兵庫慎司の『思い出話を始めたらおしまい』
第二十一話:子供ばんどは中2の時、EARTHSHAKERは高1の時に観た(後編)
月2回連載
第42回
illustration:ハロルド作石
2025年10月24日(金)、恵比寿The Garden Hallで対バンイベントを行った、子供ばんどとEARTHSHAKERを、初めて観た頃の話。前編は子供ばんどについて書きました。この後編は、EARTHSHAKERについて、です。
1980年代中盤に隆盛を極めた、ジャパニーズ・ヘヴィ・メタル・ブーム、通称ジャパメタ・ブームにおいて、圧倒的トップのLOUDNESSの次、二番手か三番手に位置していた人気バンドが、EARTHSHAKERである。このバンドと44MAGNUMの、どっちが二番手でどっちが三番手かに関しては、好みによって意見が分かれると思うので、棚に上げます。
高校生の自分が、このバンドが大好きでコピーバンドをやっていたこと、そして地元の先輩=奥田民生もEARTHSHAKERをコピーしていたことは、この連載の第7回に書いた。こちらです。
で、自分が、なんでそんなにEARTHSHAKERに入れ込んでいたのかについても、同じ第7回に書いたが、これはリンクを貼るんじゃなくて、もう一度書いておくべきですね。たとえ重複になっても。
ええと、それはですね、当時のジャパメタのバンドたちの中で、いちばん「普通」だったからです。
トゲトゲの鋲付きのレザーとか、ベルボトムのパンツにロンドンブーツとか、歌詞に「悪魔」や「神」が出てくるとか。メタルの音が好きな自分だけど、そこはかっこいいとは思えない、そんなようなポイントが、いちばんないバンド、それがEARTHSHAKERだったのだ。
メタル以外のジャンルの、いわゆるオーソドックスなロック・バンドといちばん近い。歌を中心に楽曲が作られていて、メロディがとてもよくて、歌詞がちゃんとヒアリングできる、というのが、とても好きだったのである。
たとえば、カラオケでLOUDNESSの「IN THE MIRROR」や「CRAZY DOCTOR」を歌うのは、ちょっとあれだが、EARTHSHAKERだったら大半の曲は普通に歌える、というか。
ちなみに。そんなような、ロックのジャンルの選別のしかた、バンドの選別のしかたを、当時の自分に植え付けたのは、ビートたけしと渋谷陽一である。
ビートたけしは、「ヘビメタ、笑えるよな。今どきベルボトムにロンドンブーツってよお」というような観点で、『ビートたけしのオールナイトニッポン』などでネタにしていた。時代的にはだいぶ後だが、『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に、デビュー前のX(現X JAPAN)やLADIESROOMなどをキャスティングしていたのも、その延長線にあったのだと思う。あ、当時はまだ「ビジュアル系」という概念はなくて、そのあたりはみなさん「ヘビメタ」とくくられていました。
『ビートたけしのオールナイトニッポン』を毎週テープに録音し(起きていられないからではなく、何度も聴くために)、1日中ネタを考えて、何枚ものハガキを投稿し続けていた自分にとって、殿(たけし)のおっしゃることは絶対だった。ゆえに、自分の好きなジャパメタが、「笑われるもの」という位置付けになっていることに、ただただ混乱する日々を送っていたわけなのである。
渋谷陽一は、もっとタチが悪くて……って、今年(2025年)亡くなったばかりの、長きにわたって自分の雇用主だった人に向かって、「タチが悪くて」とか言うなよ。という話だが、特に1980年代の渋谷陽一は、「敵を作って叩くことで、自分の推す音楽と自分自身のバリューをあげる」という方法をよく用いる、音楽評論家/編集者だったのだ。
音楽雑誌なら、ミュージック・マガジンを叩くとか、PATi・PATiを叩くとか。自分のところより小難しい雑誌と、自分のところよりミーハーな雑誌、両方を敵に回していたわけですね。
で、音楽なら、「ヘヴィ・メタルはゴミじゃ」とか、「産業ロックはゴミじゃ」とか、「黒人音楽をわからない奴はバカじゃ」とか、そんなタイトルでロッキング・オン誌(洋楽の方です。ジャパンは当時まだないので)に原稿を書いたり、ラジオでしゃべったりするのである。
毎週熱心にラジオを聴き(多い時は週に3本ぐらい聴いていた気がする)、熱心にロッキング・オンを読んでいる、なのに、そんなふうに渋谷陽一が否定する音楽も好んで聴いている、田舎の高校生は、どうなるでしょう。
引き裂かれるでしょう、そりゃあ。ええっ、アイアン・メイデンもサクソンもディオも、LOUDNESSもEARTHSHAKERも、聴いちゃいけないの? というですね。渋谷陽一的に、ヴァン・ヘイレンだけはセーフだったのにはホッとしたものです。で、その線引き、なんとなく、わからなくもない。
ちなみに、その部下である山崎洋一郎的には、モトリー・クルーのファーストとセカンドだけはセーフだった。これはよくわかります。本人はまず憶えていないだろうけど、そんなことを書いたという事実自体。音楽性が一気にLAメタルに寄ったサード・アルバム『シアター・オブ・ペイン』のディスクレビューで、「これで僕の好きなメタル・バンドはいなくなった」と書いていたのよね。そのアルバムで本格的にブレイクしたんだけど、モトリーは。
ちなみに、産業ロックというのは渋谷陽一の造語で、ジャーニーとかTOTOとかスティクスとかREOスピードワゴンのような、1980年代の英米や日本で大人気だったバンドたちのことだ。1970年代のアメリカン・ロックを、よりハードに・よりポップに・よりドラマチックで大げさで分厚いサウンドに、発展させた音楽性が、渋谷陽一の地雷のどまんなかだったのである。
ええっ……ダメなのか、聴いちゃ。どうしよう、うちのレコード棚にあるスティクスの「ミスター・ロボット」。でも桑田佳祐は、自身の『オールナイトニッポン』で、ジャーニーの「オープン・アームズ」をかけて、「もうわかったって! と言いたくなる、この大仰さがいいんだよねえ」などとおっしゃっている。どっちを信じればいいんだ。
というふうに、メタルの時以上に引き裂かれたもんで、その数年後に、「それよりもっと昔、渋谷陽一は、REOスピードワゴンのデビュー・アルバムの解説を書いていた」という事実を知った時は、怒り心頭に達したものです(中古盤屋で掘り出して知った)。あんたがゴミだと断罪したバンドの1枚目を! どういうつもりだ! と。
親しいディレクターに頼まれて引き受けたんだろうな、とか、その頃は彼の中にまだ「産業ロック」という概念が体系化される前だったんだろうな、とか、今になると推測できますが。
話がすっかりEARTHSHAKERから遠ざかってしまった。戻します。
そんなふうに(どんなふうにだ)大好きだったEARTHSHAKERを初めて観たのは、広島郵便貯金ホール。ワンマンではなく、広島の高校生バンドにとっての甲子園みたいなイベント『ジュニア・ロック・コンテスト』の、僕が高2の時の決勝大会の、ゲスト・アクトだったのだ。
余談だが、Ooochie Koochieでよく話題になっていた「奥田民生と吉川晃司は高校時代から面識があった」というのは、共通の友人の家で出会ったこと以外に、このコンテストで一緒になった、というのもあるんじゃないかと思う。
ちなみに、その1年前=高1の時のゲスト・アクトは、名古屋のメタル・バンド、SNIPERだった。ソロの時の吉井和哉のバンドメンバーの、バーニーこと日下部正則は、このSNIPERのギタリストである。吉井自身が、というかTHE YELLOW MONKEYが4人とも、ジャパメタ・シーンの出身なので、その頃からの縁なわけですね。
いかん、また話がそれた。ええと、初めてEARTHSHAKERを観たのはその『ジュニア・ロック』のゲストで、次に観たのはツアーで来た東区民会館でのワンマン、その次はキャパがアップして郵便貯金ホールのワンマン、だったと思う。
もちろん毎回、それはもう、夢中になって観た。ドラムの工藤義弘が、『ジュニア・ロック』の主催である木定楽器店に、ドラム・クリニックで来る、というので、参加したこともあります。
さて。そんなEARTHSHAKERと子供ばんどが共演した、2025年10月24日(金)恵比寿The Garden Hall。
ステージを見ると、最初から2バンド分の楽器や機材が置かれていて、ステージの転換がないこと、最後に全員でのセッションがあることがわかる。
先攻のEARTHSHAKERは、オーケストラ・インスト・アレンジの「MORE」がSEで、そこから生演奏の「MORE」につながってライブがスタート。2曲目は「記憶の中」。マーシー(西田昌史/ボーカル)の、子供ばんどと出会った頃を回顧するMCをはさんで、「FUGITIVE」(ここまでの3曲はセカンド・アルバム『FUGITIVE』より)、うじきつよしが加わっての「COME ON」、そして「WHISKY AND WOMAN」(以上の2曲は4枚目の『PASSION』より)、「走り抜けた夜の数だけ」(これがいちばん新しくて8枚目の『TREACHERY』の曲)、「RADIO MAGIC」(3枚目の『MIDNIGHT FLIGHT』より)、ラストは「EARTHSHAKER」(ファースト・アルバムの1曲目)。
もう「全曲フルコーラス歌詞を見ずに歌える」のはもちろん、「全曲フルコーラスバンドスコアを見ずに叩ける」セットリストである。1曲1曲、イントロが始まった瞬間に「キャー!」と声が出るぐらいの……。
なんてことを平気で書くのって、私は「元ファン」であって、現役ファンではありません、と言っているのと等しいですよね。ずっとEARTHSHAKERを追い続けてきて、今も普通にライブに通っている現役ファンの方からすると、腹立たしいだろうなあ。という自覚はある。
わかります。私もフラワーカンパニーズなどのライブで、同じような思いをすることがあるので。でも、そんなふうにむかつかれるのは事実だろうが、うれしかったのも事実なので、しょうがない。せめて、招待じゃなくて普通にチケットを買いましたので、というところで、ご容赦ください。単に、招待してもらえるツテが、なかっただけなんだけど。
子供ばんどは、サポート・メンバーのキーボード=Dr.kyOnが療養中でお休み、代わりに(なのかどうかわからないが)コーラスでうつみようこが加わってのステージ。
「踊ろじゃないか」でスタート、「DREAMIN’(シーサイド・ドライブ)」、「TAKE ME TO YOUR PARTY」、Dr.kyOnが編曲したアコースティック・アレンジの「さよなら BOY」、「HEART BREAK KIDS」などの、それはもううれしい曲の数々を経て、本編ラストは、2015年リリースの最新アルバム『ロックにはまだやれることがあるんじゃないのか』からの「STOP THE ROCK'N ROLL!! (Never)」で締めた。
アンコールは、子供ばんど×EARTHSHAKERで、子供ばんどが初期によくやっていた「英米の曲に日本語詞を付けてカバー」シリーズの2曲、リック・デリンジャー「ロックンロール・フーチークー」と、エディ・コクラン「サマータイム・ブルース」をセッションする。
「サマータイム・ブルース」の間奏では、全員順番にソロ回し→「子供ばんど恒例・間奏でドラマー以外全員フロントで一列になって、リズムに合わせてギター&ベースのネックを上げ下げ」も、観ることができた。この2バンドで、この光景を……という事実が、感無量だった、とても。
中学生・高校生の頃にライブを観ていたバンドを、57歳の今も観ている。前回書いたように、子供ばんどを初めて観たのは中学2年・14歳の時だから、43年経っている。
と考えると、クラクラするが、それだけの月日が経っているのに、この2組のライブを観ることができているのは、とても幸せなことだとも思う、やはり。
にしても、14歳。1982年。ホテルニュージャパン火災と、日航機羽田沖墜落事故があったのは、憶えている。他に何があったっけ……と調べたところ、こんな記述を見つけた。
「8月17日:フィリップスが世界初のCDを製造」
うわあ。その中の1枚は、ABBAのアルバム『ザ・ヴィジターズ』だったそうです。
プロフィール
兵庫慎司
1968年広島生まれ東京在住、音楽などのフリーライター。この『思い出話を始めたらおしまい』以外の連載=プロレス雑誌KAMINOGEで『プロレスとはまったく関係なくはない話』(季刊)、ウェブサイトDI:GA
ONLINEで『とにかく観たやつ全部書く』(月二回)。著書=フラワーカンパニーズの本「消えぞこない」、ユニコーンの本「ユニコーン『服部』ザ・インサイド・ストーリー」(どちらもご本人たちやスタッフ等との共著、どちらもリットーミュージック刊)。さらに、ユニコーンと同じ企画で作った「ウルフルズ『バンザイ』ザ・インサイド・ストーリー」が、2026年1月末に出ます(これもご本人たちやスタッフ等との共著、これもリットーミュージック刊)。あと、編集で参加した忌野清志郎&仲井戸麗市の本『忌野くんと仲井戸くん』、重版がかかりました(株式会社QANDO:qando.co.jp)。
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