兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第十五話:初めてサザンのライブを観たのは1985年1月(前編)

月2回連載

第29回

illustration:ハロルド作石

この連載、そもそもは、昔自分が観たライブで、今になって考えるとロック史に残るようなものだった、もしくは自分個人の人生において重要なものだった(大抵はこっち)、そういうやつに関して、思い出して書いて記録しておこう、という趣旨で始めた。

が、第六話(第11回と第12回)で、「今観たライブによって、昔観たライブのことを思い出したので、書く」という方法があることに気がつき、そうしてみたところ、以降、ほぼ毎回それになってしまった。

今回もそのパターンです。そればっかりでいいのか、という気がしないでもないが、思い出しちゃったもんはしょうがないので、書きます。

2025年5月28日の水曜日、東京ドームで、サザンオールスターズを観た。10年ぶりのニューアルバム『THANK YOU SO MUCH』のリリース・ツアー。8都市のアリーナと5都市のドームを回ったファイナルが東京ドーム2デイズで、この日はその1日目の方である。

これ、リアルサウンドにライブレポを書いた。で、そっちにもちょっと書いたことなのだが。

2022年10月1日にアントニオ猪木が亡くなって以降、桑田佳祐はライブでアンコールを終えて去る時に、猪木への追悼の意を込めて「1、2、3、ダーッ!」をやるのが恒例になっている。必ずやるのかどうかは知らないが、少なくとも、僕が観た数回ではそうだ。

で。今回、そこにちょっと変化があった。桑田は、元新日本プロレスの新間寿氏が、つい最近(4月21日)亡くなったことに触れ、彼にも捧げる意味で「1、2、3、ダーッ!」をやったのだ。「プロレス好きな人にしかわかんないと思うんですけどね」と言いつつ。

あなたはご存知でしょうか、新間寿氏。元新日本プロレスのフロント(専務取締役営業本部長)であり、「過激な仕掛け人」と呼ばれた猪木の片腕であり、後にいろいろあって猪木の敵に回ったりした、それから数十年経って和解したりもした、そういう方である。

まあ確かに、プロレスファンしか知らないか。いや、プロレスファンでも、若い世代は知らないかも。金曜20時の『ワールドプロレスリング』で猪木を観ていた、昭和のファンだけの常識かもしれない。

と考えて、そこからの連想で、ついさっき生で聴いたばかりの、『THANK YOU SO MUCH』の収録曲のことを思い出した。

アルバムの12曲目で、この日は17曲目に演奏された「ミツコとカンジ」である。「ミツコ」は倍賞美津子のことで、「カンジ」は猪木の本名=寛至、というのも、金曜20時昭和プロレスファンしかわからないかも。わからないだろうな。でも、そのふたりの曲を書きたかったし、その曲名にしたかったんだろうな、桑田さん。

とか考えながら、終演後、出口に向かっていたら、知人とばったり会ったので、訊いてみた。

「あの、おいくつでしたっけ?」

「え? 43歳ですけど」

「そうか。プロレスは好き?」

「いや、特には」

「そうか。じゃあ──」と、「ミツコとカンジ」について訊いてみたところ、彼の答えは。

「えっ!? アントニオ猪木と倍賞美津子って、夫婦だったんですか?」

だった。

うん、まあ、そりゃあそうよね。離婚したの、確か、俺が大学生の頃だったし。今調べたら、1988年でした。

というように、アントニオ猪木を敬愛する男が桑田佳祐であることは、広く知られているが、ここからちょっと話題が変わります。

さっきも書いたとおり、このサザンのツアーは、10年ぶりのニューアルバムのツアーであり、『THANK YOU SO MUCH』に収録されている14曲のうち、「盆ギリ恋歌」と「歌えニッポンの空」を除く12曲が披露された。全曲やるのは尺の問題でさすがに無理、だから『茅ヶ崎ライブ2023』で演奏ずみだったその2曲を、泣く泣くカットしたのだ、と推測する。

それ以外に、前半では、ライブで久々に聴けたレア曲も、いくつもあった。という、このあたりに関しては、リアルサウンドのレポの方に詳しく書いているので、こちらをぜひ。

そして後半は、ワンマンでもフェスでも必ず演奏されるような、定番の大人気曲の連打ゾーンに突入したのだが、その中の1曲について、この機会に、書いておきたくなったのだった。

みんな大好きだし、自分も大好きな曲だけど、ライブで聴くたびに、ちょっと不思議な気持ちになるので。

このライブでは23曲目に演奏された、「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」である。1984年の7作目のアルバム『人気者で行こう』のリード・シングルとしてリリースされ、ヒットして以降、サザンのライブの定番曲になっている。1990年代とかは、やらないツアーもあったが、少なくとも近年はそうだ。

自分の記憶をたぐっても、2024年9月23日の『ROCK IN JAPAN FESTIVAL 2024 in HITACHINAKA』でも、2023年10月1日の『茅ヶ崎ライブ』の最終日でも、2019年のツアー『”キミは見てくれが悪いんだから、アホ丸出しでマイクを握ってろ!!”』だと!? ふざけるな!!』の名古屋公演=6月1日ナゴヤドームでも、演奏された。

なんで2019年は名古屋まで行ったのかというと、東京公演の2デイズが、毎年レポを書いているやついいちろうプレゼンツのフェス『YATSUI FESTIVAL!』とバッティングしたからです。

で。僕はその「ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)」が、初めて演奏されたツアーを、観ている。生まれて初めて買ったレコードが「勝手にシンドバッド」です、という程度には、リアルタイムのファンのつもりでいるが、生でサザンのライブを観たのは、その時が初めてだった。

『大衆音楽取締法違反“やっぱりアイツはクロだった!”実刑判決2月まで』というタイトルが冠せられた、『人気者で行こう』のリリース・ツアーの広島公演、1985年1月9・10日、広島郵便貯金会館。その2デイズのどっちだったかは、憶えていない。

と、日付を調べて、書いてみて、気がついた。広島ウッディストリートで19歳の奥田民生を初めて観た日の、1週間だか10日だか前だったのか(詳しくはこの連載の第四話をどうぞ)。

当時、僕は高校1年生。中学までは、いわゆるライブというものを観たことは、ほぼなかった。小学生の時に、同級生のお姉さんからもらったタダ券で、「君のひとみは10000ボルト」がヒットしていた頃の堀内孝雄のライブに行ったことがあるのと、中学の時、近くの大学の学園祭に来た子供ばんどを観に行ったことがある、その二回だけである。

子供ばんどが来たのは、広島電機大学、通称電大。ユニコーンの川西幸一・手島いさむ・EBIの母校で、だから2012年にその3人でバンドを始める時、奥田民生が「電大」と命名したことは、ファンの間では常識である。

話を戻す。で、高校生になってからは、ライブハウスやホールでのライブに行くようになったが、この時のサザンは、正直、行くつもりがなかった。というか、無理だと思ってハナからあきらめていた。チケット、取れるわけがない、と思っていたので。

しかし。同じクラスのナカガワくんという少年が、「チケット1枚あるけど、行く?」と言ってきたのだ。一緒に行く人がダメになったかなんかで、1枚宙に浮いて、あいつバンドやってたりして音楽好きだよな、というので、僕に声をかけたのだろう。

もちろん、「え、嘘!? いいの!?」と、大喜びで買い取ったが、今思うとナカガワくんもよくチケット取れたなあ、と不思議ではある。サザンの人気、さすがに今ほどではなかったにしろ(このツアーのファイナルである東京公演は日本武道館3デイズ。東京ドームの1日分にも満たない)、それでも相当な倍率だったと思う。

そして、広島郵便貯金会館は現在の広島上野学園ホールで、サザン以外でも何度も足を運んだ会場だが……そうだ、さっき書いた堀内孝雄も、ここだった気がするが、今調べたら、キャパは1861人。

そんなサイズでサザンのライブを。もっとありがたがって観ろ、ステージに向かって手を合わせたりしながら。と、当時の自分に言いたい。

後編に続く。

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。
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