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安倍寧のBRAVO!ショービジネス

あの映画『ウエスト・サイド物語』のベルナルド役、ジョージ・チャキリスの自伝が出た

不定期連載

第46回

ジョージ・チャキリス『わたしのウエストサイド物語』 双葉社 2640円

ジョージ・チャキリスの自伝『わたしのウエストサイド物語』(戸田奈津子訳、双葉社刊)が、昨年暮、出版された。原著「MY WESTSIDE STORY A MEMOIR」(by George Chakiris with Lindsay Harrison)も、去年、アメリカで刊行されたばかりという。早々に日本語しかもチャキリスと親交深い、字幕翻訳の第一人者戸田さんの訳で読めるとは誠に有難い。しかもタイミングよく、スティーヴン・スピルバーグ監督による映画『ウエスト・サイド・ストーリー』リメイク版が話題を呼んでいる最中である。私はたまたまスピルバーグ・リメイク版を見てから邦訳本を読んだが、もちろん本が先、映画があとだって構わない。

映画『ウエスト・サイド物語』(1961年)
写真:Mary Evans Picture Library/アフロ

『ウエスト・サイド~』はもともと1957年に初演されたブロードウェイ・ミュージカルである。1961年、ロバート・ワイズ及びジェローム・ロビンス監督の手で映画化された(本連載第44回をご照覧ください)。その映画でプエルトリコ系不良集団シャークスのリーダー、ベルナルドを演じたのがチャキリスだった。「わたしのウエストサイド物語」の“訳者あとがき”から戸田奈津子さんの文章を引く。

1961年に封切られた『ウエスト・サイド物語』が、日本の映画ファン、また洋画を観ない人々にまで与えた衝撃の大きさは、当時を知らない方々には想像もつかないだろう。

それまでひたすら楽しく、夢あふれたミュージカル映画とは真逆に、この映画は、縄張り争いを繰り広げるジーンズとTシャツの不良少年たちが、見たこともないパワーの踊りと歌で観る者をノックアウトしたのだ。

戸田さんは次のように続ける。

わけても観客の心をつかんだのは、「紫色のシャツ」でカッコよく決めていたシャーク団のリーダー、ジョージ・チャキリス。女の子は誰もがメロメロになった。もちろん私もその一人だった。

私自身、ロードショウ公開当時、有楽町ピカデリー劇場でこの映画を見て脳天を一撃された。作品の衝撃度もさることながら、若い女性客のジョージ・チャキリスへの熱狂ぶりに呆れ果てたものだ。戸田さんのおっしゃる通り、黒いスーツとネクタイ、紫色のワイシャツ姿でマンボを踊る彼に、私の回りの女の子たちはそろいもそろってぼーっとなっていた。プエルトリコ系のカッコいいアメリカの若者ベルナルドを、もしチャキリスが演じていなかったら、日本で“ウエスト・サイド・ブーム”が起こったかどうかさえ疑わしい。

ジョージ・チャキリスは、1932年、オハイオ州で生まれた。祖父の代にアメリカへやってきたギリシャ系移民である。やや面長だが、鼻筋の通った整った顔立ちはいかにもギリシャ系を思わせる。10歳のとき持ち前のボーイ・ソプラノが認められ、アリゾナの少年合唱団へ。そして19歳とき、ハリウッドにあるアメリカン・スクール・オブ・ダンスの門を叩き、プロ・ダンサーを志す。このダンス学校はシド・チャリシー、レスリー・キャロンら銀幕スターを産み育てた名門校だという。容姿、声、身体能力すべて、生まれながらにして恵まれていた彼としては、ダンスは進むべき当然の道だったにちがいない。

チャキリスは,ダンス学校に通いながらショウ場面のある映画でバックダンサーを務める。願ったりかなったりのアルバイトだ。初めはユニオン加入のダンサーだけでは埋まらない際の、オコボレ頂戴の出演だったが、やがて組合にも加入でき正規のオファーも受けられるようになる。1950~60年代のハリウッドの各社スタジオは、ブロードウェイ・ミュージカルの映画化とは別に、レヴュウ的な豪華ショウ場面が売りもの作品を盛んに製作していたから、多分、この手の仕事はいくらでもあったろう。大抵、スター女優のうしろで踊るその他大勢のひとりだったけれど。50年代の彼は、れっきとしたミュージカル映画『ブリガドーン』(54)のほか、ショウ場面のある『星条旗よ永遠なれ』(52)、『紳士は金髪がお好き』(53)、『ショウほど素敵な商売はない』(54)、『ホワイト・クリスマス』(54)などに出演している。

かのマリリン・モンローがヒロインを演じた『紳士は金髪~』ではチャキリスは、ハイライト場面「Diamonds Are a Girl's Best Friend」でモンローのすぐうしろ、男性アンサンブルのひとりとして颯爽とした踊りを見せている。ひときわ男ぶりが目立つ。YouTubeで簡単に確認できるので皆さんも是非ご覧を。

チャキリスというと誰もが思い浮べるのは、精悍な(時には横暴でさえある)ベルナルド役だろう。しかし、映画以前、ロンドン公演(58年12月12日開幕)では白人系不良グループ、ジェット団々長リフ、ベルナルドに比べると冷静でおとなし目の役を演じている。もともとロンドン初演に向けてのオーディションではベルナルドの枠で受けたものの、振付・演出のジェローム・ロビンスはなぜか彼をリフ役で起用した。そしてロンドンの舞台では不動のリフとして注目を浴びることになる。にもかかわらず映画ではベルナルドである。舞台ではリフ、映画ではベルナルド、ロビンスはどういう計算からこのような使い分けをしたか興味深い。その要望に応え、ふたつの役を演じ分けたチャキリスの演技力、ダンス力は賞讃に値する。特に映画ではアカデミー賞最優秀助演男優賞に輝いた。この時点では史上最年少の受賞だったという。ノミネートされても受賞など想像もしなかったので、スピーチの準備はまったくなし。サンキューが精一杯だったそうだ。

『ウエスト・サイド物語』で第34回アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞したときのジョージ・チャキリス
写真:AP/アフロ

チャキリスにベルナルド役が回ってきたことについては、当時の中南米系、あるいはブラック系俳優、ダンサーのなかにこのキャラクターを表現できる人材が少なかったという事情が反映しているのではないか。もし今、ベルナルドに白人の俳優、ダンサーをキャスティングしたら、社会的ブーイングが巻き起こるにちがいない。ちなみに『ウエスト・サイド~』スピルバーグ版でこの役を演じているデヴィッド・アルヴァレスは、カナダ・モントリオール生まれ、両親はキューバ系とのこと。

とまれ、チャキリスにとって『ウエスト・サイド~』はまぎれもない出世作であった。その撮影第1日について自伝では次のように回想している。

最初のショットの撮影は、わたしが赤いレンガの壁をこぶしで突く場面でした。その場にいたのは、ごく少人数。わたし、ジェリー、ボブ・ワイズ、カメラクルー、メイクのエミール・ラヴィーニュだけ。彼らがわたしを取り囲み、緊張感のあるタイトなショットを撮るのです。体が触れあうほどの狭い空間がつくり出す親近感と緊張感。それがうれしかったし、カメラの向う側にいるジェリーの存在を強く感じました。その瞬間がベルナルドにとって、いかに決定的なものであるか。それは俳優として理解できました。数メートル先から、ジェリーの目がレーザー光線のように注がれていることを感じ、わたしの気持は一段とパワーアップしました。

ジェリーはジェローム・ロビンス、ボブ・ワイズはロバート・ワイズのこと。ふたりいた監督のうち振付も兼ねたロビンスとの強い絆がひしひしと伝わってくる。それと、撮影現場の限られたスタッフのなかにメーキャップ係が入っているのが興味をそそる。チャキリスがその係のフルネームまで覚えていることにもびっくりさせられる。メイクさんがつきっ切りでプエルトリコ系らしく見せるのに苦労したことをうかがわせずにおかない。

ジョージ・チャキリスは大の親日家でもある。来日しての舞台では『白蝶記』(1979、東京宝塚劇場)、テレビでは小泉八雲を演じた『日本の面影』(84、NHK)、『蝶々さん』(85、TBS)などがある。これらすべて日本におけるベルナルド人気の余波だったにちがいない。

21年8月、ハリウッド博物館の再オープンに来場したジョージ・チャキリス
写真:AP/アフロ

※原題『West Side Story』の日本語表記については実にさまざまです。ワイズ&ロビンス版は『ウエスト・サイド物語』、今回のスピルバーグ版は『ウエスト・サイド・ストーリー』。日本人キャスト版、来日版の表記もいろいろです。チャキリス自伝の表記は所謂中黒無しです。本稿では便宜的に『ウエスト・サイド~』と記している個所があります。ご了承ください。

プロフィール

あべ・やすし

1933年生まれ。音楽評論家。慶応大学在学中からフリーランスとして、内外ポピュラーミュージック、ミュージカルなどの批評、コラムを執筆。半世紀以上にわたって、国内で上演されるミュージカルはもとより、ブロードウェイ、ウエストエンドの主要作品を見続けている。主な著書に「VIVA!劇団四季ミュージカル」「ミュージカルにI LOVE YOU」「ミュージカル教室へようこそ!」(日之出出版)。