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いつの間にか韓国でフロアヒットしていた脇田もなり

音楽

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ナタリー

脇田もなりの曲が韓国のシティポップファンの間でアンセムになっているという。今、シティポップと呼ばれる日本の音楽が国内を飛び出し、世界各地でブームを起こしているという話はよく耳にする。しかし、いちインディーズアーティストの楽曲がどのようにして海外へと飛び火したのか。2019年末に初の韓国遠征を行った脇田自身の体験談や韓国在住の音楽プロデューサー・長谷川陽平の発言などをもとに、ポップカルチャーとして大きな盛り上がりを見せる韓国のシティポップ事情を探る。

世界に広がるシティポップの波

竹内まりやが1984年に発表した「Plastic Love」が30年以上の時を超え、海を越え、欧米でブームを起こしたことは国内でもさまざまなメディアで取り上げられた。また2017年8月放送のテレビ東京系「Youは何しに日本へ?」では邦楽のレコードを買うためにはるばる日本へやって来たアメリカ人男性が紹介され、探し求めていた大貫妙子のアルバム「SUNSHOWER」を見つけて大喜びする姿が話題に。この男性は、日本の“シティポップ”と呼ばれる音楽の魅力に惹かれ、レコードを集める“ディガー”だった。

前述の竹内や大貫をはじめ、山下達郎、林哲司、角松敏生、ブレッド&バター、杉山清貴&オメガトライブらが1970年代後半から80年代にかけて発表した、都会的で洗練されたポップスは、しばしば“シティポップ”というキーワードで語られる。様式やサウンド傾向に明確な区分けはないが、シティポップは日本の音楽史における重要なキーワードの1つとして時代や国境をも越えて広く愛されている。近年はシティポップの血脈を感じさせる若いアーティストも多く、直接的な影響を公言するアーティストもいれば、自由な発想で生み出した音楽ながらシティポップ的だと評されるアーティストもいる。それは海外も同様で、例えばインドネシアのバンド・Ikkubaruは達郎や角松といった日本産シティポップの先人からの影響を公言しており、たびたびの来日公演のみならず日本のアーティストとのコラボレーションも積極的に行っている。韓国出身のDJ / プロデューサー・Night Tempoも、シティポップのみならずアイドルソングやニューミュージックを含む“昭和歌謡”を広く愛するアーティストの1人。ヴェイパーウェイブやフューチャーファンクといった現代のクラブカルチャーを経由して再構築したシティポップのリミックスが話題を呼び、「FUJI ROCK FESTIVAL」への出演でその名を広く知らしめた。同じく韓国出身の女性デュオ・赤頬思春期は“韓国版シティポップ”として注目され、今年1月にはシングル「LOVE」で日本デビュー。ほかにも韓国にはサウンドプロデューサーのBronzeやソロシンガーのウジュ、元Wonder Girlsのユビンなど、シティポップと親和性の高いアーティストが多数存在する。海外の中でも韓国の盛り上がりは特に顕著で、クラブシーンでは夜な夜な日本のシティポップがスピンされ、地元の若者たちによる合唱が巻き起こるほどの盛り上がりを見せているという。

2019年の暮れ、韓国・ソウルの弘大(ホンデ)に位置するクラブ・韓国Channel 1969で行われたイベント「This Is The CITY LIFE」に脇田もなりがゲスト出演した。弘大は東京で言う渋谷や原宿、下北沢のようにクラブやカフェが集中した街で、昼も夜もカルチャーを求める若者たちで賑わっている。この街のクラブシーンは深夜も盛んで、この日のイベントもオールナイトながら多くの音楽ファンが詰めかけていた。熱狂的な歓声で迎え入れられた脇田がオリジナルナンバー「WINGSCAPE」を歌うと、観客も──なんと日本語で大合唱。「WINGSCAPE」は韓国のシティポップファンの間でアンセムになっているのだ。韓国の音楽シーンで今、何が起こっているのか。

いつの間にか“輸出”されていた脇田もなりの歌

「長谷川さんが日本に来たとき、たまたま私のインストアイベントで『WINGSCAPE』を聴いて、『なんだこの子、シティポップをやってる子なのかな』と興味本位でシングルを買ってくださったんです。そのあと韓国に戻ってDJでかけたら、みんなが踊り狂い始めたらしくて(笑)」(脇田)

脇田が2017年11月にリリースしたシングル「WINGSCAPE」は、彼女の楽曲を数多く手がける新井俊也(冗談伯爵)がプロデュースしたサンバテイストのダンスチューン。そのシングル発売イベントにたまたま居合わせた“長谷川さん”こそが、韓国と日本をつなぐ重要人物、長谷川陽平だ。長谷川は1980年代後半のネオGS周辺(参照:渋谷系を掘り下げる Vol.2 多くの才能を輩出したネオGSシーン)でバンド活動を行っていたが、GSと共通した匂いを持つ韓国の音楽に強く惹かれ、90年代半ばに韓国へ移住。現地でさまざまなアーティストのプロデュースを手がける中、彼がプロデューサー兼ギタリストとして参加したバンド「チャン・ギハと顔たち」はインディーズながら国民的ヒットを記録した。もともとレコードコレクターであった長谷川はバンドの解散と前後してDJとしても活動を始め、韓国のマニアックなレコードと共に日本の音楽もプレイしていた。そんな中、現地の若者から特に反応がよかったのが、いわゆるシティポップだったという。日本から脇田のシングルを持ち帰った長谷川が、山下達郎や竹内まりやの流れで「WINGSCAPE」をかけると、そこに居合わせた現地のDJ仲間が「今のは誰だ!?」と反応。韓国のDJたちは慌てて脇田のレコードを探し求め、やがて「WINGSCAPE」は韓国のクラブシーンでアンセムと化した──という流れだ。

「どの国でも同じなのですが、韓国でもシティポップのキャッチーなメロディであったり、一緒に歌える部分があったりすると特に受けるんですよ。そして独特の多幸感がある曲とか。大橋純子さんの『テレフォン・ナンバー』の『アウ~!』とか、比屋定篤子さんの『まわれ まわれ』のサビ部分とか。そこに皆でブチ上がる一体感を求めるんです。もなりさんの『WINGSCAPE』を聞いたとき、ラテン下敷きの『ラ~ラ~ラ~ラララ~!』という部分を聴いて、これは絶対受ける!!と思って即買いしました。その週末のパーティに即投入、フロアに青い光を放つスマホが舞い、DJたちが『これ誰?』とブースに寄ってきました。思った以上の反応でしたね。それからはピークの“ラテンリズムタイム”に必ずミックスするようになって……このくらい浸透したなら、これはもう本人を呼ぶしかない、と。で、やはりの大・大成功でした。何よりもあのときのもなりさん、歌いながらの笑顔が最高でした。この瞬間のためにかけ続けてきたんだな……と報われる感じでした」(長谷川陽平)

本人の知らぬ間に「この界隈じゃ誰もが知ってるヒット曲」となっていた脇田の「WINGSCAPE」。ちなみに韓国ではアナログレコードの需要が非常に高く、クラブに通う20代の音楽ファンも熱心にレコード収集をしているとのことで、脇田が物販で持参したレコードも飛ぶように売れたという。

「ほかのグッズには目もくれず(笑)、みんなとにかくレコードを欲しがってました。韓国というとやっぱりK-POPの印象があるから、もっとダンスバキバキの、EDMみたいな音楽以外は受け入れられないのかなという勝手なイメージを持ってたんですよ。KARAや少女時代みたいにダンスがうまくてスタイルよくて……みたいな、エンタメの最上級みたいな街に、私みたいなのが行って大丈夫なのかなって(笑)。でもみんな、もっとゆったりしたシティポップを気持ちよさそうに楽しんでいて。お客さんは女性が多くて、私と同じくらいかもっと若い子もたくさんいてビックリでした。みんな『全力で音楽に浸りに来ました』みたいなハッピーオーラが出ているのが印象的で。歌っていて楽しかったし、私も幸せな気持ちになりました。なんの先入観もない、音楽だけでつながる場所で歌を歌って、それが受け入れられたことは……これからの音楽人生の中で大きなターニングポイントになるかもしれません」(脇田)

宵っ張りの国民性が作用したクラブシーンの活性化

脇田がソウルに到着したのはライブ前日の深夜。ソウルの市場は夜中も大賑わいで、脇田一行はさっそく本場の韓国グルメを満喫したという。ソウルのクラブシーンが夜も盛んなのは、そういった“宵っ張り”の国民性もあるが、もう1つ日本と大きく違うところがあるようだ。ちなみにそれはタクシーの運賃。車で1時間ほどの距離にある郊外でも、東京で言う新宿-渋谷間程度の運賃で移動できるそう。

脇田が出演したイベント「This Is The CITY LIFE」がスタートしたのは22:00。長谷川と現地の人気DJ・Tiger Discoがプレイするシティポップが空間を満たし、夜は少しずつ深まっていく。そしてこの日のスペシャルゲスト、Monari Wakitaの名が告げられると、“あの「WINGSCAPE」”を歌うジャパニーズシンガー・脇田もなりの“ご本人登場”に脇田自身も驚くほどの大盛り上がり。日本から駆け付けたファンはほんの数人で、フロアにいた客のほとんどは音楽が大好きな韓国の若者たちだったが、シティポップが大流行しているこの街においては“現役シティポップシンガーの来日”という特別なものだったのだろう。脇田はこの日、昼間に立ち寄った乙支路(ウルチロ)4街のカフェで韓国語を猛勉強していた。MCで伝えたいことを韓国語で話すためだ。「韓国に来るのはプライベートを合わせて2回目です」「今日は冷麺を食べました」などのたわいないトークのほかに、彼女はこんなメッセージを用意していた。

「今日は韓国の皆さんにプレゼントを持ってきました。カバー曲を歌います。準備はOKですか?」

新井俊也がこの日のためにアレンジした「Plastic Love」のイントロが流れると、真夜中のフロアは大きく沸いた。そしてやはり、当然のように日本語で合唱する韓国の若者たち。新井は「できるだけ原曲に忠実なアレンジがいい」という脇田のリクエストを踏まえつつ、70年代後期のアーシーなサウンドよりも80年代中~後期のエレクトリックで硬質なビートが好まれるという韓国シティポップのトレンドを意識したトラックを用意した。

「もともと好きな曲で、いつかカバーしたいなと思っていたんですけど……ちょっと恐れ多いなと思って遠慮してたんです。でもシティポップが好きな韓国の皆さんに会いに行くと考えたときに、みんなが喜んでくれるような歌を日本語でプレゼントしたいなと思ったんです。そしたら新井さんが『じゃあアレンジ作ってあげるよ』って、この日のためにオケを用意してくれて。『Plastic Love』を歌い始めた瞬間……みんな一緒に日本語で歌うんですよ! すごかったです。熱唱でした。シティポップが世界共通のものになってるんだな、というのを目の当たりにしました」(脇田)

30分ほどのステージを終えた脇田は、物販スペースで観客との交流を楽しんだ。言葉が通じない国でも、今は翻訳アプリなどの便利な機能を使えば気軽にコミュニケーションが取れる。「こっちに来てくれるのを待ってました」「すごくよかった!」「今日初めて観たけどよかったのでレコードをください」といったやりとりの中で、もっとも多かったのは「インスタをフォローしたからこれから見るね」「写真を撮ってください」といった言葉。韓国は日本以上にInstagram文化が盛んで、脇田はこの夜だけでInstagramのフォロワーが120人増加したという。

“現役のシティポップアーティスト”を世界へ

脇田はさらに翌日、弘大のとあるレコードバーで行われたパーティにもシークレットゲストとして出演した。バーのある場所は南青山などを思わせるおしゃれなゾーンで、客層は前夜よりもさらに若かったそう。ベレー帽にボーダーシャツを合わせたような、かつての“オリーブ少女”を思わせるファッションが流行しているそうで、あたかも90年代の渋谷にタイムスリップしたような感覚だという。

「いきなり同い年ぐらいの女の子に『めっちゃいいね』って声をかけられて、パンをもらいました(笑)。韓国の人はウイスキーはほとんど飲まないらしいんですけど、私が来ると聞いてオーナーさんがハイボールを頼んでくれていたんです。みんな優しい! バーカウンターにいた子が『自分もシンガーソングライターなんです』って声をかけてくれて、あとで『すごくよかった』ってインスタでメッセージを送ってくれました」(脇田)

さらに脇田は韓国の音楽シーンの今を広く体感すべく、弘大の中心地にあるクラブへと移動。そこは六本木と宇田川町を混ぜ合わせたような雰囲気で、不良っぽい若者が多く、少々物騒なムードだったという。この日行われていたのは有名なストリートマガジンの周年イベントで、アンダーグラウンドなシーンで人気を誇るアーティストが集結。ヒップホップが中心ながら、夜中の3時にNirvanaで大暴れするような、混沌とした若いエネルギーに満ちた空間だったそうだ。クラブから発信されるカルチャーはもちろん日本にも根強くあるが、風営法の問題などもあり、かつてほどの盛り上がりはなくなってしまったところも感じられる。90年代のクラブカルチャーを体験した世代の長谷川や脇田に帯同したVIVID SOUNDのスタッフは、韓国の若者たちが持つカルチャーへの熱量に、どこか懐かしさを感じるという。

「日本はシティポップをリバイバルとして捉えているけれど、韓国では“今まさに盛り上がっている音楽”なので熱量が違う。レイヤーが違うんですよ。中心にいるとわからないことが、外から見るとその本質が浮き彫りになるようなところもあって。日本ではシティポップは言わずもがなというか、アーティスト側がわざわざシティポップを冠するのはダサいという傾向にありますよね。だから脇田もそういうキーワードを使わずに来ましたけど、世界に視野を向けて考えたとき、この“シティポップ”という言葉を大事に使っていくべきなんじゃないかと。今シティポップが世界に広がっているのは間違いなくて、そこの最前線に脇田が行ければ。僕らは解釈として間違いのないものを伝える自信もあるので。韓国だけじゃなく、バンコク、台湾……今年はいろいろと攻めてみたいです」(VIVID SOUND・N澤氏)

日本におけるシティポップの“再発見”は、熱心なディガーやポップスの歴史に詳しい識者たちが丁寧に文脈を掘り下げ、整頓し並べた上に成り立っていると言えるだろう。がゆえに「シティポップかくあるべし」といった見えない線引きが発生し、ある種の柔軟さを失っているのも事実。一方、韓国で起こっているシティポップブームは、文脈から離れたところで自由な受け取られ方をしているように見える。またシティポップのオリジネイターたちが皆ベテランとなった今、フットワークの軽い“現役のシティポップアーティスト”として脇田をはじめとする日本のアーティストが海外に発信していくのは、確かに有意義かもしれない。2020年の音楽シーンに合わせてアップデートされた、現行の国産シティポップ。ソロ転向から3年が経ち、順調にリリースとライブを重ねながらも将来的な活動には不安を抱えていたという脇田にとって、韓国での経験は大きな実りをもたらしたようだ。

「普段日本で活動しているときはいろいろ気にしすぎて、メンタルを壊しちゃったりすることもないことはなくて。毎年アルバムが出せているのは幸せなことだけど、ずっとこのルーティンが待っているのかな、これ以上進むことはなく年齢を重ねて『ちょっと休止します』みたいなこともあるのかな……ほかのアーティストの皆さんの解散や休止を見てそう思うこともありました。でも韓国で、私を知らない人から純粋に『音楽めっちゃいいじゃん、歌いいじゃん』って言ってもらえたときに、ただ自分がやりたい音楽を貫いて、世界の皆さんに聴いてもらえばいいんだと気付かされたというか。変な先入観が飛んだので、韓国にはすごく感謝しています。『気にしなくていいや』という気持ちになったら、そこからのライブが楽しくて。韓国でこうやって受け入れられたということは、ほかの国だとどういう反応があるんだろう?って考えると、まだまだがんばれることはいっぱいあるなって。壁を破れて一皮剥けました」(脇田)

脇田もなり(ワキタモナリ)

1995年1月28日、長崎・五島列島出身のシンガー。2012年にEspeciaのメンバーとしてアーティストデビューを果たし、4年間の活動を経て2016年2月にグループを卒業。その後9月にソロでの活動再開を発表して話題を集めた。同年11月に1stシングル「IN THE CITY」でソロデビュー。以降コンスタントにリリースを重ね、伸びやかな歌声とシティポップの流れを汲む洗練された楽曲で広く支持を集めている。2019年7月に通算3枚目のフルアルバム「RIGHT HERE」をリリース。2020年2月には韓国でも人気のナンバー「WINGSCAPE」を含む2018年発表の2ndアルバム「AHEAD!」が12inchアナログで再リリースされた。

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取材・文 / 臼杵成晃(音楽ナタリー編集部) 写真提供 / VIVID SOUND