兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第八話:2024年のモッシュ・ダイブ問題の状況について考えた話と、1991年にモッシュで死を覚悟した話 (後編)
月2回連載
第16回
illustration:ハロルド作石
フェスやライブハウスにおける「ダイブ・モッシュの問題」に、2024年の今、異変が起きている。ということを書いた、前回の続き。2024年から37年ほど遡った、1991年の話です。
この連載の第一話の後編にも書いたが、僕は、1991年の2月に株式会社ロッキング・オンに入社し、洋楽誌ロッキング・オンの編集部に配属されたが、そのわずか半年後に、直属の上司が、突然会社を辞めてしまった。
編集長以外のスタッフは、デスクのアルバイト女性と新入社員ふたり(僕ともうひとり)だけになってしまい、このままでは雑誌が作れないので、急遽、社内で人事異動が行われた。その結果、僕は邦楽雑誌であるロッキング・オン・ジャパンに異動になった。で、その異動の前に、出張取材でロンドンへ行かせてやる、と、言われたのだ。
当時の……いや、当時だけじゃない、1980年代後半から2000年代頭くらいまでの洋楽ロック業界は、イギリスやアメリカのバンドがニュー・アルバムを出す時などに、音楽雑誌やラジオ等の媒体の人間を、本国まで連れて行って、インタビューをさせたり、ライブを見せたりする、ということが、頻繁に行われていた。レコード会社におカネがあったし、洋楽のCDがよく売れていたからですね。
というわけで、あちこちのレコード会社から編集部に「今度××の取材でロンドンへ行きませんか」とか「ロスへ行きませんか」という話がひっきりなしに来ていて、当然そんなの編集長が全部行けるわけもなく、下におりてくる。僕じゃない方の新入社員は、その時点ですでに一度ロンドンに行っていた。
次は兵庫がまだだから行かせよう、入ったばかりなのに急に異動でかわいそうだから、餞別代わりってことで、みたいな話だったのだと思う。と、今になると推測するのだが。
意味ありませんて。そんな入ったばかりの小僧を、ロンドンに連れて行っても。ベテランの編集部員が行けないんだったら、ロッキング・オンにはロンドン特派員がふたりもいるんだから、それで充分こと足りますって。実際、そういう現地取材も、いっぱいやっているじゃないですか。と、今なら言いたい。
雑誌側にちょっとでも多くのページ数を割いてもらうには、日本から編集部の人間を連れて行った方がいいとか、そういう事情があったのかもしれない。国内洋楽シーン(変な言葉ですね)におけるロッキング・オンという雑誌の影響力が大きかったので、素人の小僧でも「ロッキング・オンの編集部員である」というだけで連れて行く価値あり、とみなされたのかもしれない。ないのに。俺だし。
しかもだ。そのロンドン出張の話に、当時の僕が喜んだ、かというと、そうでもなかったのだ。
そもそも旅行に興味ない、学生時代もろくに行ったことがない。国内ですらそうなんだから、言葉が通じない海外なんてもってのほか。治安悪くて怖いし。パスポートも持っていないし、飛行機に乗ったことすらない、そういう奴だったのだ。
だからこのロンドン出張も、何もない時間はずっとホテルに籠もっていて、街をブラブラ歩いたりとかは、まったくしなかった。バカじゃねえの。せっかく人様のカネでロンドンなのに。旅行大好きで、年一回は海外に行っていて、国内も月に一度はどっかに遠征しないと落ち着かない今の自分は、そう思う。
だが、ど新人の小僧に、もちろん断るなんて選択肢はない。その時の取材対象であるバンド、The Wonder Stuffは好きだったので、それだけを心のよすがに、パスポートを取りに行き、7月のある朝、成田からガトウィック空港へと飛び立ったった。ヒースローじゃないんだ? と、今なら思うが、当時はそんなん知るはずもない。
ちなみに、レコード会社の担当、ポリドールのディレクターのH氏は、先に現地入りしており、僕は初対面のカメラマン、久保憲司さんと成田空港で待ち合わせて、渡航することになっていた。
が、久保さんが遅刻して来て、落ち合った時には「これ乗り遅れるんちゃう?」というくらいの時刻。なので、久保さんが、出国審査の大行列の中を「すみませんすみません遅れそうなんです」と周囲に謝り倒しながらものすごいパワーで突き進み、前の方に入れてもらって、なんとか間に合った。
なお、久保さんは、ロッキング・オン誌用の写真を撮る仕事と、競合の洋楽誌であるクロスビートのカメラマン兼ライターとして、来ていた。久保さんはロンドンに住んでいた経験があり、英語を話せる。
つまり、こっちは取材にあたって僕・通訳・カメラマンの3人が必要なのに、久保さんはひとりですむのだ。そうかあ。と、改めて己の何もできなさに萎縮する自分だった。
兵庫慎司22歳、久保憲司26歳の頃です。若いなあ。
ロンドンに着いてからの仕事は3つ。サード・アルバム『Never Loved Elvis』をリリースするThe Wonder Stuffが、ブライトンの小さなクラブ(ライブハウス)で行う、シークレット・ギグ的なライブを観る。そして翌日、彼らの地元バーミンガムのべスコット・スタジアムというサッカー場で開催される、凱旋ライブを観る。そしてその翌日、メンバーにインタビューする。ボーカルのマイルス・ハントが受けてくれるのがベストだが、誰になるかはまだわからない──というスケジュールだった。
べスコット・スタジアムの日は、当時のロッキング・オンの特派員=ロンドン在住のおふたり、児島由紀子と山下えりかと一緒に足を運んだ。「一緒に足を運んだ」んじゃないですね。「連れて行ってもらった」んですね。
今調べてみたら、べスコット・スタジアム、収容人数11,300人だそうです。これはサッカーの試合の場合で、グラウンドに人を入れない状態での数。その日はグラウンド部分がオールスタンディング状態、スタンド部分は自由席になっていた。お客はグラウンド部分とスタンド部分を、好きに行き来できる。グラウンド部分は9割くらい、スタンドは半分くらい埋まっていた。今、検索をかけたら、この日の動員、公式発表18,000人だったそうです。そうね、それくらいはいた気がします。
で、児島由紀子と山下えりかと共に、スタンドの適当な席に腰を下ろし、オープニングアクトのバンドを、いくつか観たのだが。
The Wonder Stuffの出番が近づくにつれ、せっかくなのでスタンディングエリアで観たい、とう気持ちが、ムクムクと湧き上がってきた。で、このバンドが終わったら、いよいよ次はThe Wonder Stuff、というあたりで、児島・山下に「ちょっと前、行って来ます」と言ってグラウンドに下りてみたら、人はいっぱいだがギュウギュウな状態ではなかったので、わりと簡単に、グラウンドの中央あたりまで行けた。
が、前のバンドが終わると、どんどん人がグラウンドに下りてくる。みるみるうちに人口密度が高まっていく。なので、じわじわと前方に押されていく。気がついたら、けっこうステージの近くまで来ていた。
周囲はほぼ男で、10代後半が中心。みんな僕(22歳)より若くて、僕より小さい。本国ではこんなに若い男の子に人気あるのか、と驚いたが、前の方で観たがるのは、そういう若くて元気な野郎だ、という当然なことが、あとでわかる。
そんな場所で、人混みに埋まっているというのに、僕はワイシャツにジャケット姿だった。なんで日本からそんな格好で行ったのか、今でもまったくわからない。インタビューでレコード会社に行ったりするので、ちゃんとした格好じゃなきゃいけない、とでも思ったんだろうか。
失敗した。こんな格好なの俺だけじゃん。浮いてるし、動きづらいし、暑い。せめてジャケットを脱げばよかった……などと思っているうちに、The Wonder Stuffの面々が登場し、ライブが始まる。
ボーカルのマイルス・ハントが、ギターを抱えて「Misson Drive」を歌い始めた。ニュー・アルバム『Never Loved Elvis』の1曲目で、ギターのアルペジオで始まり、マイルスがそっとボーカルをのせ、他のメンバーの音も徐々に加わっていき、ワンコーラス終わっていっぺん間奏がはさまり、2コーラス目が始まってマイルスがAメロを歌い終わる1分40秒くらいのところで、メンバー全員が一斉に、怒濤の演奏を始める──という構成の曲である。
メンバーが出て来たあたりから、「ちょ、押さないで、危ないから」「ああもう、そんな無理矢理前に行くんじゃないよ、苦しいよこっちは」みたいな、押し合いへし合いの状態には、既になっていたのだが。その1分40秒の時点で、マイルスがシャウトし、バンドが怒濤の演奏に突入した、その瞬間。
地面に足がつかなくなった。
モッシュやダイブやクラウドサーフといったものがあることは知っていたものの、そういうのはハードコア・パンクとかに限って、起こるものだと思っていた。実際、それ系のライブの時に、川崎クラブチッタ、浅草常盤座、あと街の小さなライブハウスくらいでしか、そういう光景を目の当たりにしたことがなかった。
なので、まさか、The Wonder Stuffのような音楽性のバンドで、そんな事態になるとは、予想だにしていなかったのである。
甘い。甘すぎる。あともうひとつ言うと、1991年当時の日本では、「大会場でオールスタンディング」というライブ自体が、行われていなかった。「そんなの危なすぎてありえない」と、みなされていた。オールスタンディングのライブハウスの最大キャパも、川崎クラブチッタか、渋谷のON AIR(今のO-EAST)くらい、つまり1000人前後くらいだった。この数年後に赤坂BLITZができた時、「オールスタンディングで1,400人なんだって!」と、業界内では、ちょっとしたニュースになったくらいである。
なので、数千人規模によるモッシュ/ダイブ/クラウドサーフがどんなもんかがわかっていなかった。というのも、己の甘さだった。
話を「地面が足につかなくなった」自分に戻す。
周囲の少年たち全員が、一斉にジャンプを始める、しかもその場でまっすぐ上に飛ぶのではなく、四方八方に向かってやみくもに全力ジャンプをくり広げる、数千人がそれを延々とやっている、という、フェスにおけるモッシュの最上級みたいな状態になったのだ。
身長184センチの僕の両足が、地面につかない。ずっと宙に浮いている。やみくもジャンプ白人少年たちの体当たりが、全方位から休みなく飛んで来るので、自分の意志で身体を動かすことができない。自分の身体がどっちに流れて行くのかわからない。苦しい。息ができない。あと、痛い。誰かのヒジ打ちや膝蹴りや頭突きが、絶え間なく己の全身を襲ってくるので。
脱出したい。でも、後方に逃げることも不可能だ。行きたい方向に行けないんだから。
苦しい。痛い。自分の意志では動けない。ただただ周囲に流されるしかない。何度も将棋倒しになりそうになったが、そのたびに逆の方向から体当たりを食らって持ち直した。でもこれ、いっぺんコケたらおしまいだ。
ここで死ぬのか。初めて立った異国の地で。台風で水嵩が増した川の濁流を「人間の身体」ではなく「物」と化した溺死体が、あちこちにぶつかりながら流れていくように、白人少年エンドレスジャンプの波の上を、自分の死体が右に左に流れていく、そんな画が脳裏に浮かぶ。イヤだ。ダメだ。それはちょっといくらなんでも。
どうやってその状態から這い出せたのか、憶えていない。とにかく必死に後方に進もうとあがいたが、全っ然進めなかったことは、うっすら記憶にある。
ともあれ、気がついたら、グラウンドの最後方の空いているエリア、その地面でうずくまっていた。そこで、しばらく息を整えてから、スタンドに戻った。ヨレヨレの僕の姿を見て、児島&山下は爆笑していた。「喜んでいた」くらいのレベルで。
という経験をしたもんで、「素人が前に来るからケガすんだよ、後ろの安全な方で観てろよ」というような声に、「いや!」と言いたくなるのだった、今でも。
けっこう後ろにいましたもの、俺! 押されて押されて、気がついたら前の方にいた、そしてもう戻れない、ってこと、あるんですってば。
それから6年後のフジロックを皮切りに、日本でも本格的に大型フェスが始まったりして、大会場でのオールスタンディングがあたりまえになったので、その規模で起こるモッシュやダイブやクラウドサーフを、数え切れないほど目撃してきた。
が、あの1991年のべスコット・スタジアムに比べれば、全然節度がある、安全なものに見える。あんなむちゃな暴れ方はしない、日本人は。でも、それであっても、深刻な怪我人が出たりするんだもんなあ。うーん……。
余談。
その翌日のインタビュー、やはりマイルス・ハントはNGで、ドラムのマーティン・ギルクスが受けてくれた。
取材場所が所属レコード会社のポリグラムUKで、受付で名簿に記入をしていたら、僕の前に書かれていた名前が「ボブ・ゲルドフ」だった。THE BOOMTOWN RATSの、「バンド・エイド」「ライヴエイド」の首謀者の、あの人です。
お姿はお見かけしませんでしたが、びっくりしました。「さっきまでここにいたのか!」という意味と、「あんな大物アーティストでも名前を書かされるのか!」という意味で。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(月一回)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二〜三回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。