350人を相手にしたというのだから、とてもクライマックスの撮影前という気分ではなかったのではないか。 そして夕方になるのを待って撮影された炎上シーンの出来栄えは、ぜひ劇場で確認いただきたいが、ショーケンは劇中で終始困惑し、苛立った表情を見せながら、不意に生まれ故郷の八つ墓村へと連れ帰られ、事件に巻き込まれる青年を生々しく演じていた。ひょっとすると、あの困惑と苛立ちの顔は、大作映画につきまとう諸々にウンザリしていたのがそのまま映し出されていたのかもしれない。

19/6/26(水)

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