兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』

第十八話:日比谷野音が閉まります(後編)

月2回連載

第36回

illustration:ハロルド作石

1991年に株式会社ロッキング・オンに入社して上京して以降で、自分が初めて行った日比谷野音のライブって、なんだったんだろう。

ということを、ネットで見つけた「日比谷野音全公演記録」みたいなサイトで調べたが、その一覧を見ても、全然思い出せない。ようやく最初に「あ、これは間違いなく観た!」と思えたのは、1992年9月19日のエレファントカシマシだった。この時、エレファントカシマシは、日比谷野音でのワンマンは、三回目。

というところまで、前回に書きました。では、その続きです。

あ、ただし、言っておくと、この1992年9月19日のエレファントカシマシが、本当に自分が初めて日比谷野音で観たライブだったかどうかは、だいぶ怪しいです。

怪しい理由はふたつ。ひとつめは、入社から1年半もの間、一度も日比谷野音に行かなかった、というのは、(入社から半年間、洋楽雑誌の編集部にいたとしても)あまりに不自然なので。

で、もうひとつは、初めて日比谷野音に行ったのは、ワンマンじゃなくて、複数のバンドが出る、何かのイベントだったような気がするからである。

そもそも1990年代の日比谷野音って、そんな、複数バンド出演型のイベントが多かったように記憶している。TVKとパチパチ(という音楽雑誌)のイベントとか。

僕は実体験としては知らないが、1980年代後半のバンドブーム勃興の頃から、そうだったんじゃないかと思う。ユニコーンも、上京していきなり(つまりデビュー前だ)日比谷野音のイベントに出た、というか出させられた、ということを、後年に奥田民生がインタビューで話していたし。

想像ですが、ここでワンマンをやりたい人よりも、ここで複数のバンドが出るイベントを打ちたい人が多かった、ということなんでしょうね、当時は。日本に野外フェスが根付くよりも全然前の時代なので、まあ、わかる気がする。

すっかり話がそれた。戻します。

で、そこまで記憶があやふやなほど昔のことなのに、なぜこの1992年9月19日のエレファントカシマシに関しては、「観た」とはっきり憶えているのかというと、それまでのエレファントカシマシのライブとはあきらかに違う、ファンにとって「事件」と呼んで差し支えない内容だったからだ。

では、「それまでの」エレファントカシマシのライブとは、どういうものだったのか。

ステージセットなし、普通なら床などに貼る黒のクロスもなしで地がむきだし、後方にいっぱい木箱が積まれていたりする。照明もなし。始まっても客電を落とさず、ホール内が明るいまんま。

MCなし、アンコールなし。お客に許されているのは、座ったままでじっとステージを凝視することのみで、立ったり歓声を飛ばしたりしようもんなら、宮本に怒鳴られる。

ただ、そのようなライブは、100%宮本の意志でそうしていたわけではなかったようで、初の渋谷公会堂ワンマンの時に、「こんなのかえっておかしいよな。変なセット」とか、「だいたいばかばかしいぜ、こんなの……まあいいや、(言うのを)やめた」などと言っている姿が、映像で残っている。

日本のミュージック・ビデオの礎を築いた映像作家であり、エレファントカシマシがデビューしたエピック・ソニーのディレクターでもあった坂西伊作が撮って、テレビ東京の『eZ』で放送されて、ずいぶん時が経ってから、2017年に、坂西伊作と師弟関係にあった大沢昌史が編集し、『エレファントカシマシ〜1988/09/10渋谷公会堂〜』として、Blu-rayとDVDでリリースされた、あれです。

かといって、まさか「宮本くん、お客が歓声飛ばしたら怒ってね」「わかりました」なんてことは、どう考えてもないわけで、そのような当時の宮本のキャラクターは嘘ではないんだけど、それを際立たせるために、スタッフが、前述のような演出を施していたのだと思う。

なんのために。明るく楽しいバンドブーム全盛の中にあって、このバンドが異質で破格だということをアピールするため、だろう。

で。そのようなバンド・イメージを、宮本が変えようとした第一歩が、この日だったのだ、おそらく。

曲間にMCをはさむ。それも一度ではなく、何度も。で、「今日はしゃべろうと思って。なぜかと言うと、話好きなんですよ、僕」と言ったりする。

ファンが驚いたり戸惑ったりしている中、そんな、いつもよりあきらかにやわらかい空気感のまま、ライブは進んでいき、終了した。

どうしたんだろう。でも、宮本がそう来るなら、試しに……という感じで、何人かがアンコールを求める手拍子を始める。それが徐々に広まって全員になり、そのまましばし手拍子を続けたら、4人が出て来たのだ。

普通、アンコールでメンバーが出て来たら「キャー!」とか「イェー!」とかが正しいリアクションだが、この日はみんな「うわ、出た!」と、驚いていた。お化けじゃないんだから。でも、僕も驚いた。

こうして、初めてアンコールに応えたエレファントカシマシは、ダブル・アンコールも行ったのだった。

一度目と二度目のアンコールの間だったか、二度目が終わってからだったか忘れたが、「宮本、何があったか言え!」という野次が飛んで、ドッと笑いが起きたことを憶えている。みんな、同じ気持ちだったのだろう。

この日は週末だったが、締切で休日出勤していたかなんかで、僕は会社の営業車のホンダシティに、編集長と先輩を乗せて日比谷野音に行った。

で、帰りもその3人で、渋谷の外れにあった……あの、六本木通りを西麻布から渋谷方面に向かって、青山トンネルをくぐって、今ビクターとぴあが入っているビルの交差点を、左に曲がってすぐの左側に、ラーメン凪が入っているビル、あるじゃないですか。あの1階の奥に入っていたカプリチョーザに寄って、パスタをもりもり食いながら、いったい宮本に何があったのか、話し合ったのだった。

結論なんかもちろん出なかったけど。というか、20代×2と30代前半の3人で、なんでライブ帰りにカプリチョーザなのよ。飲みに行けよ、ホンダシティを会社に置いて。と、今思うと不思議である。

ただ、宮本のその、今を変えようとした気持ちは、次のアルバム『奴隷天国』を経ての『東京の空』で、本格的に実現することになる。

このアルバムを最後に、エピック&双啓舎との契約が終わり、新事務所&新レーベルに移ってリリースした『ココロに花を』から快進撃が始まった、というイメージがあるが……というか、状況等を考えると実際そうなのだが、音楽として、作品としては、『東京の空』が、快進撃のスタートだった、と、僕は思っている。

そういえば『東京の空』リリース直後のタイミングだった、日比谷野音も行ったな。1994年9月15日、敬老の日。近藤等則がゲストで登場し、アルバムで参加した「東京の空」で、トランペットを吹いた日です。すさまじいプレイだった。

そんなエレファントカシマシ以外にも、強く記憶に残っている日比谷野音で観たライブは、もちろんいっぱいある。

たとえば、フラワーカンパニーズの日比谷野音……は、前にもこの連載で書いたから、もういいか。第十三話の後編です。こちら

その他は、たとえば、ウルフルズの初の日比谷野音。マネージャーが「日比谷野音、押さえてもうた。大丈夫やろか、チケット売れんで大変なことにならんやろか」と心配していたが、その直後のシングル「ガッツだぜ!!」とアルバム『バンザイ』のとんでもない大ヒットにより、「お客はもちろん関係者も入りきらない」という、逆の意味で大変なことになったのだった。

アンコールでだったっけ、ビートたけしが弟子たちを連れて(当時フジテレビ深夜で放送されていた『北野ファンクラブ』の「亀有ブラザーズ」です)登場し、すんごい驚いたものです。

このウルフルズの日比谷野音、調べたけど、日にちがわからない。ウルフルズの公式サイトにも、過去のライブ、2004年より前は載っていないし。どなたかご存知でしたら教えてください。ロッキング・オン・ジャパンにライブレポを書いた記憶は、はっきりあるんだけど、私、自分が書いたり編集したりした雑誌、全然持っていないのです。

あと、ウルフルズの日比谷野音と言えば、もうひとつある。1999年に脱退したベースのジョンBが、2003年に再加入した時の、お披露目というか、お祝いのライブだ。

急遽開催が発表されて、昼の12時とかからの開演で、フリーライブだったんじゃないかと思うが……これも記録が発見できなくて、正しい日時も詳細もわからない。ご存知の方がいたら、ぜひ教えてください。ひとつの文章の中で何度もお願いすることではないですね。

セットどころか照明機材もない、楽器とアンプとマイクとスピーカーだけが置かれたステージで、「ああ、本当に急遽決めたんだな」と思ったこと。

それから、お客さんの多くが感極まって泣いていて、それにジョンBが動揺して、「あの、いや、僕、そんなんやないんです! アホなんですー!」と叫んで、爆笑を取ったこと。

そのふたつだけは、憶えている。

それから。確か、スペースシャワーTVのイベント『SWEET LOVE SHOWER』だったと思うが(前にも書いたが、今の山中湖交流プラザきららに移る前は、日比谷野音だったのです)、忌野清志郎が、サイクリングウェアに身を固め、自転車をこいでステージに登場した時。もちろん僕は憶えていないが、清志郎の「SWEET LOVE SHOWER」出演記録を見ると、1999年9月5日、2002年9月22日、2003年9月23日、2005年9月18日、のどれかである。どれでしょう。

2002年の時は、LOVE JETSでの出演だから、違うだろうな。それから、この連載のぴあ編集担当によると、「私が観た時は、『盗まれたオレンジ号(自転車)が戻って来た!』って、乗って登場した時でした」とのことだが、僕にはその記憶、ない。

清志郎オレンジ号盗難事件は、2005年9月4日で、発見されたのは9月7日。なので、彼女が観たのは2005年9月18日の時ですね。

そして、そもそも清志郎が自転車に熱中し始めたのは、2001年なので、1999年も除外される。というわけで、僕が観たのは、2003年9月23日、ということになります。

余談だが、ぴあ編集担当曰く「オレンジ号を発見して警察に電話した通行人、私の知り合いです」。マジか!?

日比谷野音の『SWEET LOVE SHOWER』と言えば、シークレット・ゲストでトップに桑田佳祐が登場、バンドと共に5曲を歌ったこともあった。そんなの大騒ぎになると思うじゃないですか。しかし、「日比谷野音で画面なしで、肉眼ではっきり見える距離で桑田が歌っている」という現実感のなさに、お客さんみんな「キャー!」というより「ポカーン」とした空気で、ステージを凝視していた(これは2002年の9月22日)。

などなど、他にもいろいろ思い出されるが、きりがないので、またの機会に。

あ、でもあとひとつだけ。

日比谷野音における、お客さんのアルコール摂取率のトップ3は、私の把握している範囲では、GRAPEVINE、ハナレグミ、Caravanです。

この3組の中での順位はつけられない。同じくらいかな。あくまで私が実際に行っているアーティストの中では、です。

売店で売っている缶のアルコール類が値上げになった時の悲しさも(自分が知っている限りでは過去二回)、入口前のテキヤの焼きそば屋二軒がバリケードを張られて追い出された時の寂しさも、憶えています。

焼きそば屋が消えたことを知った日は、アナログフィッシュのワンマンだった。2011年10月10日。終演後に楽屋挨拶に行ったら、ドラムの斉藤州一郎の第一声は、「焼きそば、なくなっちゃったんですって?」でした。

そういえばアナログフィッシュには、「Yakisoba」という曲がありますね。

作られたの、その10年後だし、日比谷野音の焼きそば屋とは、何も関係ないけど。


※追記:文中で私が「日にちがわからない、どなたかご存知でしたら教えてください」と書いているウルフルズ初の日比谷野音ワンマン、このテキストがアップされた直後にXで教えてくださった方がいて、判明しました。

「1996年4月13日(土)です。AIR表紙のロッキング・オン・ジャパンに兵庫さんの書かれた記事が載ってました」

ありがとうございます!

プロフィール

兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMIOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。
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