兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第六話:2024年の綾小路翔と、2006年のDJ OZMA (後編)
月2回連載
第12回

illustration:ハロルド作石
前回の続き。
2024年の『MONSTER baSH』の2日目=8月25日の「MONSTER circus」ステージのトリの企画『五重の奏“こ〜んに〜ちは〜!! SMA50”』が、急な天候悪化のため、錦鯉、伊波杏樹、CHEMISTRY、木村カエラ、綾小路翔(氣志團/以下團長)の5組のうち、團長の出番のみを残して途中で終了。その途中終了を参加者に告げる役目を、唯一歌えなかった團長が担った──ということを前編で書いたが、その一部始終を現場で目の当たりにして思い出した、2006年の出来事について、が、ここから書く後編です。
DJ OZMA──あ、当時はあくまでも綾小路翔とは別人、ということになっていたが……というか、当人が頑なにそう言い張っていたが、活動終了後しばらくしてからは、同一人物であったことを、公式の場で認めるようになったので(僕もインタビューでその話をきいたことがあります)、もういいですよね。
ええと、DJ OZMAは、2006年3月にリリースしたデビューシングル「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」が大ヒット。台湾で記者会見を行ったり、いきなりテレビに出まくったり、かなり大掛かりで華やかで、手間とカネのかかったデビューだった。
この「アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士」は、韓国のヒップホップ・グループ、DJ DOCのヒット曲である「RUN TO YOU」に、DJ OZMAが日本語詞を付けてカバーした曲である。そのDJ DOCの、韓国での主催イベントに、DJ OZMAがゲスト出演することになり、さっき書いた「手間とカネのかかったデビュー」の一環として、当時の所属レーベルだった東芝EMIは、音楽メディアの人たちをそのライブに連れて行く、というプロモーションを行ったのである。
しかも、「そのライブを観てレポートしてください」というオファーではなかった。僕は当時ロッキング・オン・ジャパン編集部にいて、11月に出るDJ OZMAのファーストアルバムのインタビューをすることになっていたのだが、そのライブの前日に韓国へ飛んで、夜にソウルの街で写真撮影、インタビューは日本に帰ってから、なのでライブの当日はただ観るだけ、というスケジュールになった。で、そのためにカメラマンの藤原江里奈とふたりで、ツアーに参加したのだった。
なので、初日の夜は、DJ OZMAと中心メンバーのふたり=PANCHO(氣志團の早乙女光)、キングこと夜王純一(氣志團のバックダンサーチーム、微熱DANJIの星屑輝矢)と、明洞あたりの繁華街を歩きながら、撮影をした。
翌日=2日目は、深夜にそのDJ OZMAが出演するイベントが始まるまで、やることがない。僕は韓国に行ったのが初めてだったので、「よし、観光だ」と、ひとりでソウルの街を、何時間もウロウロと歩き回った。
で、歩き疲れてホテルに戻ったら──そのホテルは、フロントの隣にフィットネスジムがある、という変わった造りだったのだが──そのジムのランニングマシンで、藤原江里奈がめちゃめちゃ走っていて「せっかくソウルなのに! 外を走ればいいのに!」と、大きなお世話なことを思ったのを、憶えている。
しかし、この出張取材、何これ? 接待? としか、今振り返ると、言えませんね。でも、我々以外の取材陣も、そんなゆるい按配だったんではないか、と思う。下手したら「ライブを観に来ただけ」なテレビ局の人とかもいたんじゃないか、というくらい。その取材陣ご一行が、どういうメンツだったか、全然憶えてないんだけど。
ええと、全部で7〜8人ぐらいだったっけ。今検索したら「DJ OZMA、韓国でヨンさまと共演!?」という、当時のbarksの記事がひっかかったので、barks編集部の方はいたんですね。あとは……あ、ライターのイナズマKこと土屋恵介氏がいたのは憶えている。それまでうっすら顔見知り、という程度だったが、この旅で初めて一緒に酒を飲んだので。
あと、その韓国への旅に、ツアコンとして同行していたのが、ロック・イン・ジャパン等のロッキング・オン社のフェスの、スタッフ・出演者・お客さんの交通や宿泊を一手に引き受けていた、JTBのTさんだった。
出発日の朝、羽田空港に集合したらTさんがいて、「あれ、このツアー、Tさんなの!?」「はい、私、音楽業界の仕事、多いんです」みたいな会話をしました。
で。僕がソウルの街をウロウロし、藤原江里奈がランニングマシンで汗を流した、その日の夜。
我々一行は、東芝EMIのDJ OZMA担当Uさんと、JTBのTさんのアテンドで、ライブ会場へ向かった。しかも場所は、街のクラブやライブハウスではなく、カジノで有名な高級ホテル、ウォーカーヒルの中にある「ウォーカーヒルホテルシアター」というハコ。市内のホテルからマイクロバスで30分くらい走った、ちょっと郊外にそのホテルはあった。
で、ウォーカーヒルに着くと、まず取材陣全員で、Uさんが予約を入れておいてくれた、ホテル内の韓国料理店で食事。宮廷料理みたいなお店のコースで、何を食ったとかは憶えていないが「高そうだなあ」と思ったことだけは記憶している。
貧乏くさいですね、38歳の私。まさか56歳になってもそのまま貧乏くさい、いや、さらに貧乏くささに拍車がかかった感覚で生活していることは、当時の自分に教えたくないものである。絶望するだろうから。
で、食事後に、ホテル内の「ウォーカーヒルホテルシアター」に移動。クラブというよりも、ステージがあって階段状に客席がある作りの会場である。本多劇場をひと回り大きくしたような、戸田市文化会館大ホールの1階部分をひと回り小さくしたような、それくらいのホールだった。本多劇場も戸田市文化会館も行ったことがないであろう大多数の読者に、まったく届かない喩えである。
あと、そういう作りなんだけど、ステージ前の方はスタンディングのフロアになっていて、踊る人たちはそこに集まる、みたいになっていた気もする。
そのステージに、DJや、他のゲスト・アクトたちや、DJ DOCに混じって、DJ OZMAも出演した。出番、1時とか2時とかだった気がする。DJ OZMAの他に、DJ DOCも観たことは憶えていて、DJ DOCより後にDJ OZMAがやることはないだろうから、じゃあそのひとつ前だったのかな。
とにかく。前述のメンバー3人=DJ OZMA、パンチョ、キング以外に男女混合ダンサーチーム、確か総勢12〜13人ぐらいだった気がするが、そのメンバーでDJ OZMAは、ライブ・パフォーマンスを行った、のだが。
途中で音が出なくなってしまったのだ。
マイクは生きているが、バックトラックが、まったく鳴らなくなってしまったのである。DJ OZMAのステージにおけるDJの役目は、マネージャーのYさんが務めていた。CDJの再生ボタンを押してバックトラックを出すだけなので、わざわざ本職のDJを入れるのもちょっとあれだ、でもDJがいないとカラオケみたいなので誰かいた方がいい、ならYさんでいいじゃん、みたいな理由だったのだと思う。
後に彼は、SMAの社員でありながら、ROCK IN JAPANやCOUNTDOWN JAPAN等、数々のフェスのステージに立ったことがある男として、名を馳せることになる。この10年くらい後に、SMAから転職した某レコード会社で、彼が担当のアーティストにインタビューする機会があり、「このYさん、ROCK IN JAPANに出たことがあるんですよ」という話をしたわ、そういえば。すんげえ驚いていた。
などと言っている場合ではない。突然、そのYさんの手元の機材が、バック・トラックを出せなくなってしまったことに、話を戻す。
2〜3分でなんとかなるかと思ったら、ならない。ソデからスタッフが出てきて、あれやこれややっているが、まだどうにもならない。DJ OZMA、しゃべりでなんとかつなごうとするが──というか、日本だったらいくらでもつなげる、極めて高いトークスキルの持ち主だが、いかんせん、ここはソウルである。
「このポンコツDJにブーイングしようぜ!」とお客をアオって、「♪ブーブーDJ、ブーDJ!」というコールを起こすことに成功したりして、しばらくはなんとか場をつないだが、10分経っても15分経ってもまだ音は出なくて、お客さんの雰囲気、どんどん悪くなっていく。そりゃあまあ、なりますよね。
結局、20分くらいか、それとも30分くらいかかったのか、とにかく、笑ってすむレベルではないインターバルを経て、なんとか音が出て、ライブは再開した……かどうかも、実は憶えていないのだ、僕は。
自分の意識の中では「再開した」になっているが、それ、DJ OZMAが気の毒すぎて、無意識に記憶を改竄しており、本当は音が出ないまま終わってしまい、そのまま次のアクトに代わったのに、それが記憶から抜け落ちている、のかもしれない。
とにかく「どうすればいいんだ」と「どうしようもない」にボコボコにされながら、この事態をなんとかしようとしていたDJ OZMAの姿は、脳裏に焼きついているのだった。
という、肝心な一部始終は記憶が曖昧なのに、そのステージが終わったあとのことは、わりとはっきり憶えている。
我々のツアコンとして、スーツ姿でずっと付き添っているJTBのTさんが気の毒になって(すげえ深夜だし)、最終的に会場を引き上げてホテルまで戻ったら、もう朝の4時頃だったんだけど、Tさんをねぎらいたくなって「寝る前にちょっとだけメシ食いません?」と誘った。
で、イナズマK氏と3人で、その時間でも開いている店を探して入った。その時、生まれて初めてカムジャタンを食ったのを憶えている。
そんなどうでもいいことを憶えているのに、ステージの顛末をちゃんと憶えていないのは、窮地に追い込まれたDJ OZMAに共感するがあまり、記憶がバグったんだろな、やっぱり……いや、でも、なんとか音が復旧して、最後までやり遂げた気がするんだけどなあ。
なお、前述したbarksの記事には、この「音が出なくなった事件」に関しては、ひとことも書かれていない。そりゃそうよね。
あとひとつだけ。
これ、DJ OZMAになってからじゃなくて、その直前に氣志團の綾小路翔としてインタビューした時、そのインタビューの中で、ではなくて、終わったあとの雑談の中できいた話だった、と思うのだが。
今、自分は韓国のポップ・ミュージックに夢中になっている。K-POPと呼ばれているんだけど、ヒップホップとかアイドルとか、めちゃくちゃおもしろい。これからもっとすごいことになっていくと思う。よかったら、聴いてみてくださいよ──。
と、團長は言っていたのだ。相当熱のこもった語り口だった。当時僕は、韓国のポップ・アーティストといえば、BoAくらいしか知らなくて、それこそK-POPという言葉を知ったのも、この時が初めてだった。で、「へえ、そうなんですか」みたいな、ぬるいリアクションしかできなかった。
その後、DJ OZMAがデビューした2006年には、BIGBANGが日本でデビューしている。2007年に超新星、少女時代、KARAがデビュー、そして後にはBLACKPINK、BTS──。
どうでしょう。K-POPが世界を席巻する未来を、日本で誰よりも早く見抜いていたのが團長だった、すばらしく先見の明があった、ということでしょう、これは。
あと、2012年に「江南スタイル」が世界的に大ヒットしたPSYは、どちらかというと「おもしろ系K-POP」みたいなポジションの人だが、それを先取りしていたのがDJ OZMAだった、と言えなくもない。
DJ OZMAがカバーした「RUN TO YOU」のDJ DOCは、わりとコワモテのグループだし、「純情」をカバーしたコヨーテは、ユーロビート系の男女混合ボーカル・グループである。つまりどちらも、べつにおもしろ系ではない。それを、ああいうふうにおもしろく生まれ変わらせたのは、DJ OZMAだった、という話だ。
2009年の氣志團再始動に伴って、DJ OZMAは引退したが、あのままやっていたら、もしかしたら今頃、ワールドワイドな存在になっていたかも……などと、夢想したくなりますね。
でもその場合、氣志團がなくなっちゃったかもしれないから、それはそれで困るんだけど。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『昔話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。